Music: Carpenters

大和郡山 羅城門跡・稗田の環濠集落・売太神社






城下町は古い家並みが多い。こういう街を歩くと、筑前の故郷の城下町、秋月5万石を思い出してしまう。



新酒が出来たことをしらせる杉の玉(名前はなんといったかなぁ。)がぶら下がっている。



羅城門跡



奈良から流れてくる「佐保川」にかかる大橋を渡ると、右側にこんもりした森が見える。ここが「羅城門跡」である。



橋に続く「十条通り」を下ってくると、今は草ボウボウになった空き地に、ポツンと石碑が一つたっている。

 


	西大寺の平城宮跡には復元された朱雀門が建っていて、いま大極殿も復元作業中であるが、あそこを一条として、ここが
	十条である。平城京はとてつもない広さを持っていたのだと言うことが実感できる。ここには当時、平城京への入り口と
	して、下のような羅城門が立っていたのである。



 

それにしても、あの平城京への入り口だったところがこの石碑だけというのは、なんか妙に悲しい。








クリックして貰えば、更に詳細な記事が見れます。



	十条大路を発見 平城京、定説より大きかったこと確実に 2007年06月13日23時05分 asahi.com

	 奈良県大和郡山市の下三橋(しもみつはし)遺跡で、奈良時代の首都・平城京(710〜784)の十条大路跡(8世紀初め)
	が出土した。同市教委と元興寺文化財研究所が13日、発表した。従来、京の南端とされていた九条大路の南では道路跡が数カ所
	見つかっており、十条大路の存在が確実視されていたが、大路遺構の確認は初めて。

	
	下三橋遺跡で出土した平城京の十条大路跡。上下の白線で囲まれた部分が側溝で、
	その間の平らな部分が路面だった=13日、奈良県大和郡山市で

	
	平城京の区画図

	 スーパー建設に先立ち、約3400平方メートルを発掘。2本の側溝(幅1.5〜2メートル、深さ約40センチ)を伴う東西
	道路(幅15.75メートル)を長さ9.5メートル分見つけた。出土場所は九条大路の南約530メートルで、碁盤目状に土地
	を区画する「条坊制」の復元案では、十条大路の推定地だった。 
	 周辺の調査では8世紀前半の土器だけが見つかっており、九条大路から十条大路にかけての地域は遷都から約20年で廃絶され
	たとみられる。 
	 平城京の南約20キロに造成された日本初の都城・藤原京(694〜710)は、東西十坊・南北十条(約5.3キロ四方)の
	設計案が有力。平城京は従来東西八坊(約4.3キロ)・南北九条(約4.8キロ)とされてきたが、今回の発見で南北規模につ
	いては藤原京の設計を踏襲したという見方が出ている。 
	 下三橋遺跡では05年、九条大路より南側で、条坊制道路や羅城(城壁)跡がみつかっている。今のところ出土は左京(京の東
	半分)だけにとどまっている。 
	 現地説明会は16日午前10時から正午まで。現場はJR郡山駅の東約1.5キロで、小雨決行。



