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大阪本町・歴史倶楽部 第232回例会 国際交流サービス(株)「新潟・縄文の旅」ツアーに参加  <HP制作完了日: 令和2年(2020年)12月31日>
日 時 : 平成30年10月17日−19日 参加者 : 河原、橋爪、大隈、筑前
今回の例会は、外部のツアーに参加する事になった。大阪市本町に本社を構える 国際交流サービス(株)の「新潟・縄文の旅」である。この会社は歴史や考古学 を対象にした「歴史」専門の旅行社である。従って観光地にはまず行かない。 遺跡や名所旧跡を巡り、その対象となる時代は、旧石器時代から主に平安時代ま でくらいになるが、勿論訪問地に著名な史跡があればそこも巡る。関西の歴史学 専門の研究者が随行してくれるので、資料を見ながらバスの中や遺跡を前にして その解説が聞ける。 私(筑前)はこれまでに何回かこの会社のツアーに参加したので、歴史倶楽部の 連中に打診して、今回4人で参加することにした訳である。我々はこのような形 でのツアーを、今まで例会として自分達で行ってきたのであるが、企画して調査 して、各種機関に連絡を入れ、宿を予約する労力は、並大抵のことではない。 一度、東海地方の弥生遺跡の旅を企画した時など、静岡県の登呂遺跡の資料館が、 訪問当日から三年間のリニューアルに入ったのに遭遇した。前日までは開館して いたのだ。調査不足で参加者に多大の迷惑を掛けてしまった。そこで多少費用は かさむが(かと言ってさ程の違いがあるわけではない。一万円程の差である。)、 一切合切を面倒見てくれるツアーに便乗した方が楽なのである。私が副会長を務 める(当時)全邪馬連の小宮山さんや、今までのツアーで同行した人の顔も2, 3あった。 邪馬台国に負けず劣らず、私は旧石器や縄文時代にも興味がある。というか、日 本人の起源とその発展に興味があるのだ。特に縄文時代は、その期間の長さと牧 歌的な生活・文化に惹かれるのである。NPO法人の「国際縄文学協会」という 団体にも加入しているくらいだ。今回の旅では、個人的にはもう訪問した所が三 分の一くらいあったのだが、ほかのメンバーにもこれらの縄文遺跡を見せたいと いう気持ちと、もう一度見たいという気持ちでこのツアーを提案した。 各訪問地で収集した資料が見当たらない。どっかにあるとは思うのだが、見つか らない。仕方がないのでウィキとその他NET内から集めてきた資料で構成する ことにした。申し訳ない。 また、HPの中で青線枠で囲まれた資料は、今回の旅のために二上山博物館(奈 良県香芝市)の松田真一館長が作成されたものを転載しています。松田館長、並 びに国際交流サービス(株)様に感謝します。尚、以下のマリリン写真は特にツ アーとは何の関係もありません。モンロ−が随行したわけではありませんので、 念の為。 [縄文時代概説] <ウィキペディアに加筆> 最終氷期の約2万年前の最盛期が過ぎると地球規模で温暖化に向かった。最後の 氷期である晩氷期と呼ばれる約1万3000年前から1万年前の気候は、数百年で寒冷 期と暖期が入れ替わるほどで、急激な厳しい環境変化が短期間のうちに起こった。 それまでは、針葉樹林が列島を覆っていたが、西南日本から太平洋沿岸伝いに落 葉広葉樹林が増加し拡がっていき、北海道を除いて列島の多くが落葉広葉樹林と 照葉樹林で覆われた。コナラ亜属やブナ属、クリ属など堅果類が繁茂するように なった。北海道はツンドラが内陸中央部の山地まで後退し、亜寒帯針葉樹林が進 出してきた。そして、日本海側と南部の渡島半島では、針葉樹と広葉樹の混合林 が共存するようになる。また、温暖化による植生の変化は、マンモスやトナカイ、 あるいはナウマンゾウやオオツノジカなどの大型哺乳動物の生息環境を悪化させ、 約1万年前までには、日本列島からこれらの大型哺乳動物がほぼ絶滅してしまっ た。 縄文時代は旧石器時代(?− 紀元前15000年頃)に継ぐ日本の時代区分である。 つまり紀元前1万5千年頃から紀元前 4,5世紀頃までを言う。一時、千葉県佐倉市 にある国立民俗学博物館のグループが、炭素14年代法を用いたという触れ込みで、 縄文時代の終わり、即ち弥生時代の開始を紀元前10世紀頃という説を出したが、 これは誤りである。彼らが日本考古学会で行った報告以外には証明されてはいな いし、学界ではこのグループの研究結果は悉く疑問視されている。縄文に継ぐ弥 生時代の開始は、今のところ紀元前10世紀までは遡らない。世界史上では中石器 時代もしくは、新石器時代に相当する時代である。 旧石器時代と縄文時代の違いは、一般的に、土器と弓矢の発明、定住化と竪穴式 住居の普及、貝塚の形成などが挙げられるが、これらも判然としているわけでは ない。土器や定住化は旧石器時代の終わりに開始された形跡も見受けられる。 事程左様に縄文時代の開始期と終末期については多くの議論があるし、またその 終末期については、地域によっても相当の差異を生じている。通常、水田稲作や 金属器の使用を特徴とする弥生文化の登場で縄文時代の終末とみなしているが、 沖縄や北海道には弥生文化の流入がない。沖縄では縄文時代は貝塚時代前期に区 分され、次の時代は貝塚時代後期となり、縄文・弥生時代は貝塚文化と呼ばれる。 