Music: Yellow Submarine
剣豪たちが歩いた柳生への道 歴史倶楽部第68回例会 柳生街道をくだる 2002.11.24(日曜)





	1998年に剣豪の里・柳生を訪ねた。あれから4年。前回は、笠置山から柳生の里を経由して忍辱山(にんにくせん)円成寺
	までの歩きだったが、今回はその残り、すなわち忍辱山から柳生街道を経て奈良市内までである。約9km。前回が約16
	kmだったので、これで総距離25kmを全部走破した。参加者は当初の10名から一人減り二人減りして、服部、栗本、
	橋本、錦織、新開、井上の総勢6名。まぁ、こんなもんか。本当は9月例会に予定していたのだが雨で中止となり、10月
	が韓国へ行ったので11月例会となった。しかし紅葉が綺麗で、今月になってかえって良かった。紅葉の最後の美しさが見
	事だった。翌日(25日)は近畿一円雨となり、これでこの綺麗な紅葉も散ってしまって、文字通り今年最後の輝きを見たこ
	とになった。


忍辱山・円成寺(にんにくせん・えんじょうじ)

	柳生街道はその大部分が東海自然歩道に指定されている。四季を通じて様々な趣が楽しめるため、一年を通じてハイキング
	客が多い。街道は、そのコースが2つに分けられ、柳生の里〜円成寺までの剣豪コースと、円成寺〜奈良町までの滝坂道コ
	ースが一般的である。さらに柳生の里〜笠置駅までを剣豪コースに加える場合もある。前半の道は、1971年のNHK大河ド
	ラマ山岡荘八原作の「春の坂道」の舞台として有名になった。当時は多くの観光客が押し寄せたようだが、今は閑散とした
	山峡の村である。後半の道は、小さな小川のせせらぎを耳にしながら渓流に沿って歩く。前半と後半を一気に歩くと約21
	km、笠置まで行って約25kmの道のりとなる。

 

	近鉄奈良駅前から忍辱山まで約30分バスに乗り、奈良を目指して歩き出す。この街道随一の名刹円成寺から奈良へ、かっ
	ての剣豪達が柳生目指して歩いてきた道を、反対側から歩くのだ。柳生但馬守宗矩や十兵衛が歩いた滝坂の道を通り、約4
	時間の道のり。

	柳生は江戸時代、徳川家康、秀忠、家光に仕えた柳生藩の里であり、柳生宗矩は将軍家の剣法師範をつとめた。現在も、家
	老屋敷、柳生藩菩提寺の芳徳寺、柳生藩陣屋跡などが残っている。(歴史倶楽部番外編・「剣豪の里柳生」を参照。)


	「忍辱山円成寺」の庭園
	天平勝宝8年( 756)に唐僧・虚龍和上が開山したと伝えられる柳生街道第一の名刹。浄土式と舟遊」を兼備した庭園とし
	て有名な寺である。浄土式庭園というのは京都ではあちこちで見かけるが、奈良ではここと当尾の浄瑠璃寺が有名。後に真
	言宗忍辱山流の本山として栄え、境内には本堂・多宝塔・春日堂・白山堂がある。特に春日堂・白山堂は、建造物としては
	日本で一番小さい国宝で、両方とも一間社春日造りの檜皮葺である。重要文化財の楼門を通り、重要文化財の宇賀神本殿、
	重要文化財の五輪塔を見ることができる。本堂内には、本尊阿弥陀如来象(重文)や大日如来座像(運慶作・国宝)などの
	宝物もあり、この寺の格式の高さを誇っている。

 

 

 

	紅葉が池に映える円成寺を出て国道を逆戻りして横断する。歩きはじめると、すぐなだらかな登りになる。円成寺墓地の横
	を登ると木立に囲まれた平坦な山道が続く。やがて茶畑が一望できるあたりに出る。ちょんまげを頭に乗せて、二本差しを
	携えた侍がフッと現れそうな気がする。




	街道沿いの民家の軒先では、小豆やお茶の葉を売っている。おばさんやおばあさんが愛想良く声を掛けるが、デカイ大根な
	どはとても持って歩けない。
	畑の収穫物を見ながら東海自然歩道の道標に沿って歩く。お茶畑にお茶の花が咲いていた。「そうか、お茶も椿と同じ種類
	だから、寒い今頃花が咲くんやな。」と錦織さん。
	「お茶は夏暑くて冬寒うないと育たんのよね。」「あ、そうでっか?」