平城京十条跡を確認 2007年06月14日 asahi.com マイタウン奈良 十条大路のすぐ南側で見つかった川跡(写真手前)=大和郡山市の下三橋遺跡で 十条大路跡には、水田のあぜの痕跡がはっきり残っていた=いずれも大和郡山市の下三橋遺跡で ■大路の南は「荒れ地」  平城京の十条大路跡(8世紀初め)は見つかったが、その南側は荒れ地だったらしい。そして、大路の跡地に整備された水田も 小規模だったと見られる。大和郡山市の下三橋(しもみつはし)遺跡で見つかった道路跡とその後の遺跡は、古代の首都の意外な 姿を地中にとどめていた。(編集委員・小滝ちひろ)   出土した十条大路跡の約10メートル南の試掘溝には、東西に流れていた川の跡が3本あった。中に埋もれていた土器から、う ち2本は奈良時代の川とわかった。十条より南側には、碁盤目状の道路を整備する条坊制が及ばなかったらしい。  「荒れ地と言っていい状況です」と、調査した同市教委の山川均主任は言う。十条大路が「町」と荒野の境目になっていた様子 がうかがわれる。  大路跡は730年ごろから後、水田にされていた。試掘溝の地層の断面には、田のあぜを築いた跡がくっきりと残っている。 こうした水田や畑の区画を十条大路から九条大路までの南北幅530メートルの範囲に整備したのが、「特殊条里」と呼ばれる奈 良時代の耕作地だった。  しかし、山川主任とともに調査にあたる元興寺文化財研究所(奈良市)の佐藤亜聖研究員は「そのすべてが田畑として使われた とは考えにくい。川に近い水回りのいい場所だけだったのではないか」と見る。発掘しても耕作の痕跡が見つからないところがあ ったり、土器づくりのために粘土を採集した穴が多数発見されたりするためだ。  九条〜十条地域には住宅が整備された跡がほとんどなく、都市として機能しないまま、710年の平城遷都から約20年で放棄 されていた。その後にできた条里制水田も、一部に限られた。  この地域はどうも、恵まれなかった土地だったようだ。
平城京の十条大路か 奈良・下三橋遺跡で遺構発見  京都新聞 下三橋遺跡で見つかった平城京の十条大路とみられる道路遺構。手前と奥の溝(人が立っているところ)が 道路両側の側溝=13日、奈良県大和郡山市  奈良県大和郡山市の下三橋遺跡で、平城京(710−784年)の十条大路とみられる東西の道路遺構が見つかり、大和郡山市 教育委員会と元興寺文化財研究所が13日、発表した。  南限とされた九条大路より約530メートル南で、平城京の「条坊」(碁盤目状の区画)と方角、規模が一致した。約20年で 埋め立て廃棄されたらしいが、南北九条とする明治時代以来の平城京像は見直しがほぼ確実。  市教委は「当初は十条で設計、施工したことが 明確になった。わずか20年で廃棄、都の一部ではなくなったのは、政治や 外交などよほどの理由があったのだろう」としている。  見つかった遺構は長さ9・5メートル、幅約14メートルで三条大路や六条大路とほぼ同規模。両側に幅1・5−2メートル、 深さ約40センチの側溝があった。周辺の状況から730年ごろ埋め立てたと判断した。(共同通信)
平城京:「九条大路」の南に「十条大路」…遺構を確認 毎日新聞 2007年6月13日 18時32分   奈良県大和郡山市の下三橋(しもみつはし)遺跡で平城京(710〜784)の南限とされてきた九条大路の南532メートル を、東西に走る道路遺構が見つかり、市教委は13日、「十条大路」と断定したと発表した。造営後に廃棄されており、それより 南に道路遺構はなかった。南北九条だったとする100年前からの定説を覆し、造営当初は十条大路が南限で、後に九条大路まで に縮小されたことがほぼ確定した。  平城京内は東西南北とも532メートル間隔の大路で区切られ、さらに133メートル間隔の小路で細分されている。05、0 6年には、九条大路より南で、東西に走る3本の道路(133メートル間隔)が造営後に埋め戻された跡が見つかり、造営当初の 条坊(碁盤目状の街区)が、定説より南に拡大することが分かっていた。  今回は十条大路の想定地など約2040平方メートルを調査。長さ9.5メートルにわたり幅14メートルの道路と、南北側溝 の遺構を確認した。既に見つかっている条坊遺構と同様、遷都から約20年以内に埋め戻されたとみられる。後に九条大路に付設 された羅城や塀の遺構はなかった。  十条大路の南133メートルの地点は小石混じりの堆積(たいせき)層で、道路遺構はなかった。このため、市教委は十条大路 以南に京域が広がる可能性がほとんどないと判断した。  藤原京(694〜710)は、南北が十条までとする説が有力。市教委の山川均・文化財係主任は「今回の発見で平城京が藤原 京のプランを踏襲していた可能性が高くなった」と話す。【大森顕浩】 平城京「十条大路」の発掘地区の図 下三橋遺跡の周辺地図



稗田の環濠集落



佐保川の土手(堤防)を延々と30分余り歩いていくと、田圃の中に一塊になった集落が見えてくる。稗田の集落だ。

 

この集落は、周りを環濠がとりまいている。おそらくは防衛のためと思われるが、もしかしたら弥生時代から続いてたりして。




	--------------------------------------------------------------------------------
	稗田環濠及び集落  市指定文化財(史跡) 
	--------------------------------------------------------------------------------
	稗田環濠は、大和の環濠の代表例として有名であり、教科書などにもよく記述されている。古文書などの史料があまり残さ
	れていないのでどのように形成されたのか詳しいことはわかっていないが、室町時代には現在のような形になっていたと考
	えられている。環濠は東西約260m、南北約260mの規模で、北東側は七曲りよばれる特異な形をしている。西側と南
	側はとくに幅広くつくられている。内部を見ると、東西、南北に大きな道がとおり,そこからさらに細い道がのびているの
	がわかる。道はT字形に交差しており袋小路になっていて、遠くが見通せないようになっている。防御に適した構造になっ
	ている。現在、環濠は改修され常に水を湛えている。

	『大乗院雑事記』の文明元年(1469)の条に「御室領稗田庄」とあって、稗田庄は京都右京区御室の仁和寺領荘園であった
	ことがわかる。興福寺大乗院方衆徒の奈良古市氏が荘官として支配を任され、米50石のうち20石を古市氏、残る30石を仁和
	寺へ上納していた。集落の東南部にある売太神社は、古市胤仙が館をかまえていたところに鎮座されたと推定され、庄は文
	明11年・同14年に筒井方によって焼かれている。

 

 



 






売太神社



稗田の集落の一番南に、こじんまりした森があって、そこが、ここの生まれだという「稗田阿礼」を祀った売太(めた)神社である。








	--------------------------
	売太神社 (めたじんじゃ)  
	--------------------------
	「古事記」の伝承者として知られる稗田阿礼(ひえだのあれ)を祀り、現在は童話の神様として親しまれている。大きな森
	を保ち、神社を中心として稗田集落の環濠が発達したようすを示しているが,このような様相は若槻環濠や番条環濠でも
	みられる。山辺の道を歩くと、あそこにも菅生(あのう)の環濠集落が若干残っているが、ここのように、集落全体とし
	て現存しているのは極めてめずらしい。

