Music: 想い出のサンフランシスコ






	
	歴史倶楽部の例会としては「いずみさの市」訪問は初めてでは無いかしらん? 以下、ウィキペディアより。
	
	泉佐野市(いずみさのし)は、大阪府泉南地域に位置する市。大阪市と和歌山市のほぼ中間に位置し、南部
	には金剛生駒紀泉国定公園に指定された和泉山脈がある。瀬戸内式気候に属するため、気候は温暖で、年間
	の降水量は比較的少ない。 沖合には人工島の関西国際空港があり、連絡橋等の空港北端の施設を含む区域
	が泉佐野市域となっている(残る区域は田尻町・泉南市)。
	古くから日根郡の中心として、商業・工業・農業・漁業が盛んである。また、関西国際空港の対岸であるた
	め、訪日外国人旅行者の宿泊需要が多い。

	中世以来の村の名称『佐野』に旧和泉国の国名を冠したもので、「狭い原野」という事から「狭野」という
	ようになり、それが転じて「佐野」になったという言い伝えが残っている。
	市域は日根郡四郷のひとつである賀美郷に比定され、郷名由来の上之郷の集落も現存している。中世になる
	と佐野荘、鶴原荘、長滝荘といった荘園が成立し、1234年(天福2年/文暦元年)には九条家によって広大
	な日根荘が成立した。1501年(文亀元年)から1504年(永正元年)にかけて九条政基が日根荘へ下向した際
	に記した『政基公旅引付』(宮内庁書陵部蔵)には、4年間にわたる日根荘の出来事などが詳細に記され
	おり、中世の「村のくらし」を知る貴重な史料となっている。
	佐野村では室町時代から熊野街道筋の字市場村に定期市が立つようになった。一方、沿岸部には対馬や五島
	列島方面まで漁に出るほどの大規模な船団が出現し、玉之浦納の反乱や文禄・慶長の役にも佐野村の漁民が
	登場する。江戸時代には豪農の中から廻船業を営む者が現れるようになり、なかでも食野家(めしのけ)、
	唐金家(からかねけ)は井原西鶴の「日本永代蔵」にも登場するほどで、当時の面影を残す「いろは四十八
	蔵」の一部が今も残る。また食野家が寄進した八角大梵鐘が三重県泰運寺に残されている。
	漁業や廻船業が発展し「佐野浦」と呼ばれる港町として活況を呈した佐野村は、集落のおよそ3分の2が浦方
	で、その規模も岸和田藩浦奉行支配の9ヶ浦のなかで突出していた。また、岸和田藩は領内の民政に関して
	「七人庄屋」という制度を設けていたが、7人のうち2人を佐野村が占め、藤田家(西の庄屋)と吉田家(東
	の庄屋)が任ぜられていた。
	食野・唐金らの活躍で巨万の富を得た佐野村は、和泉国では堺に次ぐ商業都市となり、人口も岸和田城下6
	町や貝塚寺内5町を上回るようになった。なお、堺・岸和田・貝塚など計画的に形成された市街と異なり、
	佐野村の町場は自然発生的に形成され、迷路のような街路が古い家並みとともに現在もよく残っている。
	第二次世界大戦期の1944年(昭和19年)6月から敗戦までの間、佐野陸軍飛行場および明野陸軍飛行学校佐野
	分教所が設置されていた。滑走路は 1,500m×60mのコンクリート舗装1本で、現在の末広公園や市民総合体育
	館付近が滑走路の西端にあたる。また、飛行場の設置に伴う灌漑施設の損失を補填するため、現在も当市最
	大の貯水量を誇る稲倉池および稲倉池用水パイプラインの築造工事が1942年(昭和17年)12月から着工され
	たが、戦局の悪化と敗戦の影響で、竣工は1957年(昭和32年)にずれ込んだ。

	泉南市(せんなんし)は、大阪府泉南地域に位置する市である。沖合の関西国際空港の一部も市域とし、
	空港に関する産業活性化が図られている。キャッチフレーズは「豊かな環境・支えあい、人を大切にする泉
	南市〜みんなで夢を紡ぐ 生活創造都市〜」らしい。
	市域は日根郡に含まれ、古代の呼唹(おの)郷にあたる。市西部の男里にある男神社(おのじんじゃ)の元
	宮(浜宮)の旧蹟は、日本神話の神武東征において、五瀬命(神武天皇の兄)が雄叫びをした雄水門(おの
	みなと)の比定地のひとつである。
	江戸時代には岸和田藩領、同預かり地、京都守護職役知、淀藩領、社領が入り組む畿内型であった。 社領
	は1868年から大阪府、他は1871年7月の廃藩置県により岸和田県などとなり、11月から堺県、そして1881年
	から大阪府の行政下となった。







































