SOUND:Penny Lane
桜井から柳本へ 桜舞う花の季節に





	
	「山辺の道」は、関西のハイキング、ウォ−キングの代表的な散策路として有名である。季節を問わず、老若男女のハイカー達で
	賑わう。奈良盆地の東側を、桜井・天理・奈良とつながり、三輪・巻向・竜王の山々を間近に望み、金剛・葛城・二上・生駒連山
	等々を遠望しながら、古来より佇む社寺・史跡・古墳等々を尋ねながら歩く、約26kmの散歩道だ。急坂はなく、平坦な田舎道
	を四季折々の風光を愛でながら辿る。山辺の道は、正式には北部(奈良〜天理:10km)と南部(天理〜桜井:16km)とに
	分かれるらしいが、いわゆる「山辺道」として一般に親しまれているのはもっぱら南部のほうである。それも、神奈備(かんなび
	:神の宿る所:神体山)の大神神社(おおみわじんじゃ)から天理へ向けてスタートする北上コースと、逆に天理を起点に、石上
	(いそのかみ)神宮から三輪山をめざす南下コースとがあるが、一般的には北上コースが多い。

 

	
	数年前、二三度天理から大三輪神社までを歩いたが、いつも三輪で終了するので、今回は桜井から歩いてみる事にした。近鉄桜井
	駅を背に北へ歩き出し、金屋の集落を目指す。山辺の道には道標は至る所にあり、迷う心配はほとんど無い。

	山辺道は記紀にも記載があり、古代の大王やゆかりの人々が歩いた道である。多くの天皇達もまたこの道を歩いていった事だろう。
	平安時代には、京都から長谷観音や伊勢神宮への参詣の道として、枕草子や源氏物語その他数々の書物にしばしば登場している。
	三島由紀夫の「豊饒の海」にも登場する。

 

 



 



	
	【仏教伝来碑】
	記紀には、物資の流通、商業行為の拠点として、都の周辺に「海石榴市(つばいち/つばきいち)」とよばれる市場が作られたと
	記述されており、万葉集の歌にもしばしばこの地が登場する。この海石榴市は、現在の奈良県桜井市の金屋周辺と推定されている。
	三輪山麓で、東西南北からの街道が交差し、大和川を物資を積んだ船が上り下りしていたものと思われ、市が立ち、大陸からの賓
	客を迎える都への玄関口であったと推定されている。仏教が我が国へ初めて伝来したという552年(538?)、欽明天皇の宮
	がこのあたりにあったと推定されることから、仏像と経論を携えた百済聖明王の使者が上陸の第一歩をこの地にしるしたという事
	で、大和川河畔に「仏教伝来碑」がたっている。付近の河原は公園として整備されており、折しも桜が満開で、この碑の側でも、
	敬老会のような団体が花見を楽しんでいた。

 



 

 

	
	古代大和朝廷の都は、多くが桜井市周辺に存在しており、当時の物流は水運中心だったと考えられる。桜井は山辺の道をはじめと
	するいくつかの古道が交わっているが、難波津(なにわのつ:現在の大阪市北のあたり?)から大和川を逆行してきた船は海石榴
	市を終着地とし、大和朝廷と交渉を持つ国々の使節が発着する都の外港としても重要な役割を果たしていた。遣隋使小野妹子は斐
	世清(はいせいせい)と共に、難波津から大和川を遡り、海石榴市に上陸した (608年)。 海石榴市には水路として、大和川
	以外にも運河が掘られ、船による物資搬入が盛んだった。物資は船着き場から倉庫へ運び込まれ、海石榴市の中には許可を得た業
	者が店を出していた。商品は公定価格を持ち、計量に用いる升や天秤は検定を受けた。また取引方法などについても細かい規則が
	あった。公式の市以外での商品の取引は禁止されていたので、あらゆるものが海石榴市で取引されたものと思われる。



	
	商業拠点として栄えた海石榴市は、多くの人が集まる場としての機能ももっていた。その一つに歌垣(うたがき)がある。男女の
	出会いの場として機能し、互いに歌を詠みあった男女が交際したり、歌舞飲食し、性的な解放の場ともなったようである。歌垣は
	東国では「かがい」とも言われるが、ここでは一夜妻も許されていた。

