Music: Boxer
末盧国
10月13日(月曜日)




	又、一つの海を渡ること、千余里にして、末盧国に至る。四千余戸有り。 山海の水ぎわに居る。草木が茂盛し、
	行くに前が見えず。人々は好く魚や鰒を捕らえる。水の深い浅い無く、皆沈没して之を取る。 
	
	さらに大海を渡る事千里余りで末盧国に到達する。四千余戸あり、山際や海岸に沿って家が建っている。草木が生
	い茂っていて、歩くとき前の人が見えない位である。人はうまく魚貝類を捕え、海の浅い所深い所関係無しに、潜
	水してこれらを捕らえる。(東南へ陸を行く事五百里で伊都国に到る。)

	いよいよ日本列島本土に上陸である。一支国より末盧国へ至る行程も又、「千余里」と記載されている。魏の使節が日本
	のどこに上陸したのか、倭人伝からはわからない。呼子、唐津、佐世保等々の説がある。わが馬野先生のように、奴国や
	不弥国へそのままで向かったのではないかというような意見もある。説が混乱しているのは一大国から末廬国までを「千
	余里」と倭人伝が記載しているからでもある。そもそも倭人伝の「一里」という単位には一貫性がない。一里が何mに当
	たるのかは、局面局面で異なる。
	魏の使者が仮に壱岐勝本港から船出したとすれば、唐津迄の距離は約50キロであり、石田港から唐津までの距離は約4
	0キロとなり、壱岐島の最南端から東松浦半島北端の呼子を結んだら約30キロとなる。これらを一里当りに換算すると
	50m以下ということになる。ここまでの行程では、一里はほぼ100m前後として考えられるので、むしろ「一海渡五
	百余里」とした方が正確であろう。となると、倭人伝の作者はどんぶりで「千余里」と記録した事になる。
	或いは、「千余里」が正しかったとするとどうなるのか。一大国より末盧国へ至る航路が、通説とは違うという事になる。
	つまり、末廬国は松浦半島周辺ではないことになる。壱岐から千余里で到達する範囲は、西は長崎県の五島列島から、東
	は福岡県の宗像郡あたりまでの任意の地点が比定可能であるが、しかしそうなると後に続く伊都国の比定地との整合性が
	とれなくなってくる。末盧国をどこに比定するは、従来の通説は、現在の佐賀県東松浦郡.西松浦郡.北松浦郡一帯であ
	り、松浦半島の北端の呼子港と唐津説に分かれている。勿論この場合、見てきたように里数が合わないので、外にも神湊
	説(宗像)、福岡説、佐世保港説、西彼杵(にしそのぎ)半島説、伊万里港説、前原市の「三雲、井原、平原付近」説等
	々がある。しかしながら、末盧国=松浦半島唐津市説が距離的にも直線最短コ−スであるし、「マツラ、マツロ」と「マ
	ツウラ」との音訳比定を考えれば、この地が末廬国である確立は高いと思われる。里程が合わないという欠点はあるが、
	やはり末廬国は松浦半島周辺(特に唐津市附近)なのであろうと思われる。
	マツラはマヅラに通音し、はじめ末羅であったが、のちに松浦の字をあててマツラと呼ぶようになった。日本書紀巻第九
	神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年三月ー四月の条に「因りて竿を挙げて、乃ち細鱗魚を獲つ。時に皇后の曰はく、梅豆邏國と
	曰ふ。今、松浦と謂ふは訛れるなり」とある。


	
	魏志倭人伝にいう「末廬国」は、現在の佐賀県唐津市を中心とした地域であるとする。この地域からは過去、豊富な副葬
	品を持った遺跡が多く発掘されており、それらの遺跡の年代変遷により、末廬国の都がそれぞれの遺跡を中心とした地区
	に移っていったと考えられている。末盧国には、日本の稲作発祥の地、或いは日本農業の発祥の地とも言われる「菜畑遺
	跡があり、既に縄文末期から水田を営んでいたことはよく知られている。実際に舟で壱岐から渡ってきた印象で言えば、
	松浦半島突端の「呼子(よぶこ)」やその沿岸は、切り立った崖でにわかには近づきがたい。それよりももっと内海へ入
	ってきて、唐津や虹ノ松原あたりに上陸したほうがはるかに楽だろう。もっとも、1,2世紀頃の唐津の海岸がどういう
	地形だったのかはまだまだ検証が必要である。いずれにしても、菜畑から始まった縄文人・弥生人達の営みは、葉山尻支
	石墓群、桜馬場遺跡、柏崎遺跡群、宇木遺跡群、などと変遷し、邪馬台国時代の古墳ともいわれる「久里双水古墳」に繋
	がっていく。

