Music: Across the Universe



	
	大阪本町歴史倶楽部 第223回例会 平野区考古学展
	日時 : 平成29(2017)年2月26日(日) 
	集合 : 地下鉄谷町線「出戸」駅 13:00
	持ち物: なし
	参考 : たぶんおもろない。

	




	私(井上筑前)は、「大阪本町・歴史倶楽部」のほかに「全国邪馬台国連絡協議会」(全邪馬連)の近畿・東海支部
	にも所属している。前回の全邪馬連の例会で、会員の山科さんからこの「平野区考古学展」で寺澤薫氏が講演をする
	というので参加する事にした。別に今更寺澤氏の話を聞いても仕方が無いのだが、みんなから「モモの種の話をする
	かもしれんで」と言う声がでて、それならと言うので話を聞きに行くことにした。ついでに本町歴史倶楽部の連中に
	も声を掛け、公式(?)な223回例会にした。全邪馬連からは、山科さんの他に矢口さんと松下さんも来ていた。
	ちなみに矢口さんは歴史倶楽部の「朝倉の遺跡めぐり」例会にも参加してくれた事がある。
	時ならぬ、2つの会のコラボ参加講演会となったわけだが、終了後の反省会は歴史倶楽部の連中だけで行った。
	モモの種については最後の段で述べたい。









「平野区考古学展」展示









































平野区区民センター内の展示













	瓜破遺跡

	瓜破遺跡は弥生時代の集落跡として戦前から有名な遺跡です。江戸時代の宝永元年(1704)に大和川の付替えが
	行われた際、瓜破遺跡を横断して開削されたことにより、古くから河川敷では土器が採集されていたとみられ、 
	昭和15・16年(1940・41)に初めて、大和川河床で採集された土器が学会に発表されました.
	(図1の山本博氏採集地点)。

	
		図1 調査地位置図(下図)および弥生時代の遺構平面図(上図)

	その後も、阪神高速瓜破大橋の西側の大和川北岸では、今里幾次氏による調査で弥生時代前期の土器が出土し、 
	昭和27年(1952)には日本考古学協会によって発掘調査が行われ、瓜破遺跡は大阪だけでなく全国にも名の知られ
	た弥生時代の代表的な遺跡となりました。特にこの調査では、弥生時代前期でも新しい段階の土器がまとまって
	出土し、遺跡の名前をとって「瓜破式」と命名されました。
	また、大和川南岸でも平成6年(1994)以後、数次の調査で弥生時代中期前半の集落跡が検出され、その全体像は
	しだいに明らかになってきています。
	今回の調査では、西側の調査区(図1のD区)において、 弥生時代前期〜後期の溝・柱穴・土壙(炉跡やゴミ穴な
	ど)が多数見つかりました。
	その中でも、特筆されるものは、弥生時代前期末頃(約2300〜2400年前)を中心とした遺構です。遺構は、集落
	を囲む環濠の可能性が高い、幅3.5m、深さ2.0mの大溝(図1のSD10)から東側を中心に分布していました。
	大溝を埋める地層からは同時期の多量の土器が短期間に廃棄された状態で出土しました。 大溝から東側を中心
	に、同時期以降、何度も建て替えられた建物の柱穴や炉跡が数多く見つかりました。

	以上のとおり、今回の最も重要な点は、瓜破遺跡において 初めて弥生時代前期末頃の集落の一部が環濠の可能性
	のある大溝を伴う状況で明らかになったことです。 この調査結果によって、戦前・戦後に同遺跡において得られ
	ていた学史上の成果をより具体的な姿で示すことができたと言えます。また 、これにより、集落の範囲や時期ご
	との動きといった弥生時代の集落研究にとっても、重要な資料が得られました 。
	(大阪文化財研究所HPより)
















































	長原古墳群 	出典:ウィキペディアから抜粋(以下、青字部分はすべて)

