Music: 1月1日
竹内古墳群





	竹内古墳群・史跡の丘(たけのうちこふんぐん・しせきのおか)  出典:葛城市HP、ほか

	竹内集落の北側、キトラ山を中心に前方後円墳1基、方墳1を含む34基の古墳群である。多くは直径10m、高さ2m
	程度の円墳で、5世紀末から6世紀中頃にかけての築造と推定される。県指定史跡。22号墳は全長 45mの前方後
	円墳で、前方部に横穴式石室が残っているようだが、いまは宗教団体の施設内にある。また、34 号墳である茶山
	古墳には、疑灰岩の板石を組み合わせた家形石棺が土中に直接埋葬されていた。石棺内には3体分の人骨と鉄刀、
	鉄製のやじり等が発見され、棺外からは須恵器も出土した。しかし古墳の現況は、見て頂くとおり案内板もかすれ
	て読めないし、古墳前の説明板も朽ちて見えない。もっとこまめにメンテしてくれないと困るなぁ。

	★所在地 ; 葛城市竹内・當麻
	★交 通 ; 近鉄「磐城」駅下車 西へ徒歩15〜20分
	★駐車場 ; 無し 
	★入場料 ; 無料 
	★問合せ ; 0745-48-2811(葛城市観光協会) 






これさえちゃんと書き直してくれれば、ある程度想像が付くんだが。



	「史蹟の丘」には5基の古墳が整備保存されている。二上山から派生する尾根(キトラ山)の東端に分布する
	古墳群である。全長42m、後円部径24m、前方部幅31mの規模を持つ前方後円墳(22号墳)の他、方墳1基と
	円墳32基で構成されていた。キトラ山一帯は弥生式土器・石器の出土する弥生時代の遺跡でもある。現在県史
	跡に指定されている。22号墳の前方部には小型の横穴式石室があり、後円部に横穴式石室の抜き取りあとがあ
	るそうだ。昭和21年に調査された34号墳(茶山古墳)は、疑灰岩の板石を組合わせた家形石棺が土中に直接埋
	葬され、石棺内に3体分の人骨と鉄刀、鉄製のやじり等があり、棺外から須恵器等も出土した。









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	葛城市も古墳の多い町である。葛城山、金剛山を擁して、難波、飛鳥、ひいては紀州へと繋がる古道がつらなり、
	古くから渡来人や弥生人達が住み着いた場所なのだろう。

	葛城市を代表する縄文遺跡として有名な「竹内遺跡」からは、東北や関東地方の土器が出土している。縄文時代に、
	遥かこれらの地方から人々がここへ来たのだ。二上山から取れるサヌカイトがその交易品だったのかもしれない。
	葛城市における縄文人の生活は、約12,000年前の縄文時代草創期から既に始まっている。石鏃(石のやじり)や石
	槍で獲った獲物を煮炊きしていた土器も出土している。

	弥生時代の遺跡は、葛城市内では11ケ所が見つかっている。著名なものとしては、竹内遺跡、脇田遺跡、尺度池
	遺跡などである。未確認ながら、キトラ山遺跡や、寺口千塚古墳郡のある尾根には「高地性集落」かあった可能性
	も指摘されている。遺跡は、石器の材料であるサヌカイトがとれる二上山の竹ノ内峠周辺に多く見られる。

	竹内遺跡は縄文・彌生遺跡として有名だが、弥生から古墳へ移行する時期の遺物も数多く見つかっている。特にこ
	の時期の指標である庄内式土器の出土は、太田遺跡について2番目に多い。これはこの2つの遺跡で、人々がその
	時期に集中して生活していた事を物語っている。吉備、瀬戸内、東海、山陰、近江などの土器も出土することから、
	この周辺は人々が行き交う交流センターのような様相を呈していたとも想像できる。出土物から見る限り、その交
	流は古墳時代になっても続いているのである。
	葛城市内にはおよそ800の古墳が知られているが、その多くに、特に南部に多いのだが、ここ竹ノ内でも色濃く渡来
	人の痕跡が残って居る。日本書紀には、古代豪族葛城氏の祖「葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)」が新羅に遠征
	した際に半島人を連れ帰り、「忍海」に住まわせたと記述されている。出土物も含めて、そのあたりの資料は、現
	在「葛城市歴史博物館」で見る事ができる。



 邪馬台国大研究/歴史倶楽部/222回例会・竹之内街道をゆく