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大阪本町歴史倶楽部 第220回例会
「井上筑前講演会 & 朝倉遺跡・旧跡めぐり」 2日目
朝倉橘広庭宮跡
<朝倉橘広庭宮> 出典:ウィキペディア
朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)は、飛鳥時代の天皇である斉明天皇が営んだ宮殿。
<記録>
『日本書紀』によれば、斉明天皇六年(660年)7月に百済が唐と新羅によって滅ぼされると、斉明天皇は
波などを経て斉明天皇七年(661年)3月25日に娜大津(現在の福岡市博多区)の磐瀬行宮(いわせのかり
みや)に入り、5月9日 に朝倉橘広庭宮に遷して、百済復興の戦に備えた。しかし、7月24日に朝倉宮で崩
御。朝倉橘広庭宮に都が置かれたのはわずか二か月余りということになる。
朝倉橘広庭宮の建設に際しては、朝倉社の木を切って用いたために神が怒って宮殿を壊したほか、宮中で
は鬼火が目撃され、大舎人らに病死者が続出したという。
<比定地>
朝倉橘広庭宮の所在地は現在の福岡県朝倉市とされるが、具体的な場所は特定されていない。朝倉市大字
須川には奈良時代の寺院跡である長安寺廃寺跡が残っており、「橘廣庭宮之蹟」の碑が建てられている。
高知県高知市朝倉丙にある朝倉神社の社伝では、朝倉橘広庭宮は同社にあたるとしている。また同社では、
社殿背後に立つ「赤鬼山」が『日本書紀』に記述のある「鬼が天皇の喪の儀式を覗いていた山」であると
伝えられる。
つまり、
天照大神(あまてらすおおみかみ) = 卑弥呼
素戔嗚尊(すさのおのみこと) = 卑弥呼の弟
木の神(たかぎのかみ) = 卑弥呼の神殿に出入りする男性
と言う図式が成立する。
ここから、3,4km程行った所には「木」と言う集落があり、英彦山全盛時には英彦山座主の住まい
である「黒川院」があった。
「こんな所に行宮が?」「あまりにも山奥ちゃう」「攻め込まれないように、かもしれん」「ま、伝承ですから」
伝承にしても、海からも遠く離れたこの地にそんな伝承が残るには、何か「歴史の核」があった事を彷彿とさせる。
顕彰碑の廻りには「橘」(はっさく)がたわわに実っており、
「どうせ落ちて腐るのなら」と橋爪君の発案により、みんなで有難くいただいた。
目にしみるような紅葉だった。
邪馬台国大研究/歴史倶楽部/220回例会・朝倉市講演会