「撮影禁止」が相当頭にきてたんだなぁ。森田うんぬんは、私の高校の後輩で某市の市長です。



	三軒屋遺跡

	上之郷の樫井川右(東)岸、長滝周辺にある縄文時代から江戸時代までの遺跡。1971(昭和46)年の発見以来、
	毎年発掘調査が行われている。縄文後晩期の石器や土器・遺構が発見されているほか、弥生・古墳時代の竪穴
	式住居跡や方形周溝墓、はにわ、土器、石器なども見つかっている。縄文時代の遺跡は、大阪府下では数少な
	いことから注目されているが、残念ながら今のところ住居跡はまだ発見されていない。長滝地区はこの遺跡群
	の中にあり、古墳も存在していたようである。



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	日根神社 (ウィキペディア)

	所在地    大阪府泉佐野市日根野631-1 
	主祭神  ウガヤ葺不合尊、玉依姫尊 
	社格等  式内社、和泉五社の一、府社 
	創 建  1200年前創祠 
	別 名  大井関明神、大井堰神社 

	日根神社(ひねじんじゃ)は大阪府泉佐野市日根野にある神社。和泉国日根郡の式内社で、和泉五社の一つ
	(和泉国五宮)。御旅所は大阪府泉佐野市の熊野古道沿い、府道66号線沿いにある。
	日根神社の創建は明らかではない。霊亀二年(716年)に制定された和泉五社のうちに数えられており、 延喜
	式内社日根郡十座のうちに列せられていることから、1200年以上前であると考えられる。 聖武天皇の御代、
	天平十四年の大旱魃の際には五百石を賜っている。
	現在の本殿は、社伝によれば天正年間(1573年-1593年)に兵火によって焼失したものを、豊臣秀頼が再建し
	たものと言われている。明治6年(1873年)には郷社定則により郷社に指定され、大正13年(1924年)には府
	社に昇格した。この本殿は昭和47年(1972年)3月31日に府指定有形文化財(建第20号)に指定されている。

	<域外摂社>

	・比売神社 - 式内社。御祭神は大日霊貴尊、素盞嗚命。清和天皇貞観元年に官社に列格した。
	・丹生神社(野々宮) - 御祭神は丹生都比売大神(稚日女尊)、丹生高野御子大神(狩場明神) 
	      歓請 - 聖武天皇代天平三十年
	      本社 - 和歌山県伊都郡かつらぎ町大字天野、元官幣大社丹生都毘売神社(天野大社)
		  祭礼 - 10月10日
	・恵毘須宮(丹生神社末社) - 御祭神は事代主尊(恵毘須宮) 由緒 - 「不詳であるが、天保十一年遷宮
	 以降恵毘須宮を改称、明治四十一年現在地に丹生神社へ三神合祀される」とある。
	・岡前神社



日根神社本殿(桃山時代、入母屋造)





休憩































	塙団右衛門の墓

	石柵に囲まれた中に、高さ約2メートルの五輪石塔が安置されている。この墓碑は、紀州藩士の小笠原作右衛
	門が、塙団右衛門直之の17年回忌(1632年4月)に建立したとされる。塙団右衛門直之(通称団右衛門)は、
	大坂冬の陣が始まるや否や大坂側に馳せ参じた。大野治房の組下に加わり、「夜討ちの塙団右衛門」の勇名
	を轟かせている。しかし、夏の陣における樫井合戦で、戦功を焦った余りに一命を失うことになる。







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	小栗街道

	<熊野街道>(クマノカイドウ)
	古代・中世に奈良や京都から和歌山県の熊野本宮、紀伊和歌浦を目指す旅人が通った幹線道路である。

	<奈良時代>   (聖武・称徳・桓武天皇行幸記録より)
	都が平城京に有った時代に、「紀伊和歌浦」を目指すルートは、奈良盆地を南下して飛鳥より紀ノ川を越える
	ルートを取り、紀ノ川筋を下って和歌浦に到着するのが往路。帰りは和泉山脈を北に越え、和泉国を通過して
	難波、河内を経て平城京に帰っていた様だ。(和泉市の考古・古代・中世・近世)

	<平安京時代>
	平安遷都以降、往復、和泉を通過していた様で、旧南海道「難波から紀伊」への幹線道路が和泉国内では「小
	栗街道」がほぼ踏襲されているとされる。現在の「大阪・和泉・泉南線」(府道30号線)の東側の古道を泉州の
	人達は「小栗街道」と呼ぶ。海側の紀州街道よりも古い道である。

	<小栗街道(オグリカイドウ)>
	小栗 街道の名は  小栗判官と照手姫に由来する。



	淡輪六郎兵衛の墓

	大坂夏の陣で豊臣側の大野治房の軍に加わり、この碑のある辺りで起こった「樫井の合戦」では塙団右衛門
	(ばんだんえもん)らと敵陣に切りこみ、惜しくも討ち死にしたと言われている。それから25回忌にあたる
	1639年(寛永16年)に、子孫である会津藩士・本山三郎右衛門が淡輪村で石材を用意して建てたのがこの墓
	碑だという。



















