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 大阪本町歴史倶楽部 第220回例会 
 「井上筑前講演会 & 朝倉遺跡・旧跡めぐり」 2日目




田代家住宅 朝倉市秋月街浦泉














	この屋敷の主「田代氏」は、百五十石取りである。石高とは、畑・屋敷地などの生産高を、米の量で表した
	もので、一石は大人一人が一年に食べる米の量に相当する。一石はほぼ米150kgである。仮に米10kg5,000円
	とすると、一石は(5,000円×150kg)÷10kg=75,000円くらいになる。
	また、江戸時代、金一両でほぼ一石の米が買えたので、一両=一石=75,000円となり、これで計算した場合
	以下の様な換算表が出来上がる。

	現代の金額	石高

	100万円		13石 
	200万円		27石 
	300万円		40石 
	400万円		53石 
	500万円		67石 
	600万円		80石 
	700万円		93石 
	800万円		107石 
	900万円		120石 
	1,000万円	133石
	1,125万円	150石

	つまり、田代氏の年収は1,125万円となるが、江戸時代の時期によって、また地方によっても多少換算率は
	異なるので、ほぼ1千万円くらいの年収と考えればいいだろう。



	ちなみに秋月・黒田藩が成立したときの武士の数は、士分(馬廻、無足、組外)の「知行取り」(自分宛
	の領知を持っている者)が47人、卒(陸士、目付等、足軽)は、鉄砲組が7組で161人、昇組が25
	人、長柄組が2組で115人、総勢348人という家臣団だった。
	この知行取りの合計が14,997石で、藩石高全体の30%にあたる。その中には、5千石取りの家老、
	堀正勝、2千石の家老田代半七も含まれている。250石以上を拝領している者は12人で「大身」と呼
	ばれた。今でいう、社長以下取締役にあたるのだろう。100石〜250石以下が24人、これが部課長
	級だろうか。残りの11人は全員100石である。してみると田代家は、課長か部長補佐当たりの地位だっ
	たと思われる。



	石高の70%が「蔵入り」と称して藩米倉(金庫)に収まることになる。親藩の福岡藩では、この数字が
	41.8%なので、勿論藩士の数も全く違うが、秋月では給料が安かったとも言える。この「蔵入り米」
	から卒の給料が支払われたが、多くは3,40石であり、10石や5石、臨時雇いで働いた時だけ給料を
	貰う者などがいた。今の会社組織と似たようなものだが、大きな違いは「侍は、自らは何も生産しない」
	と言う点にある。



	筆頭家老の堀正勝が5千石というのは、5万石の藩にしてはいかにも高いが、これは堀が「黒田二十四騎」
	と呼ばれた長政の重臣で、長政が堀を高く買っていた証拠である。福岡にいる時は3千石だったが、それ
	を長政が、三男長興の藩主後見役として、2千石加増して秋月へ送り込んだのである。しかし藩石高全体
	の一割を貰う家老というのは、江戸時代を通じてもなかなかいない。加賀前田藩は百万石だが、家老は5
	%の」5万石を貰っている。5万石といえば大名並みだ、1万石や6千石という大名もいた江戸初期に、
	5万石取りの家老など破格中の破格である。



	5千石を貰っていた筆頭家老の「堀平右衛門正勝」は、藩主が少年(就任時16歳)だったのをいい事に、
	やがて独裁政治を始め、藩主や他の大名達からの諌言も聞かず専横の限りを尽くしたので、堪忍袋の尾が
	切れた黒田長興によって、秋月藩江戸屋敷から追放された。まるで時代劇のような話だが、我が秋月藩で
	もこういうドラマが起きていたのである。
	このあたりの物語を、私は小説「五万石」「続五万石」に書いたが、まだ世間に披露するには完成度が低
	いので、一部の人を除き公開していない。しかし自分で書いておきながら、何度読み返してもおもしろい。

	ちなみに秋月藩を追われた堀正勝は、伝(つて)を頼って相模国小田原藩主稲葉美濃守に3千石で仕えた
	が、身についた放蕩振りは治まらず、2年後、稲葉美濃守から切腹を申し渡され、息子共々小田原の露と
	消えた。関ヶ原では黒田長政の命を救ったこともある、波瀾万丈な運命を辿った堀正勝の墓は、今も小田
	原の寺にある。



	他にもドラマになりそうな題材は一杯ある。直木賞を貰った葉室麟が「秋月記」で書いたように、秋月に
	は「事実は小説より奇なり」というお話が転がっているのだ。出来ればいっぱい小説にして、映画やTV
	で取り上げて欲しいのだが、文才の無いのが哀しい。










秋月から甘木の街へもどり、私が子供の時からある料理屋「松屋」にて昼食。







「海鮮チャンポン」は、誰かが「食べても食べても具が減らない」
と言っていたが、恐るべき量だった。でも旨かった。満腹で苦しい程だった。



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