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2003.12.28 愛媛県松山市道後温泉






		四国と言えば道後温泉というほど有名な温泉である。上の道後温泉本館は、現在も多くの観光客で賑い、道後温泉のシンボル
		である。明治27年に建てられた木造三層楼は、当時でも珍しい建築様式だった。完成の翌年に松山中学(現・松山東高校)
		へ赴任してきた夏目漱石も通って来た。小説「坊ちゃん」の中には「住田の温泉」として登場する。平成6年には国の重要文
		化財に指定された。
		道後温泉は古代、伊予の温泉塾田津の温泉といわれていたが、「道後」と呼ばれるようになったのは、大化の改新(645)によ
		って各国に国府が置かれ、この国府を中心として、道前・道中・道後の名称が生まれた。道中は国府のある地域を称し、京に
		向かって国府の前部が道前、後部にあたるところが道後と呼ばれ、中世の道後は、現在の今治市より南を総称していたようで
		あるが、近世に入ってからは、温泉の湧く「道後」に限定するようになった。




		歴史的な道後温泉の由緒については、傷をおった白鷺が湯に浸り元気に飛び去ったという「白鷺伝説」があるが、文献に残る
		記録として、和銅年間に編纂されたと云われている伊豫国風土記の逸文に以下のように記載されているそうである。
		「旅の途中、大已貴命(おおくにぬしのみこと)と少彦名命(すくなひこのみこと)の二神が伊豫国に来遊し、少彦名命が重
		病に陥り、瀕死の少彦名命を、大国主命が湧き出る湯で温めると回復し、少彦名命は「しばらく昼寝をしていたようだ」と喜
		び、嬉しさのあまり石の上で舞を舞った。」この時少彦名命が立ち上がった石に足形が付いていると言う。
		以下がその「玉の石」である。道後温泉本館北側に設置されているが、勿論真偽のほどは定かではないし、伊豫国風土記も現
		存していない。

 

 


		法興6年(596)聖徳太子が伊予温泉を訪れ、伊佐爾波(いさにわ)の岡(現道後公園)に登り、霊妙な温泉に深く感動し、風
		光明美な道後の風土と温泉をたたえた碑を建てたといわれ、温泉街の一画に以下のような顕彰碑がたっている。説明板にもあ
		るように、太子が建てた現物の顕彰碑はまだ見つかっていない。以下の写真は、2002年3月、部下と松山のお客さんを訪
		ねた帰り寄った時のもの。

 

 


		「伊豫国風土記」には温泉の効能も書かれている。行幸の記録として、景行天皇と后、仲哀天皇と神功皇后、聖徳太子と続く。
		仲哀天皇と共に訪れた神功皇后は応神天皇を懐妊中で、その姿が今の松山名物の姫だるまになったと謂われている。「日本書
		紀」には、舒明天皇、斉明天皇と天智天皇・天武天皇の名が書かれている。また、万葉集には有名な額田王(ぬかたのおおき
		み)の「熟田津(にぎたづに、船乗りせむと月待てば、潮もかなひぬ今は漕ぎいでな」と、山部赤人の長歌が載っている。
		道後温泉とともに「日本三古湯」という兵庫の有馬温泉、和歌山の白浜温泉もともに日本書紀に記述があるが、年代的には道
		後温泉が一番古く、このあたりが、道後温泉が日本最古の温泉であるとするゆえんのようである。それにしても、日本人の温
		泉好きは相当昔からの伝統のようだ。火山国ならではだ。

 


		道後温泉本館は、道後湯之町初代町長・伊佐庭如矢が施設近代化を進め、激しい反対運動に合いながら作りあげた。自らの命
		も狙われたりしたが信念を貫き、約20ヶ月の歳月をかけて明治27年に完成させた。百年以上経った現在でも、道後温泉の
		シンボルとしての輝きを失わず、多くの地元・観光客に愛されている。道後温泉は、全国でも湯の湧出量が少ない温泉と言わ
		れていたが、国民の旅行需要に呼応するため、戦後、温泉枯渇の危険を犯してボーリングの実施に踏切り、新源泉を掘り当て
		た。そして、昭和31年から旅館、ホテルへの配湯が実現し、ここに、外湯しかなかった道後温泉に内湯が実現した。その時
		の道後湯之町は5日間にわたってお祭り騒ぎであったという。

