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 大阪本町歴史倶楽部 第220回例会 
 「井上筑前講演会 & 朝倉遺跡・旧跡めぐり」 2日目



山田堰




	山田堰(やまだぜき)

	江戸時代前期寛文3年(1633)筑後川から水を引き150haの新田が開発されました。その後更に開田をすすめ水量を
	確保するため取入口を変更し、岩盤をくり抜いた切貫水門となっています。寛政2年(1790)に至り、筑後川いっ
	ぱいを堰き止める石堰を築造し水量の増加をはかりました。
	表面積7688坪(25,370u)の石堰も、明治7年、明治18年、昭和55年の洪水で崩壊するなど幾多の試練にあいながら、
	今もなお昔の面影をとどめて670haの美田を潤しています。この山田堰の工法はペシャワール会によってアフガン
	復興支援の灌漑用水モデルとして活用されています。

	【旧朝倉町史より抜粋】

	「千年川の水猶あるも利水の方法を知らず」「いかにかして灌水の供給を得んとは久しき間の懸案なり」と嘆き、
	待ち望んだ筑後川からの取水は、寛文三年(1663)に着手し翌四年に完成しました。以来、今日まで両筑平野の農
	業に画期的な役割を果してきた山田堰堀川の取入口は、前出の「御普請記録」に

	 上座郡山田村恵蔵宿切貫水門より、下座郡迄堀川ができた約まりは、その昔木村長兵衛、魚庄五郎右衛門の宰判
	にて、寛  文三郎年より同門年の巻掛け成就致し婉と相聞え侯。其頃の水門は今の切貫水門より拾弐問下に帽川
	口これ有り、水門唐  戸は塩蔵ハ幡宮の前(今土橋これ有り壱番井樋の所也)然らば横二間、高さ五尺、長九聞、
	戸前二枚にして、始め木唐戸に仕調。云々。

	とあり、当初筑後川から堀川への取入口は、現在の水門から一二間下流の地点であったようです。

	筑後川から水を引くためには本流を堰き上げる工事が必要でした。宝暦七年(一七五七)に画かれた上座・下座郡
	大川絵図を見ると、現在の石堰尻の深渕にあたる所に「鳥居岩」という岩礁があります。(この岩は後年の洪水で
	流失したか、山田坂犬改修の際取り除かれたものか現在では無くなっています)

	筑後川の流れは上流志波高山方面から北に向って、天智天皇ゆかりの「秋の田」旧跡の下辺をゆるやかに湾曲して
	流れ、恵蘇山の突端、現在水神社境内の大楠のある高台に向っています。そしてこの高台が「水ハネ」の作用をし、
	流水は対岸の筑後国小江村へ打ち寄せ、従って「鳥居岩」から番屋にかけては、巻き寄せの中洲のようになってい
	たと推測され、その鳥居岩と番屋側の高台を結んだ地点の間を、乱杭を打ち、土俵や石を投じて堰き上げたものと
	考えられます。

	堀川ができた寛文三年から約六十年後の享保七年(一七二二)に、切貫水門か出来るまでは、この地点から取水を
	続けてきたものであり、筑後川の急流に堪え得る構造であったか、若しくは洪水による流失・復旧を繰り返してき
	たものかは記録がなくて不明であるが、下流一五〇町歩の灌漑ができるだけの水量を保てる構造ではあったものと
	考えられます。
	堀川のはじめの開田面積一五〇町歩程度では、五十二万三千石の禄高である福岡藩の、新田開発奨励策から見ると
	僅少であり、計画に誤りがあったのではないかという説もありますが、取水できたから即日開田ができるものでは
	ありません。小松原や荒地等はこれを開墾しなければ耕地にはなりません。開墾には相当の年月を要するものであ
	り、毎年少しづつ開墾して行ったものと考えられます。かりに反当り二石の収量があったとして一五〇町歩では三
	千石の増収となり、筑後川から取水し一元〇町の水田ができたという事は、その波及効果とともにまさに画期的な
	大事業であったといえます。




	これが「堀川」。附近の百姓達が「古賀百工」の指導の元、筑後川の水を、延々と田圃の中へ引いていった。
	観光名所として有名な「三連水車」「二連水車」は、この堀川に設置されて、現在も田畑に水を供給し続けて
	いる。













古賀百工の子孫は現存しており、今も朝倉市で「古賀組」という土木建設会社を経営している。






















	世界が注目、水を治める江戸の知恵 福岡・山田堰  2015/10/10  出典:日経BP社「NIKKEI style」HP

	貧困の原因の一つは水だ――。九州一の大河、筑後川の中流にある「山田堰(やまだぜき)」(福岡県朝倉市)
	が世界から注目を集めている。水田に水を引く灌漑(かんがい)設備で、225年前の江戸時代に築造された。
	大がかりな機材がなくても造れることが特徴。生態系への影響も少ない。江戸時代の知恵が世界を救おうとして
	いる。
	山田堰は大小の石を水流に対して斜めに敷き詰めることで、筑後川の勢いを抑えつつ用水路に水を導く。日本で
	唯一の構造だ。1790年に完成し、その後何度も補強工事が行われたが、全体の形や石はほぼ当時のままという。

	福岡県朝倉市、筑後川の中流にある「山田堰(やまだぜき)」は水田に水を引く灌漑(かんがい)設備で、225年
	前に築造された。貧困の原因の一つといわれる水を治める技術として今、世界から注目を集めている。

	導入の代表例が復興中のアフガニスタンだ。アフガンで30年間、支援活動を続ける非政府組織(NGO)「ペシャ
	ワール会」が2010年、山田堰をモデルにして堰と用水路を建設した。
	現地代表の医師、中村哲さんによると、アフガンでは2000年以降の大干ばつと内戦で多くの人が犠牲になった。
	衛生状態が悪いことで感染症がまん延して村々が消滅するなど悲惨な状況も続いた。当初、医療支援だけを行って
	いたペシャワール会は「とにかく清潔な水が必要だ」と判断、約1600本もの井戸を掘ったという。だが、地下水が
	枯渇したほか、干ばつと洪水を繰り返す異常気象のために安定した水の調達はできなかった。
	そうした中、帰国していた中村さんは、ふるさとで山田堰を偶然目にした。「直角のコンクリート堰はいずれ崩れ
	る。壊れなくてメンテナンスしやすく、渇水にも洪水にも強い山田堰に勝るものはない。何より限られた機材で、
	アフガニスタン人にも築造・維持ができる」とほれ込んだ。2003年に着工、7年がかりで全長約25キロの灌漑用水
	路を完成させた。砂漠が緑地に変わった。
	
	その後も工事は続き、現在ではアフガン人約500人が携わっている。「元タリバン兵や元政府軍兵士が一緒に働き、
	アフガンで一番治安が良い地域になった。食べられるようになれば自然とトラブルもなくなる」(中村さん)。
	ペシャワール会が進める「緑の大地計画」では2020年までに農民65万人が生活できるようになるという。今後は
	メンテナンス方法を伝授し、アフガンの人たちが自ら管理できるようにしていく方針だ。
	アフガン政府も日本政府、国際協力機構(JICA)の協力を得て、国家プロジェクトとして国内各地に同様の
	堰を造ることを検討している。世界に誇る日本の技術は江戸時代からあった。
	(映像報道部 斎藤一美)





















「小倉百人一首」の冒頭の歌は、我が故郷「朝倉」で詠まれた歌だったのである。


 邪馬台国大研究/歴史倶楽部/220回例会・朝倉市講演会