 


	なおも緩やかな登りが続く山道をゆくと、やがて前途が開け「峠の茶屋」に到着する。峠の茶屋は、石切峠の近くにある茶
	店で、各雑誌等に紹介されているので、ここを歩く人は誰もが知っている。我々は柳生街道を下っているのでさほどでもな
	いが、奈良から石畳の山道を登って歩いてきた人たちにはホッとする休憩場所だろう。うどんやビール、草餅など簡単な食
	事がとることができる。

 




	今日も床机や部屋の中は満員で、「天ぷらうどんはどなたぁ〜」と店主が走り回っていた。家の鴨居には、槍や陣笠が掛け
	られている。旅人が茶代のカタに置いていったとされる槍や火縄銃・古い箕の笠などを見ることができる。残念ながら見れ
	なかったが、昔ここを通りかかった武芸者が飲み代のかたにしたと言われている神道無念流を図解した武芸帳もあるそうだ。






	しばらく行くと車道にでて、ここから春日山石窟仏を見て首切り地蔵へ至る道と、地獄谷石窟仏を見て首切り地蔵へ至る道
	とに分かれている。我々は地獄谷の方へ降りていくことにした。



 


	ここから本格的なハイキング道に入り、雑木林や丘陵地帯を過ぎてゆく。しだいに紅葉が色鮮やかなものになってゆく。

 

 


	自動車道路を横切りけもの道に近い細い道である地獄谷コースへ進むと、ほどなく「地獄谷石窟仏」と書いた標識と石窟
	を囲んだ金網が見える。金網の中に、まるで横穴古墳のような石窟が見え、その隣の浅い洞窟の石面に三尊像が描かれて
	いる。その側面にも壁画があるが、これはもうかすれて画像とは認識できない。かなり痛みが激しい石仏たちだが、製作
	は平安時代末期と書いてあるので、ほんとならかすれていてもしかたがないのかも。それにしてもこの街道はずいぶん古
	くから使われていたものである。

 



 




	この辺りは春日山の修養道場の拠点であったという。石仏の多い場所であり、この辺りの石仏は平安末期にほられたもの
	が多いようだ。アップダウンが続く渓流の側の道をひたすら歩いて行くと、やがて「地獄谷新池」と呼ばれる池のほとり
	にでる。このあたりから見事な紅葉の天井が本格的に連なる。






	我々は柳生街道を下っているので、地獄谷石窟仏の案内板が、現場を見終わって500mほど降りてきたところにあった。
	車道の際である。ここから車道を横切って首切り地蔵・滝阪道へと下ってゆく。

 

 

 
「地獄谷新池」ボーイスカウトの一団がいた。

 




	<首切り地蔵>
	地蔵の首は、柳生の剣豪柳生十兵衛の弟子、荒木又右衛門が試し斬りしたという伝説があり、近寄ってみると確かに首と
	胴体は離れている。落ちないように乗せてあるが、まさしく切ったように横に切れ目が入っている。荒木又右衛門は、柳
	生道場へ剣の修業に通っていた新蔭流の使い手で、後に伊賀上野の「鍵屋の辻」で十数人を討ち倒し、見事仇討を果たし
	た事で有名だが、この又右衛門がこの地蔵で剣の試し切りをして真二つにしたと言う。真偽のほどは定かでないが、柳生
	にある柳生石舟斎が真二つにしたという岩に比べれば、こっちのほうがほんとらしく見える。

 

 


	地蔵は2メートルほどの石像で、軟質の凝灰岩でできており鎌倉時代の製作だろうと言われている。林の中に立っている
	せいか全身苔で覆われている。このあたりも滝坂道にあたるのだが、ちょうどここが奥山ドライブウエイ、柳生街道、地
	獄谷へと分かれる場所にたっているので、古くから街道の目印となっていたようだ。分岐の左側に、春日山石窟仏への細
	い登り道が伸びている。首切地蔵から滝坂道道標までの石畳の道沿いにもたくさんの石仏が点在している。



 


	この辺りは緑に包まれた幽玄境である。今日は結構人がいるが、人影のない時はまさしく静寂の世界だろうと思われる。
	とちゅう歩きながら服部さんは、「ここ一人で歩いたらちょっと怖いな。」と言っていた。ひときわ寂しさが迫ってきそ
	うな場所である。




