SOUND:Penny Lane   

紀州和歌山城春雨にうたれるつつじの苑
1998.4. On Business Trip







仕事で和歌山に行った。大阪を出たときは曇りだったが、午前中に1件仕事をすませている内に雨が降り出した。春の霧雨である。なければ笠もささなくていいような雨だった。午後のアポまで大分時間があったので久しぶりに和歌山城へ行ってみる事にした。













	雨はいい。昔から日本人は、雨に色んな名前をつけてはその風情を楽しんできた。時雨、五月雨、氷雨、霧雨、春雨、秋雨、夕立、
	秋霖、およそ一年中雨と暮らしている。梅雨の長雨も、うっとうしいがあきらめてしまえば結構味わい深いものである。
	ことに花の季節に降る雨は、花をより一層引き立たせるオーケストラのような役目をする。午後の仕事はスコーンと頭から離れ、
	しばし紀州の雨を楽しんだ。



	苔は幾とせにもわたる光景を見てきたに違いない。駆け回る侍達を、ことによると秀吉の歩く姿も見たであろうし、吉宗が
	女中を追いかけている姿も見たかもしれない。サツキも毎年時期が来れば同じ所に花をつける。





	和歌山城は、天正13年(1585)豊臣秀吉が紀州を統一し弟秀長の領地としたが、自分でこの虎伏山を居城に選び自ら縄張りを
	行った。藤堂高虎を普請奉行に任命し本丸、二の丸を築城させた。翌14年秀長の城代桑山重晴が入城し、初めて若山或いは和歌山
	と呼ばれるようになった。
	慶長5年(1600)に浅野幸長が37万石でこの国の領主となったが、元和5年(1619)徳川家康の第十子頼宣が55万5千
	石をもって入城し、以来250余年にわたって徳川御三家の一つとして大いに繁栄する。






大手門をくぐり天守閣の庭に入るとツツジが満開であった。白いツツジは、雨にうたれて美女に見つめられていた。








天守閣は3階にある。日本の城の中では低い方であろう。下は左から、西南東北と眺めた和歌山市の眺望。







紀州藩主使用の駕籠と、着用していた着物。




	和歌山城は過去数回の災害等を受けその都度修復されてきたが、弘化3年(1846)天守閣、多門に落雷を受け高虎の築城した城
	は消失した。しかしその4年後、嘉永4年(1850)年にほぼ原型のまま復旧されている。







天守の出口にあった襖絵。見事な虎だった。虎年に、虎年生まれの私が、高虎の築いた城で虎の絵を見る。まっ、関係ないか。






	明治4年の廃藩置県により和歌山城は廃城となり、同34年天守閣を含む虎伏山一帯は和歌山公園として初めて一般に公開された。
	その後、昭和6年史跡指定を受け、同10年天守閣・横門等が国宝建造物に指定されたが、昭和20年7月9日の空襲によりこれら
	の建造物は一夜にして消失した。
	戦後、昭和33年に再建の機運が盛り上がり昔のままに復興されたが、浅野時代から残る遺構としては岡口門(重要文化財)を残す
	のみである。




天守を後に、雨に煙る石畳を行く夢見る中年の寂しげな後ろ姿。ん?この写真は誰が撮った?



追廻門から市街にでて少し行くと、8代将軍徳川吉宗の乗馬姿の銅像が建っている。



その後ろは和歌山市立美術館、博物館が近代的なデザインで聳えており、振り返ると木々の間から僅かに天守閣が望める。



仕事の時間となり雨の和歌山城を後にする。ふと後ろから、吉宗が「がんばれよ!」と声をかけてくれたような気がした。



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