	長原古墳群(ながはらこふんぐん)は、大阪府大阪市平野区長吉長原とその周辺の地下に埋没して存在する古墳群。
	古墳時代前期末から後期初めにかけて築れた群集墳である。大阪市営地下鉄工事により存在が明らかになり、200基
	以上の古墳、古墳の痕跡が検出され、多数の埴輪が出土していることで有名となっている。




	長原古墳群 (続き)	出典:ウィキペディアから抜粋

	1973年(昭和48年)、大阪市営地下鉄谷町線延長計画に伴う長原遺跡の発掘調査で、地上には何ら古墳の痕跡がない
	のに円筒埴輪などが次々と出土した。調査を続けると墳丘の盛土の多くは失われているものの、周囲に濠を持つ小規
	模な古墳の痕跡が多数残っていることが判明した。 次いで、直径50メートル以上、残存部で2段に築かれた墳丘が姿
	を現し、その地区の小字名が塚ノ本であることから、塚ノ本古墳(円墳)と名付けられた。地籍図を調べると他にも、
	一ヶ塚、落塚、狐塚、高塚など周囲にかつて古墳が存在したことをうかがわせる地名が存在し、その範囲は南北2km、
	東西1.5kmにも及んでいた。 これらの範囲では市営地下鉄工事の後も近畿自動車道の建設、区画整理事業、下水道工
	事、住宅建設、建築の建て替え工事などに伴い、続々と古墳の遺構が調査され、2006年までに調査、検出された数は
	213基にも及んでいる。




	長原古墳群 (続き)	出典:ウィキペディアから抜粋

	これらの古墳から出土した埴輪や須恵器の編年の属する時期から4世紀末頃から6世紀前半にかけての期間に、この古
	墳群が形成されたと推定されており、これを基に4期にわたる変遷が説かれている。1期(4世紀末頃)には塚ノ本古
	墳や一ヶ塚古墳(帆立貝形古墳)など、直径数十メートルの比較的大型の古墳が築かれ、その周囲に2期から3期にか
	けて小規模な古墳(方墳)が多数築かれている。4期(6世紀前半頃)には前方後円墳の七ノ坪古墳や、南口古墳が築
	かれたのを最後にこの古墳群の造営は終了したのではないかとされる。5世紀代とみられる2期と3期のものが多数を
	占めており、奈良県新沢千塚古墳群などと同じく初期群集墳の1つに位置づけることが出来る。また長原古墳群が、
	南東わずか数キロに位置するわが国最大級の古墳群、古市古墳群の造営時期とほぼ重なることから、両古墳群の関連
	も指摘されているところである。この事象と関連して、1期に比較的大型の盟主的古墳が築かれているのに2期から
	3期にはもっぱら小型の方墳ばかり築かれるのは、この地域の支配構造が1期は在地首長を通じて大王の間接的な支配
	を受けるものであったのが、2−3期には大王権による直接支配へと変化したことによるのではないかとする説もあ
	る。また、さらに進んで、長原古墳群の小形方墳の被葬者をヤマト王権に組み込まれた原初的な「官僚」、初現的官
	僚組織に属した人々とする考えもある。 

	長原古墳群では後世の削平が著しいため主体部(遺体が収められている内部構造)が残っているケースは少なく、そ
	の構造が明らかになっているのは18 - 19基である。それらは木棺直葬 埴輪棺(大型の円筒埴輪を棺に転用したもの
	やあるいは遺体を収めるために作られた大型の埴輪)が主で、粘土槨も1例知られる。竪穴式石室や石棺の存在は現
	在のところ知られていないが、最後の時期に属する七ノ坪古墳(130号墳)からは横穴式石室の基底部が検出されてい
	る。 副葬品検出例は同じ理由で少ないが、鉄剣、鉄斧、鉄鎌などの鉄製品、須恵器、土師器、管玉などが出ており、
	上記、七ノ坪古墳の石室底部から馬具類一式がガラス玉、鉄製武器などともに出土している。