	「紫は灰さす物そ海柘榴市の八十のちまたに逢える児やたれ」 万葉集12−3101

	海柘榴市は古代の市場として大いに栄えたが、いまは金屋の集落の片隅に立つ道標と、海石榴市観音というお堂にその面影を偲ぶ
	ばかりである。桜井市では、金屋(かなや)の河川敷公園で毎年、「大和さくらい万葉まつり」というイベントを開催して、かっ
	ての海柘榴市の隆盛を復活させようとしている。金屋河川敷公園に地元の店がこの日は露天を出して、地域の特産品などを販売し、
	当時の海石榴市のようすや、や遣隋使が帰ってきた様子などを市民の手で再現して、 桜井市の豊かな自然と歴史を味わってもらお
	うとしている。

 

	
	最近新築された海石榴市観音堂。菩薩二体が安置されている。十一面観音、聖観音で、二体合わせて海石榴市観音として親しまれ
	ている。平安時代に、京都から長谷観音詣でへの通り道であったので、観音を祭るお堂が建てられたと伝わる。ここで一緒になっ
	た中年の夫婦の奥さんは、「工事現場のような御堂ですね。」と言っていた。

 

	
	「海石榴」、「海柘榴」、「海榴」と書いて、つばきと呼ばせているが、石榴・柘榴はほんとはざくろである。なぜつばきと呼ぶ
	のかには諸説あるが、その昔、日本特産のツバキが中国に渡ったとき、中国のザクロに似た花と実をつけたので「海を渡ってきた
	ザクロ(海柘榴)」の漢名があてられ、そのまま日本に漢字として帰ってきたというような説もある。

 

 

	
	【金屋石仏】
	平安時代の後期から鎌倉時代の作と伝えられる石仏が2体、泥板岩に浮き彫りにされている。右側が釈迦如来像、左が弥勒菩薩像
	で、以前は雨ざらしの野仏だったが、近年このような建物に収められた。ここはかって発掘調査された際、縄文・弥生時代の土器
	・石器に混じって、製鉄に関係するものが出土したことから、金屋の地名もそこから来ていると推測される。収蔵庫の鉄格子から
	中へ手を入れて撮影した。小さいデジカメはこういうとき便利である。一体は石棺の蓋に彫られたものだろうと説明にあるが、そ
	の石棺の身のほうは床下に横たわっている。この近辺の古墳から出土したものと考えられる。もともとは三輪山中腹に安置されて
	いたが、明治初年の神仏分離によりこのあたりに移されたという。重要文化財。



 

 

	
	【崇神天皇磯城端籬宮跡(しきみずがきのみやあと)】
	第10代崇神天皇の宮殿があった所とされている。初代神武天皇から欠史八代の、9代開化天皇までは実在した天皇ではない、と
	いうのが戦後歴史学界の定説である。この第10代崇神天皇が大和朝廷の初代ではないかという説は結構有力で、そうするとここ
	が日本の最初の首都であったのかもしれないのだ。あとで見て頂くように、この天皇陵は三輪山の北の方にあり、山辺の道の散策
	コースの脇にある。大きな立て看板の横を進んでいくとすぐ志貴(磯城)県坐(主)神社がある。磯城県主神社はこの地の有力な
	豪族であった磯城県主(しきのあがたぬし)の氏神であろうと思われる。

 

 

 

平等寺は聖徳太子が建立したと伝えられ、石像が境内にある。



 

 

 

 

	
	【大神神社(おおみわじんじゃ)】 
	祭神は大物主神(おおものぬしのみこと)であるが、ご神体は神社の東の方向にある「三輪山」そのものである。神々の宿る神聖
	な山を神奈備(かんなび)というが、三輪山は神奈備として太古の昔から崇められてきた。神代の昔、大己貴神(おおなむちのみ
	こと)が自らの魂を三輪山に鎮め、大物主神の名で祀られたのが大神神社の創始であるという。大物主神は国造りの神様として、
	また、酒造、医薬、方除など生活全般の守護神とされているが、大己貴神(大国主命)と大物主神とはそもそも別個の神格であり、
	これが一つになった所に三輪王朝と出雲との関係を窺わせる。いずれにしても、大神神社は大和一の宮、大和で最古の神社であり、
	日本最古の神社の一つとしてよく知られている。現在でも本殿はなく、拝殿からご神体である三輪山を拝するという原始形態の神
	祀りの様式をとっている。祭神は大物主神であるが、配祀として大己貴神と少彦名神(すくなひこなのかみ)を祀っており、いく
	つかの伝説や説話が、大物主神という一つの神に統合されたものかもしれない。 



