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壱岐神社・少弐公園
10月12日(日曜日)



 
	少弐資時を祀る「壱岐神社」。「文永の役」「弘安の役」と二度にわたった元寇の弘安の役で、弱冠19歳にして壮烈な
	最期をとげた壱岐の守護・少弐資時。この島が体験した哀しい歴史とともに、勇ましく戦った資時を長く後世に伝えてい
	こう建立された。本殿は昭和19年に造営。1500年の歴史をもつ壱岐の神社の中では、もっとも新しい神社である。

 
壱岐神社鳥居そばにある、松永安左衛門揮毫の社号標。昭和56年4月17日建立。

 


	<壱岐神社由来>神社HPより。

	御祭神 : 亀山天皇・後宇多天皇・小弐資時公以下麾下將士・及び戍申役以来の護国の御英霊等

	當壱岐島民は(遺族崇敬者)昭和三年以来当神社御創建の事業を進め戦時下に物資困難なる時節に各方面の援助の下昭和十
	九年御本殿の建設を見たのでありますが昭和二十三年十一月三日御祭神三柱の大神等鎭座祭執行同二十七年には壱岐護国
	神社の鎭座祭を執行し本部護国の御英霊を安鎭し同二十八年には畏くも宮内庁掌典長甘露寺受長氏より祭祀幣帛料が大前
	に奉尊されました。同二十九年には角南造神宮局長来社境内外等視察計画樹立され同三十年には靖国神社より奉幣あり同
	三十一年秋十一月八日靖国神社御分霊を奉遷し同時に社名併稱の事となりました。
	同年三月二十六日遺族崇敬者を以て献饌講を結成するに当りては畏くも伊勢神宮より御稻種を下賜せられました。又昨春
	四月御祭神兩天皇御尊影宮内庁御原図の謹寫を許され本春四月二十一日例祭に当りて本殿の神座に奉安致しました。かく
	の如く皇室を始め遺族崇敬者国民一般の厚き御信仰の御業蹟は只々感激の外御座いません。



	
	元寇について説明してくれる山口さん。元は壱岐の、中学校の校長先生だった。今はリタイヤされているが、合併委員会
	等壱岐の色んな役職をこなされている。壱岐の島を訪れる歴史ファンにも色んな便宜を図っておられ、その道では結構有
	名人である。私とは親戚になるが、それは最近判明した。(遺跡巡りの「原の辻遺跡」参照。)


	壱岐の島にはいたるところに由緒ありげな神社やお寺がある。路傍や森や渚にも小さな祠や石仏があって、美しい花が手
	向けてある。ネットから探しただけでも以下のような寺社仏閣がひしめいている。
	国津意加美神社  壱岐神社   祥雲寺 はらほげ地蔵  爾自神社  長泉寺  住吉神社  メンシアの拝塔と水盤 月読神社
	壱岐安国寺 金蔵寺 庚甲塚 男嶽神社 本宮八幡神社 聖母宮 箱崎八幡神社 興神社 白沙八幡神社 天手長男神社
	爾自神社 津神社 国津神社 水神社 阿多彌神社 手長比売神社 中津神社 佐肆布都神社 角上神社 高御祖神社
	兵主神社 海神社 彌佐支刀神社 大国玉神社 見上神社 佐肆布都神社 印鑰神社 源三神社 新城神社 塞神社
	荒人大明神 日向様 参多大明神 華光寺 唐人神 お宝地蔵 若松六人地蔵 
	こんな小さな島のなかで、驚くべき数だ。その中で壱岐神社は一番新しい神社である。500年前の事績を祀っていても、
	それが一番新しい。驚くべきことだ。壱岐嶋は古事記では「伊伎」、日本書紀では「壱岐」、国造本紀では「伊吉」など
	と表記され、魏志倭人伝では「一大国」と紹介されているが、これは「一支国」の誤写と言うのが定説である。
	古事記
	かく言い終えて御合みあひして、生める子は、淡道(あわじ)の穂の狭別島(さわけのしま)、次に伊予の二名(ふたな)
	の島を生みき。この島は身一つにして面四つあり。面ごとに名あり。...(略).........次に隠伎の三つ子
	の島を生みき。またの名を天之忍許呂別(あめのおしころわけ)、次に筑紫島を生みき。この島もまた身ひとつにして面
	四つあり。面毎に名あり。.....(略).......次に伊伎島(いきのしま)を生みき、またの名を天之比登都
	柱(あめのひとつばしら)という。次に津島を生みき.....(略)....次に佐渡島を生みき。次に大倭豊秋津島
	(おおやまととよあきつしま)を生みき。またの名は天御虚空豊秋津根別(あめのみそらとよあきつねわけ)という。故
	この八島を先に生めるによりて、大八島国(おおやしまぐに)といふ。
	魏志東夷伝倭人の条(魏志倭人伝)
	倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて国邑(こくゆう)をなす。...(略)....郡より倭に至るには、
	海岸に従って水行し、韓国を経て、あるいは南し、あるいは東し、その北岸狗邪韓国(くやかんこく)に至る七千余里。
	はじめて一海を渡る千余里、対馬国に至る。...(略)....また一海を渡る千余里、名付けて瀚海(かんかい)と
	いう。一大国に至る。官をまた卑狗といい、副を卑奴母離(ひなもり)という。方三〇〇里ばかり。竹木、叢林多く、三
	千ばかりの家あり。やや田地あり。田を耕せどもなお食するに足らず、また南北に市糴(してき)す。