	長原古墳群 (続き)	出典:ウィキペディアから抜粋

	また、これらの古墳の墳丘の残存部や周濠から埴輪が多数出土しており、円筒埴輪、壺形埴輪の他に、人物、馬、盾、
	甲冑、蓋(きぬがさ)などの形象埴輪、囲形、舟形、家形の埴輪が出土している。
	なかでも高廻り1号墳、2号墳(長原古墳群の支群の古墳群)から出土した船形、短甲形、冑形などの埴輪30点は国の
	重要文化財に指定されている。1号墳の船形埴輪は宮崎県 西都原古墳群などで出土しているものと同じく、船首、
	船尾が反り上がったゴンドラ形をしていた。2号墳からは別のタイプの船の埴輪が出土しており、船首、船尾に波除
	板を付けるもので、隣接する八尾市久宝寺遺跡より出土した木造船(準構造船)と同じ構造であった。両古墳が検出
	された場所は現在、児童公園とされ、なみはや公園と呼ばれている。




	長原古墳群 (続き)	出典:ウィキペディアから抜粋

	これは大阪市が市制100周年事業の1つとして2号墳の船形埴輪をモデルに復原船が製作され、公募によってこの船が
	「なみはや」と命名され、1989年に韓国釜山まで実験航海を行なったことに由来する(大阪天保山から出航し、約
	700キロの航海をもっぱら手漕ぎで、35日かかったという)。両古墳出土の埴輪の実物は大阪歴史博物館に展示され
	ており、復原船「なみはや」の方は、なにわの海の時空館に展示されている。また、同公園には長原高廻り古墳群の
	顕彰碑が同市によって建てられている。古墳時代、海と繋がる河内湖は奥深く内陸に入り込んでおり、長原の地も瀬
	戸内海や外洋と直接、繋がっていたようである。











講演会 纒向遺跡と卑弥呼の王権 寺澤薫氏





	
	寺沢薫	出典:ウィキペディア

	寺沢 薫(てらさわ かおる、1950年 - )は、日本の考古学者。主として弥生時代・古墳時代を研究している。現在
	は纒向学研究センターセンター長。過去に、奈良県立橿原考古学研究所調査研究部長。古代学研究会の代表を務める。

	1950年(昭和25年)、東京都生まれ。1973年(昭和48年)、同志社大学文学部文化学科(文化史学専攻)を卒業。
	その後奈良県教育委員会に入り、奈良県立橿原考古学研究所の研究員として発掘調査にたずさわった。 2012年4月、
	奈良県桜井市に設立された纒向学研究センターセンター長に就任する。
	主要な研究テーマは、考古学視点からの国家形成史、農業史、比較文化史である。纒向遺跡についても重要な見解を
	展開している。とくに弥生墳丘墓や纒向型前方後円墳、出現期古墳に関する研究では第一人者であり、土器型式に関
	して「布留0式」を提唱したことで知られる。

	<著書>
	『日本の歴史02 王権誕生』講談社、2000年 のち講談社学術文庫  
	『青銅器のマツリと政治社会』吉川弘文館 2010
	『王権と都市の形成史論』吉川弘文館, 2011
	『弥生時代の年代と交流』吉川弘文館、2014 ほか

















講演の終わりに、寺澤氏の著作があたる抽選会をやっていた。
司会者はしきりに寺澤氏を持ち上げていたが、当たって果たして嬉しいんかねぇ。



	
	モモの種	

	モモの種の話というのは、下の新聞記事にもあるように、纒向遺跡から出土したモモの種の事である。桜井市(実際
	には「桜井市立纒向学研究センター:所長寺澤薫氏」)が、現在この種のC14炭素検査を複数の検査機関に依頼し
	ているのだ。1ケ所は名古屋大学、そして纒向学研究センターの話ではもう一カ所にも依頼しているらしいのだが、
	纒向学研究センターではその調査機関の名前を明らかにしていない。そして、新聞の日付を見て貰えば分かるが、検
	査を依頼したという時点からもう5年以上経過しているのである。そして、纒向学研究センターの橋本氏は、園遊会
	か何かで天皇陛下にお目に掛かった際、陛下から「モモの種の結果は出ましたか?」と尋ねられているのだ。

	