	
	大神神社の拝殿前には、樹齢600年と言われる二股の老杉「巳の神杉」が玉垣に囲まれている。杉を神が宿る霊木とし、蛇を神
	の使いとする三輪流神道の信仰である。根本の祠に蛇が棲みつき、賽銭箱には蛇が飲むためか卵や酒や米が供えられている。この
	日も何人かこの老木に向かってお辞儀している人たちがいた。三輪山周辺の箸墓にも蛇信仰が伝わっており、この円錐形の山には
	昔から蛇が多かったのかもしれない。その「巳の神杉」の南側の石段を降りた所に、謡曲「三輪」にあらわれる「衣掛杉」の古木
	の根株がある。



	
	三輪山を神体とするため、古来から神(本)殿はない。拝殿は徳川四代将軍家綱の造営で重要文化財である。三輪山そのものは標
	高467mだが、山中に巨大な岩が露出していて、これらの岩は神が降臨してくる神聖な場所として崇められ「磐座(いわくら)」
	と呼ばれている。

 

 





 

	
	【久延彦(毘古)神社(くえひこじんじゃ)】
	祭神は久延彦命(くえひこのみこと)。久延彦命は出雲神話で、大国主命に少彦名神の正体を伝えたところから、大国主命の知恵
	袋といわれ、そのため古来より、知恵の神様、学問芸能、頭の神様として信仰されている。受験シーズンには学業成就の祈願に来
	る受験生が多い。居ながらにして世の中の事をことごとく知っている智恵の大神という事で、所謂「山田の案山子」と同一視され
	るが、なぜカカシなのかはよくわからない。カカシには田を守る蛇神の属性もあるというので、久延彦命にも蛇神の性格があった
	のかもしれない。

 

	
	この社殿は、約200年前に奈良の春日大社の本殿として、実際に使われていたもので、その後大阪府枚方市にある山田神社に移
	築、本殿として使用されていたが、 昭和52年、 山田神社より当神社に寄贈され、再び移築されたものと言う。

 



この神社の展望台から見た奈良盆地の光景。

 

 

	
	【狭井神社(さいじんじゃ)】
	久延彦神社から降りて来てしばらく行くとこの神社がある。拝殿の右側に三輪山へ登る登山道の入り口があり、拝殿の左後ろに井
	戸があって、誰でも自由にご神水を飲むことが出来る。

 

 





 



 

 

	
	【狭井川】
	小道を辿ると、石段で組まれた堤防の小さな川を渡る。これが狭井川である。何の変哲もない田舎の小川であるが、この川の付近
	に神武天皇の后の一人である伊須気余理比売(いすきよりひめ)の実家があって、天皇が度々ここを訪れたと古事記に記載されて
	いる。「葦原の しげしき小屋に菅畳 いやさか敷きて わが二人寝し」という天皇の歌がある。狭井川のほとりに、「神武天皇
	狭井河上顕彰碑」と刻んだ大きな石碑が立っている。昭和15年、皇紀2600年を記念して立てられた。



 

 

	
	【玄賓庵(げんぴんあん)】
	ここは平安時代の初期、玄賓僧都(げんぴんぞうず)が隠遁した庵と伝えられる。もとは三輪山の松原谷にあって山岳仏教の寺と
	して栄えたが、その後荒廃し、寛文7年(1667)に比久宴光が再興した。明治の神仏分離で現在地に移った。

	世阿弥元清の謡曲「三輪」に玄賓の伝説が登場する。

	玄賓は弓削氏の流れを汲む河内の人で、遁世の志深く、山階寺(興福寺の前身)に住んでいたが、桓武天皇の病気平癒に功あり、
	律師に任じられたが辞退して三輪山の奥に入る。勅使が追って来て、僧都宣命の詔を伝えたが、玄賓は歌を作って固辞した。 

		○三輪川の清き流れに洗ひてし 衣の袖は更にけがさじ 

 

 







	
	【檜原(ひばら)神社】
	大神神社の摂社の一つで、三輪山の中にある磐座をご神体にしている。大神神社同様に本殿はなく、拝殿もない。大神神社では拝
	殿の奥にあって見えなかった三輪特有の「三つ鳥居」が見え、ここではその奥に磐座も見える。三つ鳥居は拝殿と禁足地とを区切
	る地点、即ち拝殿の奥正面に建っている。かっては大物主命、大己貴命、少彦名命それぞれの祭祀の庭が3ケ所に分かれていたの
	を、1カ所に纏めた際に、三個の鳥居を一体に組合わせた形式の鳥居が出来上がったと言われ、この三輪にしか見られない非常に
	珍しいものである。

