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	大阪本町歴史倶楽部 第221回納会例会  〜師走の京都・円山公園から東山山頂へ〜
	
	日時 : 平成28年12月25日 
	集合 : AM10:00 京阪四条駅 南座前(鴨川側)
	コース: 四条河原町 − 円山公園 − 長楽寺 − 将軍塚 ー 将軍塚清龍殿 − 
		 青龍殿大舞台 − 東山山頂公園 − 京都トレイル道にて京都市街へ(4ルー
		 トあり)(分からない場合は、往路を引き返す) − 京都市内にて納会
	持ち物: 防寒具・雨具・弁当・ほか

	解説 : 以下、本文参照の事

	




いざ、出発!








八坂神社












	東山山頂は霊山(りょうぜん)観音の背後にある。下から見上げる限りは単に樹木に覆われた山で
	しかないが、行ってみると山の上にいることを感じさせないほど広くて平坦な場所である。ここは
	「歴史的風土特別保存地区」に属する東山山頂公園。デートスポットとして名高い展望台があり、
	京都市街を一望できる。
	東山山頂へは東側(山科側)から東山ドライブウェイを車で上るのが一般的なようだが、西側から
	歩いて登ろうというのが私の考え。そしてそもそも歩いて登れる道はあるのか、というところから
	始まり、地図とインターネットで4本の歩行ルートを見つけた。これらのルートには地図に載って
	いない部分があり、誰もが知っている道というわけではない。今回はそのうち最も短い円山公園か
	らのルートで登る。

長楽寺


	簡単にルートを説明すると…

	円山公園と大谷祖廟の参道との間の道路を長楽寺へ向かう。長楽寺門前で左折して石段を上ると、
	すぐにまた石段があるのでこれを上る。上った所は道路より高くなった公園である。この公園を通
	り抜け、更に先へ進むと「将軍塚道」と彫られた石の道標が見えてくる。この右側の道に入ると歓
	喜天を祀った聖天堂の前を通って山道に入る。あとはくねくねと15分ほどひたすら登って行くだ
	け。
























大聖歓喜天尊





















青龍院門跡




	<京都東山山頂に新名所誕生 「青龍殿」「大舞台」と「将軍塚」の案内> 

	出典:「青龍殿」HP(以下、青字部分全て)

	平成26年10月、京都東山山頂に大護摩堂「青龍殿」を建立、落慶いたしました。青龍殿とは、奈良
	大仏殿のおよそ横幅半分の木造大建築物で、国宝青不動をお祀りする建物です。青蓮院では、この
	国宝 青不動を初めて奥殿に安置し、精密な複製画を通じておまいりすることが可能となりました。
	建物内では、所定日に護摩を修し、みなさまの諸願成就を祈願させていただいております。
	また、青龍殿と併せて木造の大舞台を新築しました。これにより東山山頂より、京都市内を足下に
	見下し、大阪近郊まで一望できるようになりました。雨の日でも雲の上にそびえ立つ天空のお堂と
	して見応えがございます。圧倒的なスケールと市内一望の大パノラマに、来られた方から大歓声が
	上がります。この大舞台から地図を広げながら、実際に京都の町並みをご覧いただきますと、観光
	場所や史跡、ホテルなどの確認が容易となり、京都の理解に大変役立ちます。
	さらに、平安遷都の折、桓武天皇が築かせた由緒ある将軍塚が現存し、見学することが可能です。
	将軍塚横の庭園には、紅葉、桜など美しい樹木をはじめ、枯山水庭園、大隈重信、東郷元帥、黒木
	大将らのお手植え松と顕彰碑など、歴史を偲ぶに相応しい場所ともなっております。
	青不動さまに逢える、京都の文化・心に触れる、そして、歴史を学べる地として、是非、将軍塚青
	龍殿へお越し下さい。尚、青龍殿へはお車、タクシーの他、循環バス(交通アクセスをご参照くだ
	さい)をご利用下さい。健脚な方は、東山トレイルコース(山道)でも青蓮院本院からおよそ30分
	〜40分にてお越しになれます。






























