 

上は数年前、WIFEと帰省の帰りに佐賀関から八幡浜に上がって四国を横断したときに泊まったホテル。屋上に露天風呂があった。



 

上右が今回宿泊したホテル。前回は奮発したが今回はオッサン二人なので二つ星ていど。このホテルの横を2,3分行くと道後公園だ。

 

 


		夏目漱石が松山中学の英語教師として松山時代を送ったのは、道後温泉の三層樓の立派な建物が完成した翌年、明治28年で
		ある。漱石も正岡子規も、温泉情緒をこよなく愛し、よく道後温泉に滞在していたそうだ。

		「温泉は三階の新築で上等は浴衣をかして、流しをつけて八銭で済む。その上に女が天目へ茶を載せて出す。おれはいつでも上
		等へ這入った。(略)湯壺は花崗岩を畳み上げて、十五畳敷位の広さに仕切ってある。大抵は十三、四漬かってるが、たまに
		は誰もいない事がある。深さは立って乳の辺まであるから、運動のために、湯の中を泳ぐのはなかなか愉快だ。おれは人のい
		ないのを見済しては十五畳の湯壺を泳ぎ巡って喜んでいた。ところがある日三階から威勢良く下りて今日も泳げるかなとざく
		ろ口を覗いて見ると、大きな札へ黒々と湯の中で泳ぐべからずとかいて貼りつけてある。」
		(夏目漱石:「坊ちゃん」)

 

		寝ころんで蝶泊まらせる外湯哉  一茶

		名湯とうたわれた道後の湯は、古来より文人墨客数多く訪れ、その想を練ったところでもある。小林一茶は二度道後を訪れて
		いる。漂白の俳人種田山頭火も、道後一草庵で生涯を終えた。「ずんぶりと湯の中の顔と顔笑う」



上は会社の同僚宮崎君。長崎生まれの宮崎君とはこれいかに。札幌生まれの松山千春というが如し、かな?




		中世の道後温泉の経営は、伊予の地方豪族であった河野氏の管理の元に行われていた。河野氏はこの地に居城を移し、温泉に
		関しては以下のような記録がある。

		正応元年(1288) 一遍上人(河野氏の一族)、道後の奥谷宝厳寺に留まる。湯釜の宝珠に「南無阿弥陀仏」の六字の名号を書
		いた。享禄4年(1531)、 河野太郎通直、道後温泉の湯釜に銘文を刻する。永禄5年(1562)、河野通直、入浴規定を定め、
		石手寺の僧に便宜をはかる。

 

 


		道後の温泉で使われていた日本最古の湯釜。愛媛県指定重要文化財。湯釜は温泉の湧出口であり、道後温泉本館が建つ前の温
		泉場で使われていた。この湯釜は奈良時代の天平勝寶年間(741-757)に造られた日本最古のもので、道後温泉本館が出来る迄、
		約1150年間、絶えること無く湯を噴出していたと言う。直径166cm、高さ157cmの円筒形。花崗岩製。正応元年
		(1288)、河野通有の依頼により一遍上人が6字の名号「南無阿弥陀仏」を頂部に彫ったと伝えられている。

 

 


		河野氏滅亡後、江戸時代には松平久松氏に温泉管理が委ねられた。久松氏代々の藩主も温泉場施設維持に力を貸し、初めは道
		後に御茶屋を設け、自らも度々温泉に入浴していたようである。その後、明王院に管理を任せた。明治維新後は、国の管理を
		経て、県の管理に移されたのを機会に、町民の代表が県から土地と建物を借り受け、温泉経営に乗り出した。そして、明治5
		年、1,600円をかけて二階建ての温泉建物を造った。これが、道後温泉本館の元となる。

 

展望台から見た道後温泉街と、松山市街。遠くに松山城も見えている。



眼下に見える建物が、復元された「武家屋敷」である。土塁や池も復元されている。右端上部の山の上にちょこんと松山城。








		さぁそれでは、中世の道後温泉の豪族、河野氏の「湯築城遺跡」を訪ねよう。と言っても、居城そのものは砦のようなもので、
		展望台のあるこの丘の中腹に本丸と河野氏の居館があったとされている。麓に復元されているのは家臣団の住居やその遺構で
		ある。資料館もある。


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