			縄文時代
			BC7000    牟田辻遺跡
			          菜畑遺跡
			          西唐津遺跡
			BC3000    徳蔵谷遺跡
       			  	  湊松本遺跡
			BC1000    高峰遺跡
			          菜畑遺跡
			          葉山尻支石墓
			弥生時代
			BC300     柏崎貝塚
			          宇木汲田遺跡
			AD100     久里大牟田遺跡
			          柏崎田島遺跡
			AD200     桜馬場遺跡
			古墳時代
			AD300     久里天園遺跡
			          久里双水前方後円墳
		 	          経塚山古墳(浜玉町)
				      長崎山古墳群
			AD500     谷口古墳(浜玉町)
			          さこがしら古墳
			          樋ノ口古墳
		 	          島田塚
			          外園古墳
			          中の瀬古墳群     	太字は訪問した遺跡



	菜畑遺跡・末盧館
	約2600年前の縄文時代晩期に、大陸から伝えられた稲作を日本で初めて行っていたと思われるのが菜畑である。遺跡
	からは、炭化した米や、稲穂をつみ取る石包丁、木のクワなどとともに水田跡も発見された。また、家畜として飼育され
	ていた豚もはじめて確認され、ここ菜畑は今の所、「日本農業の原点」であると言ってもいい。遺物は、「末盧館」に展
	示してある。「末盧(まつろ)」とは魏志倭人伝(ぎしわじんでん)にある、唐津市郊外の「松浦」のこと。建物は、古
	代の高床式倉庫をイメージし、菜畑遺跡の遺物の紹介と大型のジオラマ、ビデオなどの展示、邪馬台国時代の「末盧国」
	の代表的な遺物も展示されている。私はここを訪れるのは3度目で、以前の歴史倶楽部例会でも一度訪れた。まわりは、
	稲作ムラの竪穴式住居や日本最古の水田、縄文の森が復元され、毎年たくさんの子どもたちの参加で、田植えと収穫祭が
	盛大に催されている。





 

 















当時の菜畑遺跡を復元したジオラマ。

 



 

 

 

 

 





 



























	「漢書・地理志」の一節には、「楽浪海中に倭人あり、分れて百余国となり、歳時を以て来たり、献見すという」という
	一文がある。有名な一節であるが、ここに登場する倭人は、「海に潜って生活している。山が多く畑が少ないので商売に
	勢を出している。」といった生活の描写ではなく、すでに整然とした指揮系統によって漢を訪れた外交官としての姿であ
	る。「歳時を以て来たり、献見」しているのであるから、当然歳時を知っていた、国際人としての倭人である。楽浪は、
	漢の武帝が紀元前108年に、朝鮮半島に設置した四郡の一つで、今日の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の平壌(ビヨ
	ンヤン)付近にその都があった。百余国に分かれていた倭人の国は、それぞれが漢の出先機関としての楽浪郡に、定期的
	な外交接触をもっていたか、あるいはそれができる単位だとみなされていたのである。「魏志倭人伝」になると、「もと
	ば百余の国があり、漢の時代に朝見に来た国もあった。いまは使者や通訳が往来するのは三十国である。」として、漢か
	ら三国時代へ移る過程で百余国が三十国になったような事を示唆しているが、もとより「百余国」とか「三十国」が、そ
	の数どおりかどうかは不明である。邪馬台国連合国の三十に合わせたのかも知れない。


	いずれにしてもこの記事は、おおむね北九州の弥生時代中期の初めころの状況を記録したもののようであり、中国人の目
	に「国」として認識された領域(その領域内に王が存在しその居所となる王都があるような)が、当時三十ばかりあった
	という事を示している。そして、末廬国、伊都国、奴国などを見てもわかるように、当時の国々の領域は極めて小さい。
	現在の市町村の領域が当時の国である。そして三十の国々は当然の事ながら北九州のエリア内にすっぽりと収まってしま
	うのである。邪馬台国が近畿にあったとすると、それを取り巻く国々が三十というのはあまりに少なすぎる。各地で発見
	される遺跡を見ても、この中国人の観点からすれば十分に国として認識されて良い領域は、北九州から近畿までの間にご
	まんとある。魏志倭人伝には三百くらいの国の名が記録されていないとおかしい。

	弥生時代初めから中期にかけての、領域内の中心的な場所で国王の居所の侯補となれるような遺跡は、福岡県や佐賀県な
	ど北九州を中心に数多く発見されている。福岡県では前原市三雲遺跡、福岡市吉武高木遺跡、春日市須玖遺跡、飯塚市立
	岩遺跡、甘木市平塚川添遺跡、そしてここ、佐賀県唐津市では、宇木汲田遺跡や桜馬場遺跡、柏崎遺跡などがその代表例
	である。「使者や通訳が往来」しているという記録からみて、漢とこれらの国々の情勢は、お互いに刻々と把握されてい
	たとみてよい。佐賀県神埼郡神埼町と三田川町にまたがる「吉野ケ里遺跡」も忘れてはなるまい。時代が卑弥呼の時代と
	は異なるとはされるが、あれだけの領域をもった国である。当然漢にも知られていたと見て良く、ひょっとしたら邪馬台
	国である可能性も完全にはぬぐいきれないと思う。







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