	<国宝「青不動」を青龍殿奥殿に安置>

	教科書にも紹介されている「青不動明王二童子像」は、ご身体の色が青黒(しょうこく)なことか
	ら通称「青不動」と呼ばれています。平安時代の中期、11世紀頃の製作とされ、我が国仏教絵画
	史の最高傑作の一つとして、いち早く国宝に指定されました。縦203p、横149pの絹本礼拝
	画像で、妄念や煩悩を焼き尽くす不動明王の気迫が拝する者を圧倒します。
	国宝本体は奥殿に安置し、手前に精巧に製作された複製をお祀りし、皆様からのお願い事を毎月所
	定日に護摩供にて祈願しています。昨今2度の一般公開の折りには、およそ55万人もの皆様にお
	まいりいただきました。




	<国宝 青不動明王>

	青不動明王二童子像は、ご身体の色が青黒(しょうこく)なことから通称「青不動」と呼ばれ、日
	本三大不動画のひとつとして有名です。製作時期は平安時代の中期、11世紀に当たるとされ、我
	が国仏教絵画史の最高傑作の一つとして、いち早く国宝に指定されました。大きさは、縦203p、
	横149pの大作の絹本礼拝画像です。  
	この画像は、絹本の濃茶褐色の地色に、朱と丹で激しく燃え盛り揺れ動くすさまじい炎が画かれ、
	その中央に剣と絹索を持し、忿怒の相の青不動明王の尊身が厳かに岩の上に座しておられます。妄
	念や煩悩を焼き尽くす不動明王の気迫が拝する者を圧倒します。 
	青蓮院では、宮中から下賜されたこの尊像を寺宝中の寺宝として、篤く敬い、尊崇してまいりまし
	た。国宝本体を新築の奥殿に安置し、手前に精巧に製作された複製をお祀りし、皆様からのお願い
	事を毎月所定日に護摩供にて祈願しています。




	<将軍塚の由緒>

	鳥羽僧正絵巻に、将軍塚造営の絵図が残されています。源平盛衰記には、世の中に異変のある時は、
	この塚が鳴動すると記されています。
	近代では、東郷元帥、黒木大将、大隈重信、菊地大雪等のお手植えの松と石柱があり、往時の偉人
	達が訪れ、ここから京の都を一望して日本の将来に思いを馳せたことが偲ばれる由緒ある場所です。









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	<京都市内を一望できる新名所「大舞台」の誕生>

	青龍殿には清水寺の舞台の4.6倍の広さ(延面積:1046u)の木造大舞台を新設。眼下に京都市
	内が一望でき、西展望台からは京都市内のみならず、大阪のビルまで遠望できます。圧倒的なスケ
	ールと市内一望の大パノラマに、来られた方から大歓声が上がります。

	京の都は「将軍塚(しょうぐんづか)」から始まりました
	この地は、京都の中心四条通の真上に位置し、桓武天皇が都を定められる折り、和気清麻呂に伴わ
	れ登られて、この京都を都とすることをお決めになり、将軍の像に甲冑を着せ埋めて、都の安泰を
	祈ったと伝えられています。約20m四方の将軍塚が現存しています。 

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東山界隈を歩く

歴史倶楽部新参者の大隈君が東山界隈など歩いたことが無いというので案内する事にした。
















高臺(台)寺



	高台寺(こうだいじ)は京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院。山号は鷲峰山(じゅぶさん)、
	寺号は詳しくは高台寿聖禅寺と称する。豊臣秀吉の正室である北政所(高台院)が秀吉の冥福を祈るた
	め建立した寺院であり、寺号は北政所の落飾(仏門に入る)後の院号である高台院にちなむ。釈迦如来
	を本尊とする禅宗寺院であるとともに、秀吉と北政所を祀る霊廟としての性格をもった寺院である。
	霊屋(おたまや)の堂内装飾には桃山様式の蒔絵が用いられ、これを「高台寺蒔絵」と呼ぶ。他に北政
	所所持と伝えられる蒔絵調度類を多数蔵することから「蒔絵の寺」の通称がある。

	豊臣秀吉が病死したのは 慶長3年(1598年)であった。秀吉の正室である北政所(ねね、出家後は高台
	院湖月心尼)は秀吉の菩提を弔うための寺院の建立を発願し、当初は北政所の実母・朝日局が眠る康徳
	寺(京都の寺町にあった)をそれに充てようとしたが、手狭であったため、東山の現在地に新たな寺院
	を建立することになった。秀吉没後の権力者となった徳川家康は、北政所を手厚く扱い、配下の武士た
	ちを高台寺の普請担当に任命した。中でも普請掛・堀直政の働きは大きかったようで、高台寺の開山堂
	には直政の木像が祀られている。高台寺の開山は慶長11年(1606年)で、当初は曹洞宗の寺院であった。
	寛永元年7月(1624年)、高台寺は臨済宗建仁寺派の大本山である建仁寺の三江紹益を中興開山に招聘。
	この時、高台寺は曹洞宗から臨済宗に改宗している。

