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 大阪本町歴史倶楽部 第220回例会 
 「井上筑前講演会 & 朝倉遺跡・旧跡めぐり」 2日目




平塚川添遺蹟 



昼食後、朝倉市で一番著名な弥生時代(中期〜後期)の遺蹟、平塚川添遺蹟へやってきた。



この遺蹟については、[遺蹟めぐり」の中に散々書いたので、
ここではもう再掲載しない。以下の解説をよく読んでください。















朝倉市商工観光課の隈部さんに説明を聞く。隈部さんは某国立大学で
歴史・考古学を学んだ専門家で、前の職場は甘木歴史資料館だった。



上はクリックで拡大します。






この遺蹟の特徴は、他の北九州の彌生遺跡と同じく、深いその環濠である。
集落を囲む環濠は、発見当時は六重で日本最大と呼ばれたが、その後七重目も見つかった。






	私がこの遺蹟を好きなのは、郷里の遺蹟だからと言うのも勿論だが、この遺蹟は出土した植物の種子や
	花粉などを参考に、弥生時代の植生を忠実に再現しているからである。つまり、弥生時代と同じような
	樹木や草花が植えられているのだ。また環濠も、当時と同じ位置に復元し、水をたたえている。我々は
	弥生人と同じ環境の中にいるわけである。吉野ヶ里のようにテーマ・パークみたいな遺蹟とは違って、
	如何にも落ち着いた古代の集落を思わせて、全国の彌生遺跡の中では、私はここが一番好きな遺蹟であ
	る。



こここそ、「弥生人が今にもふっと現れそうな」気がする遺蹟である。





この遺蹟は環濠が六重、七重に取り巻いている。発見当時は「日本最大の環濠集落」と騒がれた。



一度来た事があるという奈良の飯田さんも、再度の感慨にふけっている(ようだ)。









「いや大したもんだ」「ここにきたら 奈良に一体何があるんやという気になるねぇ、確かに」





	奈良のマキムク遺蹟では、柱穴が出土するたびに、「大型建物出現」などと新聞が騒ぎたてるが、ここ
	の建物群に比べたら、あっちの大型建物は「牛小屋」にも満たない。
	実際に九州の遺蹟を見もしないで、「奈良に大型建物があり、卑弥呼の宮殿だ」と思い込んでいる新聞
	記者や学者もホントにいるのだ。フィールドに出ない学者や記者は、即給料を返上すべきではないか。







貧しい一般庶民は、室町時代あたりまでこのような「掘建柱式住居」に
住んでいた例が確認されている。地方によっては江戸時代にもあったのだ。













この遺蹟の側は高台になっており、ここにも「平塚大願寺遺跡」や「栗山遺蹟」などの彌生遺跡があったのだ。
「向こうの家の下は彌生遺跡なんですよ」「へぇー、遺蹟の上に家が建ってるんか」「ま、昔だから仕方無いですね」





右手、林の中が「平塚大願寺遺跡」である。
土壙、甕棺墓などが発見され、弥生人骨も出土した。



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