Music: Across the Universe

大阪本町・歴史倶楽部 ANNEX 
沖縄・史跡と考古の旅
〜 2018年2月 沖縄の旧石器人と南島文化を訪ねる 〜

山下町第一洞穴遺跡(県指定史跡)
バスに乗り込み、30分ほどで「山下第一洞窟遺跡」に到着。ここは日本最古の人骨が発見されたところである。3万2千年前の人骨が 出たのだ。 山下町第一洞穴遺跡 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(以下青字部分全て) 山下町第一洞穴遺跡(やましたちょうだいいちどうけついせき)は、沖縄県那覇市にある旧石器時代の遺跡。1962年(昭和37年)に発見 され、日本最古とされる山下洞人の人骨や旧石器が出土した。沖縄本島南部の那覇市山下町1の67番地に存在する洞窟である。現在は公園 として整備されている。 沖縄本島南部の地形は、島尻層群と呼ばれる新第三系が土台となり、それを覆うように琉球石灰岩と呼ばれる石灰岩層がほぼ水平に海岸 に沿って広がっている。島尻層群は海成層であり、シルト岩を中心にして、下は厚い砂岩層が発達している。琉球石灰岩は古い方から、 那覇石灰岩、読谷石灰岩、牧港石灰岩に三区分されている。 那覇港の南岸に平行して東西方向に直線的に連なる海抜40mの那覇石灰岩の丘陵があり、その北側は急斜面ないし絶壁を形成している。 この丘陵には幾つかの洞穴が開口しているが、山下町第一洞穴はその北斜面中腹に形成されたものの一つで、南北に開口する間口は約1.2m、 奥行き5.5m、高さ3.2mである。 アメリカ施政権下の1962年(昭和37年)、神事を行っていたコザ市(現・沖縄市)在住の比嘉初子が、第一洞穴から多くのシカの化石骨を 発掘し、琉球政府文化財保護委員会へ届けたのが発端である。その中に人為的な加工を施された骨が数点見つかり、現地を視察した同委員 会の宮里栄輝と沖縄大学の高宮廣衞が緊急調査を行うことを決定した。 第一次調査は琉球政府文化財保護委員会が主体となって1962年12月28日〜31日の4日間行われ、多和田真淳・高宮廣衞を責任者に沖縄大学 学生が3人、それに地主が立ち会った。さらに1968年(昭和43年)、東京大学に設置された「沖縄洪積世人類遺跡調査団」によって第二次 調査が行われた。 1962年の発掘調査で、更新世と考えられる木炭層から3点の旧石器が出土した。この木炭層は、人間により整地された「生活面」と考えら れ、焼土(炉跡)、焼礫集中部(礫群)という遺構が存在していた。年代は約3万2,000年前と測定されている。 石器の石材は洞穴内に自然に存在したものでなく、別の場所から持ち込まれた搬入石材であり、さらに同石材(細粒砂岩)は石器の素材と しての条件を十分に満たしたものであった。つまり、石器として人間によって持ち込まれた石材であったのである。 石器表面の観察では、3点共に自然礫に人為的な打痕、磨耗痕、それに打割調整と整形痕が認められ、石器として使用された製品(人工品) であることが確実とみられる。 1968年の第二次発掘調査で、脛骨1点、大腿骨1点、腓骨1点の計3点の化石人骨片が出土した。これらの人骨と石器が出土した層準はほぼ同 じ時期とされ、これは日本で初めて両者が供伴した重要な遺跡といえる。  まだアメリカ施政権下の1962年(昭和37年)、コザ市(現・沖縄市)の女性がここで神事を行っていた際、多量のシカの化石骨を 発見した。その中に人為的な加工を施された骨が数点見つかり、琉球政府文化財保護委員会と沖縄大学によって緊急調査が行われた。第一 次調査は琉球政府文化財保護委員会が主体となって1962年12月28日から4日間行われ、更新世と考えられる木炭層から3点の石器 が出土した。この木炭層は、人間により整地された「生活面」と考えられ、焼土(炉跡)、焼礫集中部(礫群)という遺構が存在していた。 この遺跡は、住宅地の中にぽつんとココだけ取り残されたように保存してある遺跡である。周囲は公園になっており、親子連れやカップル がちらほらいる。周りは戸建て住宅とビルばかり。洞窟の入り口となっている所を見ても、もう洞窟は見えない。完全に埋め戻されている。 公園には子供たちも多いので、塞いでおかないと危険なのだろう。その代わり、公園内には遺跡の説明版が結構設置されていた。 遺跡全体はいま公園になっており、アチコチで家族連れやカップルが遊んでいる。 学術的詳細 「那覇市観光資源データベース」HPより転載。 文化財(県指定史跡)指定年月日;昭和44年8月26日 「旧石器時代の存在を証明した遺跡」 奥武山公園の南西側、山下町1丁目の住宅地域の丘にある旧石器時代の洞穴遺跡。洞穴は幅約1.2m、高さ約3m、奥行き約5mの小さなもの で、1962年に発見され、2度に渡って発掘調査が行われた。洞穴内に堆積した遺物を含んだ土や木炭の層は、約3mと厚く、6つの時代に分 けることができた。洞穴の最も深い層(第Y層)からは鹿の角や骨で作った道具である骨角器(こっかくき)が発見された。鹿の骨と一緒 に7歳ほどの女児の骨も出土した。人類学者により「山下洞人(どうじん)」と名付けられている。また第V・X層から出土した木炭の年 代を測定したところ、今から約3万2千年前と分かった。その時代に山下洞人も住んでいたことになるこの洞穴遺跡は、沖縄県にも数万年前 の旧石器時代から人が住んでいたことを証明してくれた重要な遺跡である。 <情報引用元> 那覇市教育委員会文化財課(2007)『那覇市の文化財』那覇市教育委員会 山下町第1洞穴出土の旧石器について  小田静夫(「黒潮圏の考古学」HP)  年代は炭素年代法によって、約3万2千年前と測定された。石器は洞穴内に自然に存在していたものでなく、別の場所から持ち込まれた ものであり、3点共に自然礫に人為的な打痕、磨耗痕、それに打割調整と整形痕が認められ、石器として使用された人工物であることが確 実だった。  1968年(昭和43年)、東京大学の「沖縄洪積世人類遺跡調査団」によって第二次調査が行われ、この調査で、脛1点、大腿骨1点、 腓骨1点の計3点の化石人骨片が出土した。  およ8歳くらいの小児のものであろうと推定された。人骨と石器が出土した層は同時期とされ、一躍この遺跡は、旧石器人「山下洞人」 の人骨や旧石器が出土した、極めて重要な遺跡となった。   ここから出土した人骨は、現在でも日本最古の旧石器人骨である。
 邪馬台国大研究/歴史倶楽部/例会ANNEX 沖縄・旧石器人の旅 第一日目