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大和郡山 2004.9.25(土) 歴史倶楽部第88回例会 秋空の下を、筒井順慶・豊臣秀長の城下町から法隆寺へ




		第88回例会案内
		場所   :奈良県大和郡山市(出発=近鉄大和郡山駅 到着=法隆寺)
		日時   :9月25日(土)
		集合場所 :AM8:40近鉄電車なんば駅(大阪組)
	   		  奈良の人は9:30までに「大和郡山駅」へ集合して下さい。
		費用   :交通費(大阪組540円+620円)、+ 反省会費用
		持参する物弁当。雨具、替え上下着等々(雨具はお忘れ無く。)
		行程    なんば駅(8:53)−奈良線快速急行−西大寺着(9:22)9:24発 −(橿原線急行)−大和郡山駅(9:29着)

		近鉄大和郡山駅  ↓ 丸山古墳  ↓ 大納言塚 ↓ 荒木又右衛門道場跡 ↓ キリシタン殉教碑 ↓ 永慶寺 ↓ 郡山城址 ↓ 
		春岳院 ↓ 羅城門跡 ↓ 売太神社 ↓ 稗田環濠集落  ↓ 慈光院・六道山古墳 ↓ 小泉城跡・小泉神社 ↓ 中宮寺跡 ↓ 
		法隆寺境内  ↓ 藤ノ木古墳 ↓ JR法隆寺駅




		
		<大和郡山市の沿革> (大和郡山市HP他より)
		
		縄文時代(晩期)の「下池遺跡」 
		横田町集落の北方にある下池で、土砂採取中に弥生式土器や石包丁、土師器がみつかり、池の中央部からは、
		井戸や縄文式土器も数点発見されている。 

		弥生時代「古屋敷遺跡」
		満願寺町古屋敷の東北地帯で、弥生式土器と石屑に混じって石鏃(せきぞく・石のやじり)が見つかってい
		る。石屑には比較的大きなものがあり、相当な規模の住居跡と考えられている。  
		「西田中遺跡」
		西田中町の東南で、弥生式土器片や石器が発見された。昭和58年の発掘調査では竪穴式住居・土壙(どこう・
		土のあな)・ピット・溝などいずれも約2000年前の弥生時代中期の遺構が発見され、数多くの土器や石器も出
		土している。竪穴式住居跡は、直径約8bの円形の平面形をもつ大きさで、中央に炉跡があり、灰が厚く堆積
		していた。排水溝が外に向かってのび、炉のまわりには柱穴があって住居の屋根を支えた主柱と推定される。

		古墳時代「小泉大塚古墳」
		小泉町大塚にある。矢田丘陵の東南端にある4世紀頃の古墳で、市内では最も古い。全長約80m、前方部の幅
		約40m、高さ約2m、後円部の径約50m、高さ約7mの前方後円墳で、宅地造成のため前方部と後円部の周辺が採
		土されて、現在では円墳のような状態になっている。調査の時に、土師器・鏡3面・剣1口・刀1口などが出
		土している。『大和名所図会』に「赤檮墓小泉村にあり、赤檮は物部守屋を射たりし人也」とあって、この塚
		が赤檮(いちび)の墓と伝えられてきた。 
		・「六道山古墳」
		小泉町六道にある。前方後円墳で、墳丘の主軸全長約100m、後円部の径約75m、高さ約14m、前方部の幅約50m、
		高さ約6mの3段築成で、面積6畝5歩と記録され官有地である。慈光院の南にあたるので慈光院山とも呼ば
		れ5世紀初頭頃の古墳と考えられている 
		・「割塚古墳」
		昭和53年4月20日市指定文化財(史跡)で千日町にある。矢田丘陵の一支脈の先端に築かれた古墳。直径約49m、
		高さ約4.5mの円墳で、頂上には盗掘されたと思われる大きなくぼみがあり、このために割塚(車塚)の名で呼
		ばれてきた。昭和43年発掘調査が行われ、南に向かって開口する横穴式石室を主体部とする古墳であることが
		判明した。玄室からはくり抜き式の家形石棺が発見された。また、副葬品として鏡1面・垂下式耳飾2対・水
		晶製切子玉・碧玉(へきぎょく)製菅玉などがあり、棺の周辺からは馬具・挂甲・鉄鏃・須恵器などが出土し
		た。6世紀前半の築造と思われる。その後、盗掘前の原型に戻され、町内の緑地公園として保存されている。 
		・「笹尾古墳」 
		小泉町にある。昭和56年11月国立療養所松籟荘内の宿舎の基礎工事の際、石室が発見され、翌57年2月保存の
		ための発掘が行われた。墳丘は円形、径約27m、周囲に幅約4mにわたる周溝が作られている。内部の石室は両
		袖式横穴式で、玄室の長さは4.5m、幅は北隅で2.17m、中央で2.63m、南隅で2.6m。石室内には家形石棺の破片
		が散乱していた。また、羨道(せんどう)の北半部を中心に木棺材やその周囲に釘がかたまって出土し、大理
		石製の石帯(巡方)が3個出土しているので後世の追葬も考えられる。古墳は6世紀から7世紀前半の築造と
		推定される。 

		和銅3年(710)都が飛鳥(藤原京)から平城(なら、平城京)に移り、都の南京終には羅城門があって、この
		都の郊外には大宮人のための保養所「薬園宮」があり、東大寺領清澄庄に属し寺領「郡山」(応保2年、1162)
		と呼ばれていた。

		その後、中世末期の混乱期を経て、織田信長と組んだ筒井順慶(「洞ケ峠を決め込んだ」という言葉のルーツ)
		が大和を統一し、天正8年(1580)筒井から郡山に移り、明智光秀の指導で城郭の整備にかかった。ところが、
		本能寺の変から山崎の合戦までの大騒動となり、順慶の死後を継いだ定次が突然秀吉から伊賀上野へ国替を命
		じられた後、天正13年(1585)豊臣秀吉の弟、大納言秀長が郡山城に入り、紀伊、和泉、大和三ケ国で百万石
		を領し、紀州根来寺の大門を城門にしたり、周辺の神社、仏閣から仏石、墓石等、あるいは春日奥山から大石
		を切り出し運び、城郭の大増築と城下町を建設した。
		その後水野、松平、本多等数代の城主の後、享保9年(1724)5代将軍徳川綱吉の側用人をつとめた柳澤吉保の
		子、吉里が甲府より転じ15万石を以って入部、2代目信鴻以下常に文治に秀でた藩主に恵まれ、城下を中心と
		して、神学、国学、漢学、俳諧、茶道、花道などが栄え、江戸時代に金魚養殖、赤膚焼がさかんとなった。柳
		澤藩の重臣で博学多芸特に書画をよくした、柳里恭など代表的な文人も出、政治経済の実学にすぐれた儒学者、
		熊沢蕃山、剣術指南役、荒木又右衛門なども住んでいた。

		
		まったくけしからん事に、大和郡山では、ここが邪馬台国だと称して、ミス卑弥呼コンテストなんぞを
		やらかしている。何でもかんでも、言えばいいっちゅうもんじゃないが。







 


				「大和郡山・丸山古墳・大納言塚」
				「キリシタン殉教碑・永慶寺」
				「郡山城址・春岳院」
				「羅城門跡・稗田環濠集落・売太神社」
				「小泉神社・慈光院・六道山古墳」

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