	首切地蔵から滝坂道道標までの石畳の道沿いにもたくさんの石仏が点在する。早朝、朝日が昇るとまずこの岩を照らすこ
	とから名付けられた朝日観音(実は弥勒菩薩)、逆に夕日を浴びて微笑する夕日観音、そして三体地蔵、寝仏、滝坂地蔵
	などの石仏が、静寂な山間の道沿いに点在している。いったいなぜこれだけ多くの石仏がこの街道筋にあるのだろうか。
	春日山一帯は古くは修験の場だったというから、修験者達が修行の一環として岩盤に御仏たちを彫ったのかもしれない。

 

 


	「滝坂の道」は、春日山と高円(たかまど)山の谷あい、渓流に沿った2.5キロにわたる石畳の道である。江戸時代初
	期、当時の奈良奉行が石畳を敷き詰めたと言われるが、家康の威光を背にした柳生藩の要請であったとも言われる。街道
	は今も昔の風情を伝えている。界隈は、平安時代から鎌倉時代にかけて南都七大寺の僧たちの修行の場で、昼なお暗い樹
	林のなかに、苔むす石仏像がいくつもたたずむ。江戸時代には、柳生の里へ向かう多くの武芸者たちがこの道を歩いた。
	宮本武蔵、柳生十兵衛や前述の荒木又右衛門といった高名な武芸者たちもこの道を通って行ったのである。
 
 




	滝坂の道はその名前の通り美しいせせらぎの音がきこえる古道である。この道は柳生の里と奈良の都をつなぐ生活のため
	の道として古くから利用され、かつては塩や食料品などの生活物資を車に乗せて多くの人がここを通ったようだ。今では、
	剣豪の里柳生への道として有名だが、それ以前は春日山にまつわる信仰の道として存在したため、道沿いに石仏や石窟が
	多い。道沿いに流れる渓流には小さな滝が多くある。春は新緑、秋は紅葉に包まれ、この辺りの風情が柳生街道でもっと
	も人気があるようだ。実際この日の紅葉は、翌日近畿地方全般が雨になった事もあって、今年最後の紅葉だった。赤、黄、
	緑に包まれて、この世のものとは思えないような光景が眼前に広がっていた。こんな鮮やかな紅葉は、私は他で見たこと
	がない。

 

 


	「朝日観音」は、川沿いに立つ磨崖仏。東面して朝日に映えるのでこの名があり、真ん中が弥勒、左右が弥勒菩薩である。
	鎌倉中期の文永2年(1265)の銘があるそうだ。橋本さんは、「岩のこっち側にまだ空きがあるから井上さん、登っ
	て彫ったらどないだ。」などと言っている。「しかし、いったいどないしてこんな所まで彫りにきたんやろねぇ。」「や
	っぱ、ここらへんに寝泊まりして彫っていったんやろねぇ。」「う〜ん、そやろねぇ。」と皆さん感心すること、ひとし
	きり。
	観音と名付けられているが、解説では実際には観音ではなく弥勒菩薩だと言う。太陽光に照らされた岩盤の像を、昔街道
	を行き来した旅人たちもこうやって見上げていたのだろう。そして我々のような会話をしていたのかもしれない。

 

 

 

 


	新会員の新開(しんかい)さん。某NTT関係でINTERNETの営業をしている。私、井上とはある部分でcompetitorだが、それ
	は仕事の上でだけ。この会合ではみんな歴史好きなおっさんの付き合い。そういう意味では河原さんも某ツーカー系で携
	帯を売ってるし、この方面でも某テレコム系の私とはcompetitorになるな。これで、男性会員では私より若い会員が、旭
	くん、松田さんに続いて3人目となった。よしよし。

 


	夕日観音」は、街道から少し入った山の急斜面に立ち、朝日観音とは反対に夕日を受けると神々しさが増すと言われてい
	る石仏である。こちらも、弥勒信仰がさかんだった鎌倉時代の製作である。朝日観音の所にあった解説では、朝日観音と
	同じ製作者らしい。
	夕日観音は三尊からなり、街道を見下ろすような形で岩に彫られている。あたりは雑木が鬱そうとしているが、はたして
	ここに夕日が射すだろうか、と思うような場所である。 

 


	「寝仏」は、道端の何気ない石の裏側に、大日如来が刻まれている。近くの四方仏の一体が転がり落ちたものと言われて
	おり、こちらは室町前期の作らしい。しかし、ウラ面を覗いても、そう言われれば寝仏のようにも見える、という程度に
	しか見えない。重なる年月で、もうただの石である。             

 

 



 




