Music: 1月1日
大阪本町歴史倶楽部 第222回例会 竹之内街道をゆく
日時 : 平成29(2017)年1月29日(日)
集合 : 近鉄阿部野橋改札前 9:15-20分
コース: 09:24発 大阪阿部野橋 − 近鉄南大阪線準急・橿原神宮前行 − 09:52 上ノ太子駅 − 竹之内街道
−近鉄大阪線・磐城駅(奈良県葛城市)
持ち物: 弁当、水筒、防寒具・雨具・弁当・ほか(雪になるかも知れないので、防寒具、雨具お忘れ無く)
参考 : 全行程11.5km、全歩行標準所要時間5時間
上はクリックで拡大します。
例会の数日前にはこんな記事が。「弥生期最大級の鉄器工房か」って、この前滋賀県の「稲部遺跡」の時もそう言っ
てたし、マスコミってのは全く節操がないねぇ。それをいいことに、森岡秀人の発言も短絡的すぎるよなぁ。これが
学者の発言かね。邪馬台国畿内説を前提にした発掘調査では、北條芳隆が言うように「関西では考古学は死んでる」
ね。
古市で、河内長野方面の車両を切り離し。しょっちゅうやってるけど。カメラに収めたのは始めてやな。
近鉄電車「上の太子町駅」。竹之内街道ど真ん中の駅である。さぁ、例会スタートだ。
上をクリックすれば少し拡大します。
<街道碑> 近鉄・南大坂線上ノ太子駅の前にある街道碑。上部に説明碑がドッキングしている。
竹内街道 出典:ウィキペディア
竹内街道(たけのうちかいどう)は、大阪府堺市から東へ向かい、二上山の南麓・竹内峠を越えて、奈良県葛城市の
長尾神社付近に至る約 26 kmの街道である。羽曳野市の白鳥交差点から葛城市の竹内集落付近までの区間は、そのほ
とんどの区域が国道166号と重なっている。
<概要>
二上山の南麓を通って、大和国と河内国を結んだ古代の幹線道路の一つ。日本最古の官道といわれる。大阪府堺市大
小路から竹内峠を通り、奈良県葛城市に所在する長尾神社までの約 26 kmの道が現存しているが、両端の難波、飛鳥
とも市街地になっていることから、かつて幅30 mあったとされる飛鳥時代の大道の面影は残されていない。街道沿い
には、応神天皇陵、仁徳天皇陵、推古天皇陵をはじめとする古墳が多数あることから、物資輸送路、文化伝達路とし
て重要な役割を果たした幹線通りと考えられている。古市古墳群と百舌鳥古墳群のほぼ中央部を走る東西道路であり、
2つの古墳群を繋ぐ道路であったとも考えられる。長尾街道より遅れて敷設されたと考えられる。また、この街道を
直線道路として東西に延長すれば誉田山古墳南端の後円部に、大山古墳の南東端部の前方部に接して通っていること
になる。つまり、この二つの巨大古墳は地図上の北緯線上に造られていることが分かる。竹内街道の名は、奈良県葛
城市にある竹内集落を通って竹内峠を越えていくことに由来する。
<成り立ち・歴史>
竹内街道は『日本書紀』の推古天皇21年(613年)の条に「難波(大阪)より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」
と記されていた難波大道などと同様、日本最古の「官道」である[1][2]。一説には、聖徳太子が小野妹子らが中国大
陸への使者として派遣された遣隋使が帰国の際に同行してくる大陸からの使者が通るために、立派な道路が必要だと
考えて整備したものだといわれる。現在の竹内街道は、大部分は推古天皇時代の官道と重なっている。東側は奈良盆
地南部を東西に横切る官道横大路に繋がっている。かつては丹比道(たじひみち)と言われた。丹比野を横断するの
でその名が付いたと推定されている。
天武天皇元年7月1日(672年7月30日)の条に「会明に、西の方を臨み見れば、大津・丹比、両の道より、戦の衆多に
至る」とみえ、壬申の乱にも使われていたことが分かり、長尾街道と竹内街道であると推定されている。
官道として整備されたのは上記の通り7世紀初め頃であるが、二上山の西麓(現在の大阪府太子町)には4世紀から5
世紀にかけての陵墓・古墳などの遺跡が数多く残っているため、既にかなりの人々の往来があったと思われる。
飛鳥時代には、遣隋使の使節や留学僧が往来し、難波から上陸した大陸の中国や朝鮮の先進文化は、竹内街道を通っ
て大和へ伝えられ飛鳥文化の発展をもたらしたほか、シルクロードから海路を通って伝来した仏教もまた、竹内街道
を通って大和へ伝わり、日本文化のいしづえとなったといわれる。
中世には伊勢街道の一部として存続し、現在では国道166号が通っている。したがって竹内街道は飛鳥時代より現在に
