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大和郡山 大和郡山城祉・春岳院








小田切氏に始まり、筒井、豊臣秀長等を経て、維新まで柳沢15万石の城。城址には小さな
庭園があって松や梅、桜がある。4月初めには、郡山城址を中心にしてお城祭りが行われる。








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		郡山城跡
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		この郡山城跡は、天正8年(1580)筒井順慶が、当時この附近一帯に館を築きそれぞれ割壕していた豪族達
		を平定、織田信長の力を背景に大和一国の安定勢力として築城した処である。その後豊臣大納言秀長が兄秀
		吉の命を受け、俗に言う百万石の禄高をもって入城、今日に残る本格的城郭の構築を開始すると共に、城下
		町の建設にも力を尽し、次いで増田長盛の代に至ってその総縄張りが完成した。(奈良県指定史跡 )

 


		織田信長の命により、筒井で築城していた筒井順慶は急遽郡山に移り住み、天正8年(1580)に大和郡山城
		を築いた。しかし、天正12年(1584)に36歳の若さで没すると、翌13年には豊臣秀吉の異父弟にあた
		る豊臣秀長が、入城して、大和、紀伊、和泉を領地として100万石をもって統治した。その後大規模な築
		城を行ない、城下町の繁栄に力を注いだ。この頃が歴史上、大和郡山が最も栄えたとされている。当時の町
		名の名残として、鍛冶町、材木町、綿町、塩町、魚町が現存する。秀長没後、城主は次々代わったが、享保
		9年(1724)柳澤吉保の子、吉里が15万石をもって甲斐国から入城して以来、明治まで続いた。明治初年
		に城の建物は壊されたが、石垣や堀が当時の面影を伝えている。

 

 


		城跡は奈良県史跡に指定されている。本丸跡には柳澤吉保を祀る柳澤神社があり、追っ手門櫓と堀を挟んで
		続いている。この神社は明治13年に創立され。復元された追手門、隅櫓、多聞櫓などが往時を偲ばせる。
		天守台の石垣には、さかさ地蔵や羅城門の礎石など、転用石が多くある。

 

 



 

 

 





天守台へ登る石段の途中から移した光景。遠くに見えているのは城の遺構かと思ったら市民会館だった。



デジカメをズームにして写してみた。デジタルズーム(2.0倍)もなかなかじゃん。

 



天守台。どこもそうだが、天守閣そのものが建っていた敷地はそう広くない。江戸城(皇居)の天守台も狭い。



天守閣跡から城下(東)を見たところ。天守閣は復元されていないが、将来予定があるそうだ。

        

天守台の裏側(北)に、寄せ集められてきた石造物が集中している。



 


		この城跡の石垣には、筒井順慶が築城の際に、突貫工事で近郷から石をかき集めたため、平城京羅城門礎石
		や石塔、石仏などが奈良の寺院などからも寄せ集められた。このことは寺院の力を弱めるための施策ともと
		られているが、如何に急ピッチで工事をしたか当時の模様を想像出来よう。このとき集めた石仏をさかさま
		に使った事が災いしたかどうか、秀長以降しばしば城主が替わるはめとなってしまったのである。その事を
		知った関係者の手で逆さ地蔵の祠を設け、石垣の側に地蔵を配置して供養をおこなっている。

 





なかなかの門構えである。栗本さんは、「郡山なんて何もないと思っていたが、こりゃ見直さんといかんな。」と呟いていた。



 

 



堂々たる市民会館。ここの一階に郡山市から出た出土品などが少し陳列されていた、

 

 

 









 

 

 







 

 











郡山城を出て、豊臣秀長の菩提寺である「春岳院」へ向かう。

 