	なんと鮮やかな光と葉の織りなす世界だろうか。私は50数年生きてきて、この世のものとは思えないような光景に三度
	出会った。一度は夏、白馬山の山頂附近から見た下界の雲海と、そこから下に落ちている雷の電糸筋である、雲海の中で
	も縦横に雷が走り、まるで壮大な実験場にいるようだった。
	二つ目は、4月中旬の信州更埴市森のあんずの里。村中と谷から山にかけての一帯はピンク一色に囲まれていて、いった
	い俺はどこに居るんだろうと一瞬我を忘れたほどの光景だった。そして三度目がここである。この赤は、この黄色は、こ
	の緑は、とてもデジカメなどで記憶できるような代物ではない。9月に来なくてほんとに良かった。




	石畳の坂道を下りきると、鬱蒼とした森に包まれていた廻りは急に開けて明るくなる。「春日原始林」と呼ばれるこの森
	ももう終わりである。川のせせらぎも消え、少し肌寒いくらいだった薄暗い森の中から、暖かい奈良の町へ降りてくる。

 





 




	柳生街道の終点(ほんとは起点)は、春日大社の森の、東の入り口付近である。新薬師寺が近くだ。この辺りも紅葉が最
	後の輝きを見せている。春日山原始林のなかから、能登川の渓流沿いに奈良公園へ至る。

 

 

 


	奈良市高畑。かって、高畑サロンと呼ばれたこの一帯は、奈良に住む画家や文芸家や文化人達がこぞって住み、奈良市に
	おける一大文化圏を形成していた所でもある。志賀直哉の旧宅の隣に、その名も「高畑サロン」という喫茶店があり、広
	い庭に白いテーブルと椅子が置いてあって瀟洒な佇まいを見せている。庭の生け垣の側に、庭を取り囲むようにしてパス
	テル画の画立が二、三十立てかけてある。錦織さんが「志賀直哉んとこにシャレた喫茶店がありましたで。」というので
	みんなで来てみた。




	パステル画のサインを見ていた橋本さんが、「中村とサインしてあるなぁ。」と呟く。「どうかしたんでっか?」「いや、
	昔の高校生時代の友達がこの辺りに住んでるはずやけど、そいつ画家やねん。確か高畑やったと思うんやけど。」「女の
	子に聞いてみたら。」「そやね。」と言ってる内に、おじさんが一人ぶらっと隣の邸宅から出てきて絵を点検しだした。
	「あ、おおい中村君、橋本です。」「あぁーつ。」
	なんとなんと、この喫茶店のオーナーは正(まさ)しく橋本さんのご友人でありました。我々のテーブルでひとしきり昔
	談義や近況報告に花が咲いていた。年に一度はスペインやメキシコへ行ってこれらの絵を描いているのだという。橋本さ
	んも昔スペインに駐在していてスペイン語ベラベラだし、お互いに「スペインはよろしなぁ。」帰りに、歴史倶楽部の名
	刺を交換して「高畑サロン」を後にした。



奈良公園のはずれ、飛火野でも紅葉は綺麗だった。



 

 






	「興福寺で発掘やってまっせ。」という橋本さんの言葉に誘われて、発掘現場へ向かう。かっての大伽藍の礎石が発掘現
	場の金網の向こう側に見えている。発掘は、平成13年から開始されて19年まで続くそうだ。五重塔、八角堂は観光客
	で一杯だ。八角堂の横から石段を降り奈良町の商店街へ。近鉄奈良駅から駅一つだけ乗って新大宮へ行く。本日はここで
	反省会。まだ時間も早かったが、飲み屋さんというのはどこか開いてるもので、12月例会、忘年会の日時を決める。本
	日もご苦労様でした。



 




	奈良公園の東に連なる、春日山と高円(たかまど)山の谷あいの道。それは、古くから柳生を往て月瀬や笠置に通ずる道
	だった。広い大通りではなく、狭く、爽やかで清らかな渓流に沿った自然の道。その昔、剣豪達が往き来したこの坂の道
	は、それ以前に春日山にまつわる信仰の道として存在したが、苔むした石畳が何とも云えず古道の雰囲気をかもし出し、
	せせらぎの音を聞きながら、鮮やかな紅葉に包まれて素晴らしい散策だった。石畳の滝坂道にたたずむ古めかしい石仏達
	も、静かに優しく我々を迎えてくれた。いにしへを偲ぶ古道歩きの極意を見たような一日だった。






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