まだ現役の〒ポスト。「これ現役かな?」とか話していると向いの窓からオバサンが「使ってるよぉ」と。











	樫井古戦場跡

	1615年、大坂城攻略を目指して熊野街道を北上してきた、徳川方・浅野長晟(ながあきら)が軍勢を率い待
	ち構えているここ樫井に、豊臣方の大野治房勢の淡輪重政や塙団右衛門が先方隊を率いて突入。激戦となる
	も豊臣方の両雄は討死、大野勢は大坂城に退却した。夏の陣の勝敗をも大きく左右したというのがこの「樫
	井の合戦」だそうだ。



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この川を越したら泉南市です。







	一丘神社(一岡神社) 出典:ウィキペディア

	所在地   大阪府泉南市信達大苗代373 
	主祭神   須佐之男命 
	創 建   伝欽明天皇元年(539年) 
	本殿の様式 三間社流造 
	別 名   祇園さん 

	一岡神社(いちおかじんじゃ)は、大阪府泉南市にある神社である。和泉国日根郡の大社で、「祇園さん」とも
	称される。創建年代等については不詳であるが、欽明天皇元年(539年)に創建され、崇峻天皇5年(592年)に
	厩戸皇子が海会寺を建立し、当社をその鎮守と定めたと伝わり、後に正一位の神階に達したとも言う。
	明治40年(1907年)12月9日に熊野九十九王子の厩戸王子を合祀し、境内社(市杵島神社)とした。

	<境内社>
	日吉神社(大国主命)
	稲荷神社(宇迦之御魂命)
	厩戸王子神社(厩戸王子命)
	市杵島姫神社(市杵島姫命) - 旧厩戸王子という
	牛神神社(大己貴命)
	猿田彦命





海南市埋蔵文化財センター(古代史博物館)。一丘神社の正面にある。



	海会寺(かいえじ) 出典:ウィキペディア

	海会寺跡(かいえじあと)は、大阪府泉南市信達大苗代(しんだちおのしろ)にある古代仏教寺院の跡。国の史跡
	に指定されている。
	出土した瓦等の様式や、伽藍配置などから、7世紀後半の創建と推定される古代寺院の跡である。金堂、塔、講堂、
	回廊などの遺構が検出されており、回廊で囲まれた伽藍中心部の東に金堂、西に塔を配置する、「法隆寺式伽藍配
	置」の寺院であったことが確認されている。寺は室町時代頃まで存続したが、後に廃絶した。「海会寺」の名は近
	世の地誌に見えるもので、本来の寺号は未詳である。

	出土品のうち302点は「海会寺跡出土品」として国の重要文化財に指定され、隣接する古代史博物館(海南市埋蔵
	文化財センター)に収蔵・展示されている。

	<年表>

	1981年 - 事前発掘調査が行われる
	1983年 - 学術発掘調査が開始される
	1986年 - 学術発掘調査終了 約3年間にわたる発掘調査で、法隆寺式伽藍配置の寺院が7世紀後半に存在したこと、
		および寺院を維持していたと考えられる豪族集落の300年間の変遷などが確認される
	1987年 - 国の史跡に指定される
	1993年 - 集落部分の学術発掘調査が行われ、豪族の居館跡が確認される
	1995年 - 調査結果をもとにした8世紀初頭の伽藍配置が再現され、史跡海会寺跡広場として整備される。発掘調査
		で出土した遺物のうち302点が国の重要文化財に指定される
	1997年 - 古代史博物館・泉南市埋蔵文化財センターが開設される
	1998年 - 古代史博物館特別展示室が一般公開される

	<主な出土品>

	大阪府海会寺跡出土品(重要文化財) 瓦せん類(がせんるい) 203箇
	銅露盤(石製露盤共)残欠 1箇分
	金銅風鐸5箇分
	銅相輪部品残欠 42箇
	せん仏残欠 9箇
	土製如来坐像残欠 2箇
	塑像残欠 37箇
	箆書・墨書土器残欠 3箇
	このほか、南門、築地、中門、回廊、金堂、塔、講堂などの遺構、及び、伽藍の東方にあった豪族の集落跡などが
	発掘により検出されている。塔跡では3箇所で礎石が原位置に残っていた。回廊跡は柱位置がわかるように復元整備
	されている。













塔跡







金堂基壇







講堂基壇



廻廊跡







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隣接する一丘神社の社(やしろ)が見えている。





















JRで天王寺へ。いきつけの「赤のれん」で反省会。マホちゃん、可愛かったなぁ。









「まだまだ立ちまっせぇー」と言っているのかな。お疲れさんでした。次回も宜しく。



 邪馬台国大研究/歴史倶楽部/225回例会・大阪府泉佐野市の歴史を訪ねて