 

	
	「豊鍬入姫命笠縫邑(とよすきいりひめのみことかさぬいのむら)」と書いた大きな石碑が立っている。崇神天皇の頃、天照大神
	を祀った笠縫邑(やまとのかさぬいむら)の伝承がある。当初天照大神は大物主命と共に祭られていたが天災が多く発生したので、
	分離して天照大神をこの地に祭ったと言われている。その後各地を転々として最後は伊勢に祭られるようになったので、ここは
	「元伊勢」と呼ばれる。



	
	「大神神社の摂社、桧原神社は天照大御神を御祀りし、御神体は三輪山麓なる桧原の地に鎮まります。第十代崇神天皇の御代、は
	じめて皇祖天照大御神を宮中から御遷しになってお祀りし、皇女豊鍬入姫命が捧持せられた「倭の笠縫邑」また「磯城神籬」は、
	この社地である。古来、社頭の規模など大神本社に準じ、禁足地と三ツ鳥居を有している。 」

 

 



 

 

 

 

 

 

上右の石柱の題字は小林秀雄によるもの。この道の所々にある。

 

 



	
	【景行天皇陵(渋谷向山古墳)】
	イチゴのビニールハウスの後ろに景行天皇陵。前方後円墳を横から眺める。この辺り一帯の古墳群を「柳本古墳群」といい、中で
	も最大の古墳で全長が300mもある。4世紀の末頃に築かれた前方後円墳である。景行天皇の陵として宮内庁管理下にあるが、
	実際の所被葬者は不明である。。

 



 



これは景行陵の陪塚(ばいちょう)で、これも宮内庁が管理している。

 



 

 



		
	崇神陵の真後ろ、池の左側に「双方中円墳」という珍しい櫛山古墳がある。解説は説明版を参照されたい。ここから周濠に沿って
	左へ回り込んで、集落へ入ってゆく。 

 





 





 

	
	【長岳寺】
	櫛山古墳から来た道を進み、山辺の道のまん中当たりまで来たあたりで「長岳寺」の楼門が見えて来る。右側に長岳寺の駐車場が
	あるが、そのまま直進し、根がむき出しになった木(根上がりの松)の所を右へ曲がる。長岳寺の表門である。門前の根上がりの
	松は、戦国時代に土塁上に松が生えていたが、道路が広がるにつれその石垣が外されて松が現れ、現在の姿になったと言う。

 

 

	
	天長元年(824)に淳和天皇の勅願によって弘法大師が創建したと伝わる。上右の楼門だけが創建当初の建物として残っている。
	日本最古の鐘楼門である。楼門手前左にある庫裡は室町時代に建立された旧地蔵院であり、重要文化財に指定されている。楼門を
	入ると右が池で左に本堂がある。本堂には玉眼(従来の彫眼に対し、眼球の部分を刳り抜き球体の水晶を嵌め込んだもの)を使っ
	た藤原時代作の阿弥陀三尊が本尊として安置されている。多聞天、増長天(藤原時代作)と共に重要文化財である。
	本堂左の石段を上って右へ標識に従って坂を上ると石棺仏がある。この辺りの古墳から出土した石棺の蓋を利用して弥勒菩薩が刻
	まれている。鎌倉時代の作という。 



 



	
	この寺は弘法大師が大和神社の神宮寺として創建した。中世には広大な寺領を有し、42の堂塔が並び盛観を極めていたが、秀吉
	のとき300石の寺領を没収された。家康は寺禄100石を寄せたが漸次衰微し、明治の排仏毀釈に遭い、内務省の保存資金20
	0円を下賜され、特別保護建造物に指定されて今日に至っている。

	今日は桜が満開だったが、前回訪れたときはツツジが満開で、この寺の周辺には四季折々の花々が咲き乱れる。写真を写したつも
	りだった池の中にも沢山の水花が咲いていた。

 

 

	
	長岳寺を出てJR柳本駅へ歩いていく途中にある長岳寺の飛び地。ここに五智堂と呼ばれる御堂がある。なんでこんな離れたとこ
	ろにポツンと建っているのか。どこから見ても正面に見えるので正面堂ともいうそうだ。

 

 

 



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