 


	稗田阿礼(ひえだのあれ)

	古事記の編纂者として知られる人物である。天武天皇に舎人として仕え、記憶力の良さを見込まれて『帝紀』『旧辞』等
	の誦習を命ぜられた。元明天皇の代、詔により太安万侶が阿礼の誦する所を筆録し、『古事記』を編んだ。阿礼の生没年
	は不明だが、『古事記』の成立当時(和銅5年/西暦712年)、すでに老年だったと考えられ、従って七世紀後半の人
	である。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia)』)




	天武天皇朝後期の舎人(とねり)。生没年未詳で性別も不明。阿礼を女性とみる説もあるが、舎人(男子)に相当する女
	子は「女儒(めのわらは)」で、壬申紀に双方併記され、令制亦、女儒乃至采女(うねめ)であることから、女性説は可
	能性が低いとされる。古事記の序文に、天武天皇が諸家の伝える帝紀および本辞の虚偽を正して後世に伝えるために太安
	万侶に古事記の編纂を命じ、とあり、これを阿礼に誦習せしめたとある。
	古事記序文によると、阿礼はこのとき28歳で、「人と為り聡明にして、目に度(わた)れば口に誦み、耳に拂(ふ)る
	れば心に勒(しる)す」とその記憶力の高さが記されている。しかし現在の定説では、阿礼はこのとき60歳に近かった
	と推定されているが、その根拠も今ひとつはっきりしない。

 


	記録された漢字に即して阿礼が暗誦した和文の「原古事記」を、太安万侶が子細に探りひろった上、文意のわかりにくい
	ものには注を付して再撰されたものが、今にみる古事記であるが、もしこの過程が事実ならば、稗田阿礼は天才的な記憶
	力の持ち主という事になる。現在、日本人の識字率(文字を読み書きできる人の率)は世界的にも大変高く、99.8%
	にのぼるとされるが、古事記が編まれた奈良時代は字を読める者は多くなかった。中国から漢字が伝わってきたものの、
	まだ「ひらがな」は発明されておらず、重要な記録は、記憶力がいい者に覚えさせていたのである。阿礼は一度見聞きし
	たことは絶対に忘れない才能をもっていたと言われる。
	もし阿礼が実在の人物で、序文に書かれた通りの事実があったとすると、天武天皇は阿礼に相当の信頼を置いていたので
	あろう。



現在の稗田の集落の全体図。右下の森になっている一角が売太神社である。




	ここ稗田で生まれたので稗田阿礼(ひえだのあれ)というのだろうが、太安万侶(おおのやすまろ)と違って、その実在
	の信憑性は非常に低い。名前を記録されたものがほとんど無く、「語り部」と呼ばれた一群の実在も証明されてはいない。
	墓もなく、勿論どこに葬ったという記録もないし、この集落は確かに稗田だが阿礼はここで生まれたという伝承でもあっ
	たのだろうか。いずれにしても語り部の延長線で、やがて「童話、神話の神」として阿礼を祭ることになったのだと思わ
	れる。毎年、8月16日に「阿礼祭」がとり行われている。

 

 


	当初の計画だと、ここから一直線に西へ向かい、小泉の集落で小泉神社等々を見て、それからまた法隆寺めざして南下す
	る計画だったのだが、どうも全体を歩き通すと25km以上になりそうで、既に歩いてきた分が十kmほどあり、これか
	ら更に15kmほども歩かないと行けないという事が判明した。(実はうすうすそれくらいになるのではなかろうかと思
	っていたのだが、まぁたまにはいいかな、とぐらいに思っていたのだ。)しかし皆さんは、特に足腰の弱ってきた河内さ
	んはここから電車に乗って小泉まで行こうと主張する。仕方がないので決を採ったら 4:2で電車に乗る事に決定した。
	JR大和郡山駅(出発した近鉄郡山ではない。)まで歩いて、そこから小泉まで行って、その先はまた小泉で考えようと
	言うことになった。その時点で私は、あ、こりゃ今日は法隆寺は無理だなと思った。



	稗田阿礼ゆかりの地で記憶力選手権計画 奈良・大和郡山  asahi.com
	--------------------------------------------------------------------------------
	古事記の編纂(へんさん)に協力したといわれる稗田阿礼(ひえだのあれ)の出身地、奈良県大和郡山市で来年2月6日、
	国内初の「記憶力日本選手権大会」が開かれる。故事をそらんじた偉人にあやかって市教委が主催する。英国での世界選
	手権を参考に、トランプの順番を覚える競技などを企画中。小学生以上なら誰でも参加できる。 
	脳の働きを研究する京大名誉教授も問題づくりに参加する。「新しいタイプの問題も考える。難しすぎてはいけないけれ
	ど」。腕ならぬ「頭に覚えあり」のつわものたちが、その良問に挑む。 (2004/12/24 07:40) 


邪馬台国大研究ホームページ / INOUES.NET / 大和郡山