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		豊臣秀長(とよとみひでなが:1540-1591)
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		豊臣秀吉の弟。天文9年尾張で生まれた。始め小一郎長秀、後に秀長と名を改めた。兄に従って各地の合戦に
		おもむきしぱしば戦功を立てた。天正9年(1581)姫路城を守り、翌10年丹波を治め、やがて但馬出石に入っ
		た。同13年9月筒井定次の伊賀移封の後、郡山城に入り大和・和泉・紀伊3国の大守となった。その知行高
		は百万石(あるいは80万石)と伝えられ、9月3日に兄秀吉と共に5千人の将士を従え、南都両門跡を始め多く
		の出迎えを受け威風堂々と郡山城に入城している。
		以後郡山城は政治的、軍事的に大いに意義をもつようになる。10月に参議、翌14年11月には中納言、1
		5年8月には大納言辛に叙せられている。世に「大和大納言」と呼ぱれる所以である。
		郡山入城後の秀長は百万石にふさわしい規模の城郭と、城下町の建設に多忙をきわめる。まず、城郭のための
		石集めに当っては生駒、春日などの山石はもとより、奈良の古社寺からも多く集めた。奈良の町民達にも家並
		み五郎太郎石(大石と大石の間につめ込む小石)を20荷ずつ供出させているが、そのため方々で石の取り合い
		から騒ぎが起きている。城止の石垣に伽藍石の多いのも古社寺から持ってきたからで、奈良市破石(わりいし)
		の頭塔に残る13基の石仏(重要文化財)と全く同じ型の五尊石仏の1基(市指定文化財)が櫓の隅石に使われて
		いるのもこうした理由からであろう。また天守台の東北隅には平城京羅城門の礎石も運び込まれている。

 


		筒井順慶の時代(1549-84)に、ある程度筒井の商家が郡山に移され、毎月六斎市も立って塩、木綿、魚など
		郡山で商われていた。秀長は強力な商業保護政策をとり、奈良におげる商売はすべて禁止し、商売希望の者は
		すべて郡山で行うよう厳しい命令を出している。今に残る奈良町・堺町・今井町は当時の先進商業都市から移
		住して来た人たちの町である。
		酒造権については郡山の他、奈良にのみ認めているが、こうした政策は郡山城下に限られたものではなく、豊
		臣政権が畿内直轄地域でとった根本的な政策でもあった。「箱本十三町」の始まりはこのころのことであった。
		秀長はその性格が温厚で秀吉の部下の多くの将士達の間に立って、よく兄を補佐したといわれている。晩年秀
		長は病気がちとなり、天正18年(1590)10月には秀吉も見舞に訪れ、奈良の社寺に病気平癒の祈願をしてい
		る。翌19年1月22日城中で死去。秀長の葬儀は同月29日大徳寺古渓和尚の引導で行われ、「野も山も崩れ
		んぱかり」の人が集まったと古書は伝えている。墓地は上箕山大納言塚。法号は「大光院殿前亜相春岳紹栄大
		居士」。毎年4月22日には「大納言講奉讃会」の主催で管理寺春岳院と墓前で法要が営まれている。

 


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		大納言豊臣秀長の菩提寺 「春岳院」
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		はじめ東光院と号していたが、当時箕山にあった豊臣秀長の菩提寺である大光院が、豊臣家滅亡後京都に移築
		されたので、東光院が秀長の位牌を託され大納言塚の管理を任された。春岳院には古文書とともに秀長時代に
		箱元制度で実際に使用されたご朱印箱もある。
		秀長の法名「大光院殿前亜相春岳紹栄大居士」から春岳をもって、東光院を春岳院に改め、秀長の位牌所菩提
		寺として今日に及んでいる。
		玩本堂は桁行3間、梁問3問、寄棟造、向拝1問、切妻造、本瓦葺、正徳5年(1715)に再建されたもの。
		春岳院蔵の「御朱印箱及同文書」は「秀長画像」と共に市指定文化財となっている。また、境内の七重石塔は、
		聖武天皇の造立との伝承もあるが、鎌倉・室町時代の石造品を寄せ集めたものとされている。

 

しかしながら柵があって境内には入れない。観光客に解放しろとは言わないが、少しは見せて貰いたいもんだ。



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