Music: Anna
サカドウ遺跡
平成15年10月12日(日曜日)












	昨日さんざん探して見つからなかった峰町の弥生遺跡。この周辺には井手遺跡、サカドウ遺跡、木坂遺跡、タカマツノ
	ダン遺跡などの遺跡がびっしりとひしめいているはずなのに、昨日はガヤノキ遺跡しか見つけられなかった。何とかも
	っと弥生遺跡を見て、半島−対馬・壱岐−北九州と続く古代の文化ラインを検証したいと思ったが、資料館でも役所で
	も文化財担当者がつかまらないので、「仕方ない、次回は詳しく調べてこよう。」と内心諦めた。
	今朝、上対馬町の国民宿舎で目覚め、例によって早朝散歩で比田勝港周辺を散歩し、イカつり網の修理をしているおば
	ちゃんと、その側で釣りをしている孫と話したりして、朝食後比田勝港を後にした。

	車を飛ばすこと1時間近く、昨日通ってきた峰の町に差し掛かった時、車の窓から遺跡案内の看板が見えた。「あ、ス
	トップ、ストップ」と河内さんに声を掛け、通り過ぎていた道を曲がり角まで戻ってもらった。そして見つけたのが、
	このサカドウ遺跡だ。




	上に発掘場所か何かないかなと思って登っていったが、墓地の他は何もない。どこで鏡や青銅製品が発見されたのかは
	わからなかった。

	ここからは大陸製の細形銅剣が出土しているが、タカマツノダン遺跡とここから出土したものは、触角式把頭(しょっ
	かくしきはとう)を持った非常に珍しいもので、学界の注目を集めた。昭和28年(1953)の夏、対馬遺跡調査会の発
	掘調査でこの墓地から発見された。その翌年、同じ川べりのタカマツノダン遺跡(ここはとうとうわからなかった。)
	からも、道路工事中に2基の石棺が発見され、中から同様の銅剣が発見された。触角式銅剣の出土例は、この他に、佐
	賀県唐津市柏崎と、福岡県糸島郡前原町三雲遺跡、山口県西端の向津久保遺跡、韓国大邸市飛山洞、中国遼寧省西盆講
	が知られているだけで、出土地不明の同類遺物が慶應大学(伝中国出土)、北朝鮮平壌博物館、イギリス大英博物館
	(伝中国出土)にそれぞれ1例あるだけである。これらの比較研究も早くから行われており、秋山進午氏(考古学雑誌
	4巻4号)、韓国の考古学者・金廷鶴氏、千葉基次氏(古代文化 XXvol.9)らによる論考がある。それによれば、こ
	の触角式把頭の銅剣は、遠くスキタイ文化に端を発し、東征して騎馬文化の中に入り、その影響が朝鮮にまで及んだも
	のらしい。それが海峡を渡って対馬と唐津にまで到達したのである。
	(その後「触角式有柄銅剣」は吉野ヶ里遺跡でも同様のものが発見された。)




	銅剣の他にも、把頭、鍔、鎖等とみられる青銅製品も少なくない。昨日見たガヤノキからも同様のものが出土している
	し、佐護の白嶽、佐保の唐崎、伝シゲノダン出土の一括遺物のなかにもそれらが含まれている。
	

	【佐賀県唐津市・柏崎遺跡】
	柏崎には幾つか発掘調査された地点があり、それぞれ柏崎xx遺跡とその地区の名前を付けて示されている。柏崎石崎
	遺跡からは、我が国でこれまで3例しか出土がないと言われる「触角式有柄銅剣」出土して注目を浴びたし、柏崎田島
	遺跡からは「連孤日光銘鏡」という前漢中期の鏡が出土し、日本と中国の関係を示す遺物として、これまた注目を浴び
	た。これの特異な出土物から、柏崎遺跡は「魏志倭人伝」に記されている末廬国の王墓に比定され、有柄銅剣は有力部
	族長の権力を象徴するものとされた。故佐原真氏は「銅剣の貴重さからみて墳丘墓は王族の墓であることは間違いない』
	と評価していた。




佐賀県立博物館にある柏崎遺跡出土の「触角式有柄銅剣」レプリカ。


吉野ヶ里資料館にある触角式有柄銅剣。


大韓民国ソウルの「国立中央博物館」にある銅剣類。


	細形銅剣と同様に、武器としての機能を持っている狭鋒の矛が対馬で出土したのは2例である。触角式銅剣と同伴した
	サカドウ遺跡と、仁田の中来栖(なかくるす)遺跡である。この2例とも弥生後期と考えられ、石棺からの出土ではな
	く、出土状況はむろ広形銅矛に近い。地中の石棺外から出土している。
	この2例に対して、広形銅矛の出土は120例を越え、中広矛22本、広矛90本、広鋒銅弋1本、その他形式不明な
	もの十数本がある。出土地は28カ所が判明しており、銅矛を所蔵している神社が14社,広形銅矛があったという伝
	承の残る神社が5社である。明らかに石棺内から出土したと確認されているのは塔の首遺跡だけで、石棺から出土した
	らしいという疑いのあるものが、佐護のクビル、三根のガヤノキ、佐保のイノサエ、貝口の赤崎、高浜のヒナタがある
	が、これらは石棺内から出たものか、石棺外に埋納施設があったものかは不明である。
	広形銅矛は、福岡を中心とした西日本で広く流行しており、対馬の銅矛もおそらくは、北九州本土から直接対馬へもた
	らされたものと考えていいだろう。奴国と考えられている福岡の春日市周辺では、広形銅矛の鋳型も数多く発見されて
	いる。



遺跡のすぐ前は川であり、河原では牛が放牧されていた。寄っていく錦織さんとちせちゃん。



橋をわたってすぐカーブになっており、うっかりすると見逃しそうな所に説明板が立っている。



	<参考文献>

	● 「古代史の鍵・対馬 日本と朝鮮を結ぶ島」大和書房 1975-5-10発行 永留久恵著
	● 「倭国を掘る―地中からのメッセージ」吉川弘文館 1993-06-10発行 小田富士雄著
	● 「倭人伝の国々」 (株)学生社刊 2000年5月30日発行 小田富士雄編
	● 歴史と旅 「特集 邪馬台国と倭の国々」 (株)秋田書店 昭和60年1月1日発行 
	● 季刊邪馬台国 「特集 邪馬台国の考古学」(株)梓書院発行 1984年春号


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