	わが全邪馬連でも、さすがに検査結果の発表が遅いのではないかという声がでて、鷲崎会長が非公式に、纒向学研究
	センターと、知人の名古屋大学の担当教授に検査結果を聞いているのだ。しかし名古屋大学の教授は「調査依頼機関
	は桜井市なので、依頼主以外には結果は明かせないが、検査は終了している」との返事だったそうだ。そして纒向学
	研究センターからは「まだ発表できない」と、検査機関のもう一方が何処で、検査が終了しているかも含めて返答は
	無かったというのである。来年くらいまで待って、もしまだ発表が無ければ、公式な「公開質問状」を出すと鷲崎会
	長は言っているが、非常に微妙な問題なのである。

	そこで我々仲間内(全邪馬連)では、まことしやかに以下の様な事が囁かれているのだ。

	「実はもう結果は出ているのでは無いか。調査機関は佐倉市の歴博(国立歴史民俗博物館)ではないか。
	そして検査の結果は両者とも「モモの種は4,5世紀以降のもの」という結論になって、纒向学研究セン
	ターでは発表できないのではないか。なぜなら、モモが3世紀の物であったのなら、大声でいの一番に叫
	んでるはずだから。

	というものだ。歴博は、発掘調査等の前提が「邪馬台国=畿内説」だから、歴博へ依頼するのも十分考えられるし、
	発表が遅いのもそういう結果(4,5世紀以降)なら十分あり得る。3世紀の邪馬台国時代のモモでは無かった事に
	なって、纒向遺跡そのものが、邪馬台国より後の時代のものになってしまう。

	そう考えると今までの不審点のいくつかが解決する。今年の初め頃に、関西の考古学者の某○巳氏が、「邪馬台国は
	纒向遺跡より唐古・鍵遺跡の方が可能性が高い」とTVで発言していたのだが、この御仁は「邪馬台国は纒向遺跡し
	かあり得ない」と従来から主張していたのである。その発言を聞いて「おや?」と思ったのだが、その時は別段気に
	も留めなかったのだが、モモの種の調査結果を知っていたのなら辻褄があう。

	実はこの日、講演者の寺澤薫氏もその講演の中で「邪馬台国なんか何処にあったっていいんです。別に纒向でなくた
	って、唐古・鍵でもいいんですよ」と発言したのだ。勿論モモの種の話は無かった。「邪馬台国は纒向」と主張して
	「纒向学」なる領域まで設定し、「纒向学研究センター」という、学問的には全く決着のついていない問題を、「邪
	馬台国=纒向」を前提として研究する機関まで桜井市に作らせて、あれほど「邪馬台国=纒向」命だった御仁の発言
	とはとても思えない変わり様だ。

	それもこれも、「モモの種が4、5世紀以降だった」という事実があるのなら、めちゃくちゃ納得できる。

	更にもう一つ、実績はいざ知らず、これも関西では割と名前の知れた研究者である某○川氏から、我々MENNBERの一
	人が聞いた話として、「ああ、あんなもの、もうとっくに結果は出ていて、関西の考古学者はみんな知ってますよ」
	と聞いたと言うのである。若し、これが本当ならみんなグルである。みんなで、都合の悪いことは封殺しようと結託
	しているとしか思えない。「もう纒向から離れよう、次は唐古・鍵だ」と言う空気になるまで発表は無いかもしれな
	い。これは、天皇陛下にまで不義理した、まさしく「考古学の死」、「考古学者の死」ではないのか。

	白昼夢とも、白日夢ともつかない、「あどけなぁ〜い、モモの話であぁ〜る」(サザンオールスターズ)

	

最後にもう一つ、実は纒向遺跡のある場所(田圃)の地主さんは「全国邪馬台国連絡協議会」の会員であり、纒向学 研究センターや寺澤氏、橋本氏などは、発掘調査等で当然御世話になっており、全邪馬連会長の鷲崎さんもモモの種 の件では大変お世話になったと言っていた。

 邪馬台国大研究/歴史倶楽部/223回例会・平野区考古学展