Music: Across the Universe

大阪本町・歴史倶楽部 ANNEX 
沖縄・史跡と考古の旅
〜2018年2月 沖縄の旧石器人と南島文化を訪ねる〜

伊計島 仲原(なかばる)遺跡 仲原遺跡 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
仲原遺跡は、沖縄県のうるま市伊計島にある縄文時代晩期 - 弥生時代前期(沖縄貝塚時代中期)にかけての村落跡である。 所在地は、沖縄県うるま市与那城伊計。縄文時代後期(約2500年前−2100年前:沖縄貝塚時代中期)の沖縄県の代表的な 村落跡である。沖縄県内で、最大の竪穴式住居跡であり、そのいくつかが復元整備されて、現在は「イチの里 仲原遺跡」 として観光地となっている。住居遺構は23基発見され、最大5 − 6m程度のものと少数の2 - 3m程度のもの数基で群落を 形成していたと見られている。1978年、 沖縄大学沖縄学生文化協会により発見され、1986年、国の史跡に指定された。 <出土遺物> 土器 仲原式土器(深鉢尖底型、壺型) 石器 石斧、磨石など 他  人骨、魚骨、獣骨 貝製品(イモガイ小玉) バスを降りて暫く歩くと、畑の中にこんもりとした林が見える。あそこが仲原遺跡のようだ。だとすると、あの林は遙か縄文時代から 集落を囲む林としてあったのだろう。山や丘も無く、台風の通り道のような沖縄にあって、暴風雨から集落を守るとすれば木を植える しか無い。 縄文晩期から弥生時代早期と言えば、九州北部に水耕稲作が伝わり、菜畑遺跡(佐賀県唐津市)には日本最古の水耕稲作の跡が残って いるし、稲作以外にも、野菜の栽培、家畜の飼育も行っていた事が証明されている。紀元前 B.C.300頃には、本土では鉄器の使用も始 まっている。吉野ヶ里遺跡に人々が住み始め、やがて倭国は百余国に別れ分立し、戦いに明け暮れるようになる。楽浪郡との通交も始 まり、魏志倭人伝に記されたような稲作の定着、環濠ムラが出現する。その頃の沖縄はどういう環境にあったのだろう。ムラは結束し クニの基盤が出現していたのか。それとも独立したムラとして存続し続けたのか。 「イチハナリ」とよばれる伊計島のちょうど中心にあるのが「仲原遺跡(なかばるいせき)」である。元はサトウキビ畑だったが、調 査によって竪穴式住居跡が発掘され、土器や鉢、壺、石斧なども出土した。沖縄県内最大の、23基の竪穴式住居跡を見ることが出来る。 伊計島のほぼ中央、平地部分に営まれた縄文時代のムラの跡。約2500年〜2000年前となる縄文時代晩期の竪穴式住居跡がみられ、沖縄県 内でも最大規模とされている。付近からは当時の生活を推察する手がかりとなる土器などが出土している。現在は遺構の保護を目的に盛 り土された上、竪穴式住居が復元されている。 復元が正確だとすれば、本土の竪穴式住居とはだいぶ趣が違う。住居の裾を石で囲っているし、遺跡内の説明文によればどの住居跡にも この「縁石」がある。壁や屋根の復元はおそらく推測もあるのだろうが、風雨に耐えられるようにかなり頑丈に作られているように見え る。 建物内に墓を作っているというのは、本土の竪穴式住居ではあまり例が無い。それとも初めから墓として建てたのだろうか。本土の縄文 遺跡では、まず墓は別区域として作られている。青森の三内丸山では、子供の遺体を住居の入り口付近に埋めている例があったが、それ でも生活する住宅の中では無い。ここはどういう性格の建物だったのだろうか。 土の中を掘り起こして少し窪んだ地面の周りを石で囲っている。屋根は藁葺きだったのだろうが、中に入ると空気がひんやりとしている。 大型獣やサケ・マスなどの居ない沖縄では、主食は何だったのだろうか。鯨の骨が出土しているから、海で鯨を捕っていたのは間違い無 いと思われるが、煮炊きに使う土器も出土しているので、海産物は勿論の事、原始的な農業も行っていたのでは無いだろうか。 石斧が沢山出土しているのを見ると、元々このあたりは樹木の生い茂る原生林だったのかもしれない.その中を石斧やその他の石器で 切り開き、中に住居を作っていったとも考えられる。むしろその方が正解かもしれない。 仲原遺跡のパンフレットは以下をクリック。
 邪馬台国大研究/歴史倶楽部/例会ANNEX 沖縄・旧石器人の旅