	北政所の兄・木下家定は建仁寺及び三江紹益と関係が深く、家定の七男が三江紹益のもとで出家してい
	ることも、この改宗と関連すると言われる。なお、北政所は同じ寛永元年の9月に没している。
	創建当時の高台寺の仏殿は前述の康徳寺の堂を移築・改造したものであり、方丈、茶室などは伏見城か
	ら移築したものであった。また、門前に伏見城の化粧御殿が移築されて、北政所の居所とされた。高台
	寺の西側にある塔頭(山内寺院)の圓徳院がその跡であり、ここが高台院終焉の地とされる。だが、高
	台院はこのころ皇居南東の京都新城跡に広大な屋敷「高台院殿」を構えていたし、多くの使用人を抱え
	ていたからこの地が常住の地であったとするのは疑問が残る。おそらくは高台院殿を本拠地として、高
	台寺や方広寺参詣の折に宿舎として高台寺屋敷を使ったものであろう。

	境内には高台院の甥である木下勝俊の墓塔もある。
	また高台寺は、江戸時代末期(幕末)の一時期、新選組から離脱した御陵衛士(高台寺党)の屯所とな
	ったこともある。
	その後、近世末期から近代に至る数度の火災で仏殿、方丈などを焼失。創建時の建造物で現存している
	のは、三江紹益を祀る開山堂、秀吉と北政所を祀る霊屋(おたまや)、茶室の傘亭と時雨亭などである。

	(出典:ウィキペディア)

















祇園八坂の路地裏。料亭が並ぶ。




















清水寺


	清水寺(きよみずでら)は、京都東山の音羽山の中腹に建つ歴史ある寺院です。創建は平安京遷都よりも古く
	延鎮上人により宝亀9年(778年)に開山されたと伝えられています。
	清水寺は始め「北観音寺」と呼ばれていましたが、境内にわき出る清水が観音信仰の黄金延命水として神聖化
	され、一般にも清めの水として「清水」が知られるようになり、後に名称を「清水寺」に改められました。
	そんな清水寺の由来となった清水が、現在でも「音羽の滝」の名水として、観光客に親しまれています。
	清水寺の一番の見所は「清水の舞台」で有名な本堂です。崖下からの高さは18mあり、舞台からは京都市内
	が一望できます。 
	清水寺は東大路通りから約1Kmの清水坂を上った音羽山の中腹にあり、清水坂は多くの土産物店でにぎわって
	います。清水坂の途中には産寧坂や二年坂が接し、京都の一大観光スポットを形成しています。
	(京都おもしろスポットHPより)


































六道珍皇寺


	六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ、ろくどうちんこうじ)は、京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院。
	山号は大椿山。本尊は薬師如来。8月7 − 10日の六道詣り、小野篁が冥界に通ったと伝わる井戸(寺宝展
	等の特別公開時を除き非公開)で知られる。平成23年のお盆頃、隣接民有地(旧境内地)から冥土よりの
	帰路に使ったと伝わる「黄泉がえりの井戸」も発見される。通称:六道さん。この付近が「六道の辻」で
	あるとされる。
	この寺の所在地付近は、平安京の火葬地であった鳥部野(鳥辺野)の入口にあたり、現世と他界の境にあ
	たると考えられ、「六道の辻」と呼ばれた。「六道の辻」は五条通(現在の松原通)沿いの六道珍皇寺門
	前やその西方の西福寺付近とされている。
	創建は延暦年間(782年〜805年)とされ、開基は、奈良の大安寺の住持で弘法大師の師にあたる慶俊とさ
	れるが、異説として空海(「叡山記録」ほか)や小野篁(伊呂波字類抄・今昔物語集)などとする説のほ
	か、かつてこの地に住した豪族鳥部氏の氏寺(鳥部寺、宝皇寺)がその前身であるともいう。東寺百合文
	書の「山城国珍皇寺領坪付案」という文書(長保4年・1002年)には、珍皇寺は承和3年(836年)に山代
	淡海が創建したとある。藤原道長の日記『御堂関白記』長保6年3月12日(1004年4月4日)条にある「珎光
	寺」は珍皇寺を指すとみなされる。近世の地誌類には「珍篁寺」と書かれることもあり、寺号は本来「ち
	んのうじ」ではなく「ちんこうじ」と読まれていたと考えられている。珍皇寺には念仏寺、愛宕寺(おた
	ぎでら)などの別称もあり、『伊呂波字類抄』『山城名跡巡行志』は、珍皇寺の別名を愛宕寺とするが、
	愛宕寺が珍皇寺と念仏寺に分かれたともいう。東山区松原通大和大路東入る弓矢町(珍皇寺の西方)には
	念仏寺という寺があったが、大正年間に右京区嵯峨鳥居本に移転した。