壱岐神社とその周辺の竜神崎一帯は、現在「小弐公園」として整備され、元寇とそれにまつわる壱岐の歴史を偲べるようになっている。

 




	
	天智2年(663)日本水軍は白村江の戦いで大敗した。以後、唐・新羅の侵入に備えて、壱岐は国防の最前基地となり、
	翌年には防人と烽(とぶひ)が置かれた。防人は国境守備兵であり、烽(とぶひ)は狼煙(のろし)のことである。天平
	13年(741)聖武天皇の発願により各国に国分寺が設置されたが、天平16年(774)7月、壱岐にも島分寺(国
	分寺)がおかれた。壱岐では壱岐直の氏寺があてられた。律令制度(奈良・平安時代の法令)下では、壱岐は辺要の地と
	規定され、国司がおかれ、国境防衛と外交の任にあたった。 壱岐は律令制度の中、日本の国の中で最も小さいながら一国
	として認められていた。古代の壱岐国は、大陸と日本との二つの文化圏の接点として、最も新しい華やかな文化を開花さ
	せていた。遺新羅使・遣勃海使・遣随使・遣唐使などの使節団は、壱岐を寄港地として往来した。大陸文化も壱岐を窓口と
	して流入してきた。まさに壱岐は、日本とアジア大陸を結ぶかけ橋であった。しかし、国境の島であるが故の、前線基地と
	しての悲しい歴史も生む。9世紀末には、新羅人や正体不明の海賊による侵入が目だって増大し、寛仁3年(1019)に起き
	た「刀伊(とい)の襲来」は日本書紀にも記録されている。刀伊とは中国東北部にいた女真族であるが、上陸した刀伊に
	よって殺害された者は148人。奴隷として連れ去られた者239人。わずかに生き残った者35人という数が記録され
	ている。

 

この狼煙台の信憑性については、山口さんはすこし懐疑的だった。



 

	
	少貳公園にある花崗岩製の元寇の碇石(イカリ)。左京鼻沖で発見された。中国製の石を使っているが、日本軍の船の
	碇石ではないかともいわれている。芦辺港周辺では、引き上げられた碇石が現在5本確認されている。長谷川家の碇石・
	千人堂の碇石・旧役場の碇石・大師堂の碇石、そしてここに置かれている壱岐神社の碇石である。



	
	少弐(武藤)家の系図 資頼(すけより)−資能(すけよし)−経資(つねすけ)−資時(すけとき)
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                        		 −景資(かげすけ)