至るまで街道として利用されていることになる。
近世には起点を堺大道筋(紀州街道)交点とした。江戸時代、沿道の竹内集落に松尾芭蕉が一時期住んでいた。現在、
そこに芭蕉歌碑の綿弓塚があり、公園として整備されている。
竹内街道 出典:ウィキペディア (続き)
<成り立ち・歴史>
竹内街道は『日本書紀』の推古天皇21年(613年)の条に「難波(大阪)より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」
と記されていた難波大道などと同様、日本最古の「官道」である[1][2]。一説には、聖徳太子が小野妹子らが中国大
陸への使者として派遣された遣隋使が帰国の際に同行してくる大陸からの使者が通るために、立派な道路が必要だと
考えて整備したものだといわれる。現在の竹内街道は、大部分は推古天皇時代の官道と重なっている。東側は奈良盆
地南部を東西に横切る官道横大路に繋がっている。かつては丹比道(たじひみち)と言われた。丹比野を横断するの
でその名が付いたと推定されている。
天武天皇元年7月1日(672年7月30日)の条に「会明に、西の方を臨み見れば、大津・丹比、両の道より、戦の衆多に
至る」とみえ、壬申の乱にも使われていたことが分かり、長尾街道と竹内街道であると推定されている。
官道として整備されたのは上記の通り7世紀初め頃であるが、二上山の西麓(現在の大阪府太子町)には4世紀から5
世紀にかけての陵墓・古墳などの遺跡が数多く残っているため、既にかなりの人々の往来があったと思われる。
飛鳥時代には、遣隋使の使節や留学僧が往来し、難波から上陸した大陸の中国や朝鮮の先進文化は、竹内街道を通っ
て大和へ伝えられ飛鳥文化の発展をもたらしたほか、シルクロードから海路を通って伝来した仏教もまた、竹内街道
を通って大和へ伝わり、日本文化のいしづえとなったといわれる。
中世には伊勢街道の一部として存続し、現在では国道166号が通っている。したがって竹内街道は飛鳥時代より現在に
至るまで街道として利用されていることになる。
近世には起点を堺大道筋(紀州街道)交点とした。江戸時代、沿道の竹内集落に松尾芭蕉が一時期住んでいた。現在、
そこに芭蕉歌碑の綿弓塚があり、公園として整備されている。
右 推古天皇御陵、
科長神社、小野妹子墓、
倉山田石川麻呂墓
左 孝徳天皇御陵、
鹿谷寺旧蹟、中将姫旧蹟
近くに、「竹内街道資料館」がある。
孝徳天皇陵
【第36代 孝徳(こうとく)天皇】 (以下、「天皇陵巡り」コーナーから転載。)
諡名: 天万豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)
異名: 軽皇子(かるのみこ)
生没年: 推古4年(596)〜 白雉5年(654)10月10日 59歳
在位: 皇極天皇4年(大化元年(645))6月14日 〜 白雉5年(654)
父: 茅渟王(ちぬおう:敏達天皇の皇子・押坂彦人大兄皇子の子)
母: 吉備姫王(きびひめ:欽明天皇の孫)
皇后: 間人皇女(はしひとひめ:舒明天皇の娘)
皇妃: 阿倍小足媛(あべのおたらしひめ:阿倍倉梯麻呂の娘)、
蘇我乳娘(そがのちのいらつめ:蘇我倉山田石川麻呂の娘)
皇子女: 有間皇子・・・母は阿倍小足媛
宮居: 飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや:奈良県高市郡明日香村)、
難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや:大阪府大阪市東区法円坂町)
御陵: 大阪磯長陵(おおさかのしながのみささぎ:大阪府南河内郡太子町)
舒明天皇が崩御して、皇后がその後を継ぎ皇極天皇となる。有力な後継者であった山背大兄皇子は、蘇我入鹿
の手にかかり、一族全員皆殺しにあってしまう。中大兄皇子が、自分の身にも危険を感じたとしても不思議で
はない。蘇我入鹿を倒さなければ次は自分だと思ったのは想像に難くない。
権勢を誇る蘇我入鹿の存在を、こころよく思わない人物がもう一人いた。蘇我氏に滅ばされた物部氏に従って
いた中臣鎌子(なかとみのかまこ:後、藤原鎌足)である。鎌子は中大兄皇子と結託し、蘇我石川麻呂をも仲
間に引き入れ、蘇我入鹿を滅ぼす。世に「大化の改新」(乙巳の変:いっしのへん)と呼ばれるクーデターで
ある。
皇極天皇は、この事件の責任をとる形で退位、即座に息子の中大兄皇子に即位を促した。だが、中大兄皇子は