	鎌倉時代までは東寺の末寺として多くの寺領と伽藍を有したが、南北朝時代以降、寺領の多くが建仁寺の
	所有に転じたことと戦乱により衰退し、中世後期の寺史はあきらかではない。貞治3年(1364年)、建仁
	寺から聞溪良聰が入寺して再興、この際に臨済宗に改められた。明治に入り一時建仁寺に併合された時期
	もあったが、明治43年(1910年)に独立した。
	(出典:ウィキペディア)























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六波羅蜜寺


	六波羅蜜寺 (ろくはらみつじ)は、京都府京都市東山区にある真言宗智山派の寺院である。山号は補陀洛山。
	本尊は十一面観音。開基(創建)は空也。西国三十三所第17番札所。
	踊り念仏で知られる市聖(いちひじり)空也(くうや)が平安時代中期の天暦5年(951年)に造立した十一面
	観音を本尊とする道場に由来し、当初西光寺と称した。空也は疫病の蔓延(まんえん)する当時の京都で、こ
	の観音像を車に乗せて引きながら歩き、念仏を唱え、病人に茶をふるまって多くの人を救ったという。空也は
	応和3年(963年)に鴨川岸に僧600名を集めて大規模な大般若経供養会を行ったが、この時をもって西光寺の
	創建とする説もある。当時、鴨川の岸は遺体の捨て場であり、葬送の場であった。
	空也の死後、977年 に比叡山の僧・中信が中興して天台別院とし、六波羅蜜寺と改称した。それ以降天台宗に
	属したが、桃山時代に真言宗智積院の末寺となった。平安末にはこの付近に、六波羅殿と呼ばれた平清盛ら平
	家一門の屋敷が営まれた。またのちに鎌倉幕府によって六波羅探題が置かれたのもこの付近である。

	名称は仏教の教義「六波羅蜜」という語に由来するが、この地を古来「六原」と称したことに由来するとも考
	えられている。 なお、六波羅密寺とする表記が古今多く見られるが、誤字である。
	(出典:ウィキペディア)























幽霊子育て飴
			450年以上続く日本一歴史ある飴屋 みなとや幽霊子育飴本舗 
			京都市東山区松原通大和大路東入2丁目轆轤町80番地の1 

			由来  〜母の深い愛情の物語〜

			命をつないだ飴の由来 今は昔、慶長四年京都の江村氏妻を葬りし後、数日を経て
			土中に幼児の泣き声あるをもって掘り返し見れば亡くなりし
			妻の産みたる児にてありき、然るに其の当時夜なよな飴を
			買いに来る婦人ありて幼児掘り出されたる後は、来らざるなりと。
			此の児八才にて僧となり修行怠らず成長の後遂に、高吊な僧になる。
			寛文六年三月十五日、六十八歳にて遷化し給う。

			されば此の家に販ける飴を誰いうとなく幽霊子育ての飴と
			唱え盛んに売り弘め、果ては薬飴とまでいわるゝに至る。
			洵に教育の上に、衛生の上に此の家の飴ほど良き料は外に
			なしと今に及んで京の吊物の吊高き品となれりと云う。

			らんすい
			亡くなった母の魂が、わが子のために飴を届け、大切な命を
			守りぬいたという言い伝えをみなとやでは450年以上も伝え
			続けています。京都にお越しの際は、お店にお越しいただき、
			命をつないだ飴を堪能してみてください。

			(みなとや幽霊子育飴本舗HPより)







四条河原町のビアホール「ミュンヘン」にて反省会。生ビールが旨かったねぇ。

河内さんの印鑑





しぐれて行くか、大隈君。阪急電車茨木駅で生き別れ。お疲れさん。



 邪馬台国大研究/歴史倶楽部/221回例会・京都東山山上