	
	平家を滅ぼした源頼朝は、大宰府に鎮西奉行をおき、東国の武士武藤資頼をそれに任じた。武藤氏は武蔵国出身の武家の
	名門で、資時の曽祖父、武藤資頼が太宰少弐に任命されて以来、武藤氏が太宰少弐の官職を代々務めることになり、少弐
	(しょうに)を名乗るようになる。資頼の子資能は、宋で八年間仏法を学んできた大応国師を大宰府に迎えた。大応国師
	は、最初興徳寺(福岡氏姪浜)に入り、ついで文久9年(1272)、崇福寺(大宰府市白川横岳)に入山、この寺の開山始
	祖となった。
	この前後、元の使者が博多湾に都合5回来訪し、大宰府ではそのつど応対に苦慮、資能は責任者として大応国師を用い、
	元使との交渉に当っていた。しかし、文永8年と同10年の二度にわたり、元使趙良弼(ちょうりょうひつ)が大宰府を
	訪れるが、鎌倉幕府は二度とも上京を許さず追い返す。業を煮やした元は、かくて文永11年(1274)10月、3万数千
	の元・高麗軍を編成して博多湾に来襲した。19、29日と激戦になった。この時、資能は既に入道し覚惠(かくえ)と
	名乗っていたので、守護職となった息子の経資(つねすけ)、景資(かげすけ)が総大将となって、獅子奮迅の働きをす
	る。しかし、火器を用いた集団戦の元軍に対し、日本軍は一騎打ち戦法のままで戦況は不利、やむなく日本軍は水城を防
	衛線として大宰府に逃げ込んだ。その夜、前代未聞の暴風雨が博多湾を襲ったが、翌日、元軍の姿は博多湾に無かった。

 

	
	その後、日本側は再度の蒙古襲来に備えて、博多湾に20kmにわたって石垣の防塁を築く。蒙古皇帝世祖フビライは、
	なお日本征服の野望を捨てず、文永12年(1275)元使杜世忠(とせいちゅう)を日本に派遣するが、執権北条時宗は、
	これを相模竜ノ口で斬り、ついで訪れた国使周福(しゅううふく)をも博多で斬り、元に強硬な態度を示した。
	弘安4年(1281)6月6日、元の東路軍4万人が博多湾志賀島に到着、一進一退の攻防が続いたが、上陸作戦に失敗した
	東路軍は壱岐・肥前鷹島(たかしま)に退き、江南軍の到着を待った。この時、武藤資能は、84歳の老齢をおして甲冑
	に身を固め、壱岐に軍を進め、蒙古軍に突入して重傷を負い、のち閏7月13日に落命した。やがて、6月27日に江南
	軍10万が鷹島に到着し、戦闘は一層激しくなった。少弐資能の三男だった資時は、この時若冠19歳で壱岐の守護を努
	めていたが、この弘安の役では、雲霞のごとき蒙古軍をここ瀬戸浦に迎え撃ち、壮烈な最期を遂げた。29日の夜、再び
	博多湾を暴風雨が襲い、翌閏7月1日には、元の遠征軍は壊滅した。



	
	元軍は島民にも暴虐の限りを尽くし、芦辺町には千人塚、千人供養、中島塚、八ツ塚、裏町の千人塚、千人堂などが残る。
	「かくれ穴」も町内随所にあり、いかに島民が悲惨な目に遭ったかが偲ばれる。少弐資時が、何処で討ち死にしたかにつ
	いては諸説あり、「壱岐島前に於いて討死」、「元軍の船から発された火砲の弾が当って死んだ」、「居城の船匿(かく
	し)城で全滅」、「ショウニバツケ(少弐畑)」などの話が伝わる。おそらくは、激戦の結果その死骸も確認されていな
	いのだろう。両軍の戦闘がいかに激しかったかを物語っているともいえる。しかし19才という年齢を聞くと、いかに守
	護職が領民のために外敵と戦う役目だとは言え、その責務の余りの重さに同情を禁じ得ない。現代の19歳との余りの違
	い。私がその任にあったとしたら一体どうするだろうか。人は「ここぞ」という立場・状況に置かれたら、年齢などには
	関係なく努めを果たそうとするのかもしれない。
	大宰府市観世音寺の北西約400mの森の中、安養寺跡に、武藤資頼とその子資能の墓がある。資頼の墓は一石隅切五輪
	塔残欠(県文化財)といい、資能のそれは宝キョウ印塔といわれる。
                
 

現代では当然、モンゴルとの国交も回復しており、このようにモンゴル大使の植樹なども行われている。






	
	山口さんは、次に壱岐島最北端の勝本港に案内してくれた。

	勝本城跡 秀吉の夢の跡
	天正19年(1591)、豊臣秀吉が朝鮮出兵にそなえて平戸藩主松浦鎮信に命じて築城させたもの。海抜78.9mの山頂部
	に築城。一の門と二の門の間にあった枡形と、その左右の石垣が残っている。国指定の史跡。周辺は城山公園として整備さ
	れ、蕉門十哲のひとり河合曽良(かわいそら)の句碑などもある。城跡からは勝本の港が一望できる。

 




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