即位せず、実際には皇極帝の同母弟で中大兄皇子の叔父である軽皇子(かるのみこ)が孝徳天皇として即位した。
はじめ軽皇子は、舒明天皇の長子古人大兄皇子(ふるひとのおおえみこ)がふさわしいと辞退するが、古人大
兄皇子は仏門にはいるからと皇位継承を辞退して、その申し入れをするやいなや、太刀を抜き髪と髭を切り落
とし、たちまち僧形となった。そこでやむなく軽皇子が即位したとある。
こういう記事を読むと、この時の天皇の地位がいかに危ういものかをみんな知っており、誰もなりたがらなか
った状況がうかがえる。即位した孝徳天皇は、難波へ遷都し長柄豊碕宮(ながらとよさきのみや)に都を構え
る。現在大阪市にある難波宮跡の「前期難波の宮跡」と呼ばれる部分がこの宮跡ではないかと考えられている。
孝徳天皇は中大兄皇子を皇太子とし、阿倍内麻呂を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣に任じた。中臣鎌足
には大錦(だいきん)の冠位を授け内臣(うちつおみ)とした。天皇は、東国の国司らを集め戸籍を作り田畑
の調査を命じたり、有名な「大化の詔(みことのり)を発したりしたが、しかし結局この天皇は、所詮中大兄
皇子・中臣鎌子らの傀儡でしかなく、最後には中大兄皇子と仲違いの末、一人長柄豊碕宮に取り残され、中大
兄皇子らは飛鳥へ引き上げてしまう。中大兄皇子の独走に怒った天皇は、恨みを抱いて皇位を捨て山碕離宮に
隠遁しようとしたが、離宮の完成を見ることなく長柄豊碕宮に没した。陵は、竹内街道に面した小高い丘の端
にある。
前項で紹介したのが一般的な孝徳天皇についての知見であるが、最近変わった説も登場している。それは概略
以下のようなものである。
「乙巳の変後、中大兄皇子は即位していない。皇太子でいるほうが都合が良かった為とされるが、当時、天皇
より皇太子のほうが実権を握っていたという証拠はない。中大兄が19歳という若さだったことも考えると、乙
巳の変における中大兄の役割が、『日本書紀』に記されている通りだったか疑問の余地がある。 軽皇子の本拠
は難波で、中臣鎌足の本拠もまた難波に近かったことから、もともとは軽皇子と中臣鎌足が結びつき、蘇我入
鹿暗殺と軽皇子即位を企てたのではないか。」というものである。 勿論そういう見方もできなくはない。
しかし、こういう見解は『日本書紀』の内容を疑う事になる。全面的に疑ってしまえば「そもそも大化改新な
ど無かったのだ。」という説も登場しうる。ある部分は信用しある部分は自己の推理で説を展開するというのは、
小説ならいざしらず、すくなくとも新しい証拠や証明が展開されない限り、歴史家の取るべき態度ではないよ
うな気がする。
<山田集落> 太子町山田には、古い家並みが残っている。
竹内街道へ戻る
<竹内街道 県境碑>
二上山南麓、標高289mの竹内峠。従是東奈良県管轄 の県境碑[大正9年]、「鶯の関」碑、拡幅工事記念碑など
が建つ。R166号が通る。残念ながら眺望は良くない。
<竹内集落> 国道166号とも分れ、なだらかな坂道を下る。ここが街道名の由来となった竹内集落である。
<竹内街道 竹内の景色> この竹内は「街道をゆく」でおなじみの歴史小説家・司馬遼太郎(1923〜96)が
幼少年期を過ごしたところ。旅人の心を癒す美しい里である。
綿弓塚
<竹内街道 錦弓塚>
芭蕉ゆかりの「綿弓塚」。脇の民家は資料館兼休憩所になっている。芭蕉は伊賀への帰途、弟子・千里[ちり]の
故郷であるこの竹内宿に滞在した。
綿弓や琵琶に慰む竹の奥
長尾神社
<当麻町長尾の道標> 当麻[たいま]町長尾の道標。
右 よしの、つぼさか、こうや
隣の自然石には 左 いせ、はせ(初瀬)とある。
ここは長尾街道との合流地点で、長尾神社は、目の前である。
中国 春節祭
横向いてますが、この時の歌(の一部)が聞けます。
反省会
尚、今回我々が歩いた簡素化ルートではなくて、本格的な「河内飛鳥ルート」として、近鉄発行の以下の地図もあります。
我々も若かりし頃はこのルートを歩きました。結構距離があります。元気な方は是非挑戦してください。地図は近鉄の駅
(大手駅)でもらえます。
上の地図はクリックで拡大します。
このHPは例会からほぼ1年近くを経て製作した。折から世間は衆議院選挙の真っ最中。明日が投票日である。
小池百合子の「希望の党」は、思惑からハズレて大苦戦が予想されているが、さぁ、どうなる、どうなる。
(2017.10.21)
邪馬台国大研究/歴史倶楽部/222回例会・竹之内街道をゆく