北海道(北東北の一部も含む)では、日本本土に弥生文化が出現した後も、縄文 時代の生活様式が継承されたため、縄文時代の次の時代は続縄文時代と呼ぶ。 明治時代、留学から帰国した濱田耕作が京都大学に考古学科を創設したことに始 まる日本の先史時代の研究は、当初は石器時代という概念で先史時代を捉えてお り、その中で縄文土器を使用した時期と、弥生土器を使用した時期が同時に存在 したという認識がもっぱらだった。縄文土器と弥生土器の違いは地域性の違いに 日本列島の先史時代の住民をアイヌやコロポックルと考える説も有力であり、こ れらの説が退けられたのは1920年代である。だがこの時期には記紀神話を日本列 島の先史時代の歴史とする歴史叙述が力を持ち、考古学の知見に基づく日本列島 の先史時代像が、学界を超えて本格的に形成され始めたのは、第二次世界大戦後 となるのである。今日では全く当たり前のように思えるが、濱田耕作の残した考 古学の定理の一つに「下の地層から出土した遺物は、上の地層の時代よりも古い」 というのがある。 戦後に編纂された歴史教科書では日本列島の先史時代に弥生文化と縄文文化の二 つの文化の存在を示していたが、登呂遺跡や岩宿遺跡の発掘など考古学上の大き な事件が続いたことも影響し、1959年から60年にかけて日本考古学協会から刊行 された『世界考古学大系』1巻および2巻において、学界における「縄文時代」 「弥生時代」の区分が確立された。 縄文時代は、縄文土器が使用された時代を示す呼称であったが、次第に生活内容 を加えた特徴の説明が為されるようになり、磨製石器を造る技術、土器の使用、 農耕狩猟採集経済、定住化した社会ととらえられるようになった。だが先述のよ うに、縄文文化は日本列島のどの地域でも同質のものだったのではなく、多様な 地域性を備えた文化群であったことが指摘されている。 「縄文」という名称は、エドワード・S・モース(Edward S. Morse 1838年 - 1925年)が1877年(明治10年)に大森貝塚から発掘した土器を Cord Marked Pottery(縄目模様の土器)と報告したことに由来する。この用語は矢田部良吉 により「索紋土器」(さくもんどき)と訳されたが、後に白井光太郎が「縄紋土 器」と改めた。続いて、「縄文土器」という表記が用いられるようになった。 時代の名称が「縄文時代」に落ち着くのは戦後のことである。 縄文土器の多様性は、時代差や地域差を識別する基準として有効である。土器型 式上の区分から、縄文時代は、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に 分けられる。研究当初は、前・中・後の三期区分だったが、資料の増加や研究の 進展によって早期、晩期が加わり、最後に草創期が加えられた。そうした土器研 究上の経緯を反映した時期区分であるため、中期が縄文時代の中頃というわけで もなく、生業や文化内容から見た時代区分としても再考の余地があるものの、慣 用化した時期区分として定着している。しかし縄文時代の文化史的区分について は、研究者によって幾つかの方法があり、現在のところ学界に定説が確立されて いるわけではない。 遅くとも縄文中期(BC 5,000年)頃にはヒスイ製勾玉が作られていたことが判明 しており、特に新潟県糸魚川の「長者ケ原遺跡」からはヒスイ製勾玉とともにヒ スイの工房が発見されている。蛍光X線分析によると青森県の「三内丸山遺跡」 や北海道南部で出土されるヒスイは糸魚川産であることが分かっており、このこ とから縄文人が広い範囲でお互いに交易をしていたと考えられている。後年には 日本製勾玉は朝鮮半島へも伝播している。 縄文人が製作した土偶は、縄文時代の全期間を通して日本列島各地で満遍なく使 われていたのではなく、時期と地域の両面で限定されたものであった。すなわち、 縄文早期の更に前半期に関東地方の東部で集中的に使用された後、縄文中期に土 偶の使用は一旦消滅している。その後、縄文後期の前半に東日本で再び土偶が使 用されるようになる。一方、それまで土偶の使用が見られなかった九州において は、縄文後期になって九州北部および中部で土偶が登場している。 縄文農耕論は、明治時代以来の長い研究史があり、農耕存否の論争は現在も続い ている。縄文時代に植物栽培が行われていたことは確実であると考えられている。 福井県の鳥浜貝塚の前期の層から栽培植物(アズキ、エゴマ、ウリ、ヒョウタン、 ゴボウなど)が、早期の層からヒョウタンが検出されている。一方、北部九州の 後・晩期遺跡の遺物で焼畑農耕が行われていた可能性が高いと考えられている。 福岡県下の後・晩期遺跡の花粉分析、熊本市の遺跡でイネ、オオムギ、大分県遺 跡でイネなどが検出されており、東日本からも、同じく後・晩期の10個所を超え る遺跡からソバの花粉が検出されている。これらも焼畑農耕による栽培であると 推定されている。現在ではプラント・オパールの研究により、縄文時代後期から 晩期にかけては熱帯ジャポニカの焼畑稲作が行われていたことが判明している。 三日間のツアーの模様は、それぞれ以下のアイコンをクリックしてください。 その日の訪問記録になっています。尚、このHPは、訪問から2年後の令和2年 (2020年)に制作しました。参加された皆様、長いことお待たせしてすみません でした。勘弁してケロ。
   邪馬台国大研究/歴史倶楽部/第232回例会・新潟・縄文の旅