Music: Anna
山辺遺跡
平成15年10月11日(土曜日)





	
	昼食後、今回の旅の目玉でもある「山辺(ヤンベ)遺跡」を訪ねた。大雑把な地図のせいで、またまた場所が分からず、
	さんざん探し回る。まだ発掘しているという情報だったので、道の途中で広々とした所があったらすぐ車を止めて、何か
	無いかと見て歩く。

 



	
	上の広場もどうやら違うらしいという事で、また場所を移動してこの広場のすぐ裏にあった空き地に車を止める。どうも
	この辺りだと思うんだがなぁ、という私の呟きに、誰かが側の家に聞きに行く。



出てきた奥さんは、ああココですよ、とこともなげに仰る。上の写真、家を中心にしてこの辺り一帯が山辺遺跡だった。



	
	【三根遺跡群、山辺(ヤンベ)遺跡】
	
	2000年、峰町の三根川中流域の小高い傾斜地に、弥生時代の住居跡をたくさん残したヤンベ遺跡の発掘が行われた。
	対馬では始めての大規模な弥生時代の集落の跡ということで、卑弥呼の時代の対馬の国の中心地ではないかと、マスコミ
	も大々的に取り上げ注目をあびた。遺跡のすぐ前まで海であっただろうと云われ、船着場やその遺構の発掘を期待する向
	きもあり、魏志倭人伝・邪馬台国の「対海国」出現を待ち望むのは地元民だけではあるまい。訪れた時、遺跡は無人で作
	業員は誰もいず、説明も聞けなかった。すぐ前の民家の奥さんが、「この周りをいっぱい掘ってましたよ。」と言う。
	あたりは今なお湿地帯で、排水の溝があちこちに掘ってあった。現在発掘調査は継続中で、最終的な調査結果が待たれる。
	山辺遺跡から出土した遺物は「峰町歴史民族資料館」に収容・展示されており、ここが対馬で一番充実した発掘品を所持
	している、との事(長崎県安楽課長)だったが、前述したように、残念なことに土曜日半ドンで担当者は帰宅しており、
	資料館も閉まっていた。以下の、発掘時の遺跡の様子は、長崎県・毎日新聞社の提供による。



水がでるので、吸水ポンプが置いてあったが、本日は運転休止。ぬかるみの中を泥を跳ねながら遺跡へ行く私に、みんな呆れていた。

 

	対馬三根遺跡対馬で初めての弥生時代の集落跡確認
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	長崎県対馬・峰町教委は28日までに、対馬で初めての弥生時代の集落跡を同町三根の三根遺跡山辺(やんべ)区で確認
	した。集落は弥生前期〜後期(紀元前3〜紀元3世紀)に連続して存在したとみられる。同町内は弥生後期の墳墓などが
	多く、青銅器の副葬品も多数出土していることから、当時の対馬の中心地の一つとみられていた。町教委は3世紀の日本
	を描いた中国の史書「魏志倭人伝」が記録する「対馬国」の拠点集落だった可能性もあるとみて、調査を続ける。
	三根遺跡山辺区は対馬西岸の三根湾に注ぐ三根川流域にあり、広さ約4万平方メートル。町教委はこれまでに7000〜
	8000平方メートルを発掘調査した。その結果、100以上の柱穴と、高床建物跡3、4棟分、竪穴(たてあな)住居
	跡2棟分が出土した。また弥生土器や古墳時代の須恵器(すえき)、朝鮮系の土器などの破片1万点以上と鉄製釣り針や
	袋状鉄斧(てっぷ)が見つかっており、弥生から古墳にかけての集落があったことが分かった。



	
	「魏志倭人伝」は朝鮮半島から海を渡って最初にたどりつく倭人の国として対馬国を挙げ「土地は山険しく、深林多く
	道路は禽鹿(きんろく)(鳥や鹿)の径の如し。千余戸あり。良田なし」と、その生活環境の厳しさを描く。「千余
	戸」という人口も同書が記す他の国々、一支(いき)国(壱岐)の三千戸、末盧(まつろ)国(松浦)の四千余戸、奴国
	(福岡)の二万余戸、邪馬台国の七万余戸に比べてひときわ少ない。しかし、続けて「海物を食して自活し、船に乗りて
	南北に市糴(してき)す(米を買う)」と記しており、漁業と海上交易が活発だったことをうかがわせる。それは峰町内
	のガヤノキ、エーガ崎、木坂、サカドウ、タカマツノダンなどの弥生後期の墳墓遺跡で朝鮮半島渡来の銅鏡、銅剣が出土
	していることでも裏付けられる。
	現地を視察した小田富士雄・福岡大教授は「対馬では初めての集落遺跡。ただ『対馬国』に直接結び付くものは確認され
	ていない。土石流に埋まった部分が多く、今後の調査を見守りたい」と話している。	[毎日新聞2000年10月28日]

 

遺跡は低い山々に囲まれた小さな盆地だ。近くまで海が来ていたという弥生時代の光景はちょっと想像できない。



	対馬峰町で弥生時代後期の集落跡を確認
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	対馬峰町教委は28日までに、同町三根の三根遺跡山辺(やんべ)区で、弥生時代後期(2―3世紀ごろ)の竪穴住居跡2基
	など弥生集落跡を確認した。対馬では弥生時代の墳墓などはこれまでに見つかっているが、集落跡の発見は初めて。
	現地視察した小田富士雄・福岡大人文学部教授(考古学)は「三根遺跡が、中国の史書『魏志倭人伝』に記された対馬国
	の中心集落だった可能性もある」と指摘している。
	竪穴住居跡周辺から弥生土器や古墳時代の土器片など約1万点が出土した。中国系と朝鮮系の土器片など大陸との交易が
	盛んだったことを示す遺物も多数見つかっている。 	[長崎新聞 2000年10月29日(日)

 

 
	これ石器ですか? とちせちゃんが拾った石を持ってくる。
	「あ、そうや石器やで。」「ちゃうがな、ただの石やん。」「いや石器やで、みてみい、ちゃんと石器の形しとるで。」
	「ま、石器思て持ってたらええがな。ロマンや、ロマン。」	「・・・・・」


	ここがどういう性格の集落あるいは施設だったのか、それは今後の調査報告とその研究を待つしかないが、安楽課長の言
	うように、対馬で一番の弥生遺跡であるならば、そのもたらすものは相当重要なものになる可能性がある。「峰町歴史民
	族資料館」を見れなかったのは断腸の思いだが、調査が終了した段階で又訪れるのもいいかも知れない。対馬の弥生遺跡
	は、その墳墓が小高い丘の突端にあり、集落や海を見下ろすことの出来る高台に在ることが多い。多すぎるような銅矛の
	出土と言い、この遺跡の発見と言い、対馬の弥生時代の研究はまだまだ今からだ。大陸との関係、半島との関係、そして
	壱岐、北九州との関係、新しい遺跡の出現は、古代世界の様相を刻々と変化させ続け、我々歴史ファンに新しい感動と史
	観を与えてくれる。



「やれやれ、今日も探し当てたな。」と満足そうな河原さんと服部さん。ほんとに我々の遺跡探訪は、誰も
いなくてもキチンとそこに行き着くから不思議だ。「井上さん、遺跡のにおいがするんちゃう。」と服部さん。



遺跡を出て、国道方面へ向かって300m、国道との出会い頭に看板が立っていた。

「こっちからくりゃよかったんや!」一同爆笑。









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