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大和郡山 キリシタン殉教碑・永慶寺







		大納言塚からさらに10分ほどでキリシタン殉教碑へくる。途中「荒木又衛門の道場跡」というのを探
		したのだが、とうとうわからなかった。伊賀の「鍵屋の辻」で甥の渡部数馬に助太刀して大立ち回りを
		演じる又衛門は、数馬から助太刀を頼まれる前はこの郡山藩士だった。仇討ち成就のあとも、郡山藩主
		の後ろ盾で鳥取藩に出仕し、今、墓は鳥取にある。






		豊臣秀吉以来徳川幕府300年の長い間、切支丹迫害が続いたが、長崎市に隣接する浦上村は古くから
		キリシタンの栄えたところで、26聖人殉教にからむ土地柄でもあり、「かくれキリシタン」は根強く
		生き続けてきた。徳川幕府が倒れ明治新政府となったが、時の権力者たちには攘夷(外国・外国人を排
		斥する考え方)論者が多く、キリスト教弾圧にのりだし、戸主700人が捉えられて県外追放となった。
		3千数百人の信者が、名古屋以西の19藩に分散流配されていった。これを拒み、信仰一筋に命を捨て
		て殉教した者も6百数十名に及んだと記録されている。郡山藩に預けられたのは、戸主10名と14家
		族76名だった。

		明治2年(1869)1月、寒風にさらされ風呂敷包み一つ、乳児を抱え着のみ着姿のままで、役人に引き
		立てられながら、長崎から郡山までの長い道のりを、ロザリオを唱えながら神のみを信じて、行く当て
		もしらず歩いた旅路は、いったいどのような胸中であったのだろうか。今日の我々には想像の出来ない、
		悲惨な旅路だったのであろう。戸主は船で大阪を経て、家族は陸路時津から彼杵に渡り、大村湾の畑島
		から乗船し海路大阪に着き、生駒の山越えで郡山の役人に引き渡されたと記録されている。

		郡山に着いた家族は、鍛冶町にある雲幻寺の本堂に収容されるが、ここで先に捉えられ拉致されていた
		戸主10名と出会い、夢かとばかり驚嘆した。さらには、風呂あり火鉢あり、旅館からの炊き出しの食
		事もあって、番人はいるものの何不自由のない生活がしばらく続く。雲幻寺から金崎という立派な旅館
		に移され、また、堺町の明石屋、魚町、錦町他などに分囚されていくのであるが、厚遇は続いていた。
		これは、「流配信徒の処遇は寛大にすべきである。」という郡山藩主、柳沢保申の計らいによるもので
		あった。
		その思いやりにもかかわらず、明治4年の夏、政府からの実情調査もあり、待遇は悪化しカユをすすり
		ながら炎天下での作業などに従事させられていくことになる。明治5年、三重の津に預けられていたキ
		リシタンのうち28名が大和の古市(津藩領)に移されてきて、やがて郡山藩に併せ預けられ、郡山城
		三の丸に一緒に入れられた。この年の12月、12歳から20歳までの男女は親から離され、奈良の大
		仏殿近くでの仕事にかり出された。その他の者は天の川銀山(今の吉野郡天川村)で男は採掘、女は賄
		いに従事させられ、山間の僻地のこととて食物もろくになく、次第に辛酸をなめる生活になっていく。
		執ような改宗の厳しい責め苦、重い労働、激しい飢餓、寒気・病魔との戦いが続いた。

		明治新政府の諸改革も進み、信教の自由を求める声も高まり、カトリック諸国からの要求もあって、つ
		いに明治政府は、明治6年3月、「異教徒復籍ノ事」として「キリシタン放環令」を発表。4月に郡山
		藩に預けられていた114名(改心2,不改心107,生児4)は、神戸港から喜々として帰国の途に
		ついた。
		切支丹迫害は、日本の歴史の中でも幾多の貴い犠牲を出してきた。長崎県浦上村民3,416名は、こと
		ごとく拿捕され、家族分散総流罪され、幾多の辛苦を乗り越えてやがて帰国できたが、受難者達の語っ
		た話は、「奈良県百年史」「大和郡山市史」などに残っている。

 

ここは驚きだった。明治政府になってもキリシタン弾圧をやっていたとは知らなかった。まだまだ知らない事ばかりだ。

 

殉教碑からものの1,2分で永慶寺に着く。唐風の門構えが目に付く。





この寺は藩主柳沢家の移封に伴って甲府から移転してきた。

 

 

上右の表札を見て錦織さんとの会話。「なんか、殿様に付いてくる忠実な僕そのままのような名前ですな。」「いかにも」

 


		概して城下町には寺社仏閣が多い。これは農民達の信仰する一向宗(浄土真宗)や法華宗と違って、武士
		たちが禅宗を信仰し、また代々それぞれの家で宗派が違うため、この寺のように、支援者に付いて新しい
		移封地へ移ってきたり、新しく寺を起こしたりした例があるためである。武士が出家して新しく寺を起こ
		す例もある。


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