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雨森芳洲の墓
平成15年10月12日(日曜日)





	雨森芳洲の墓
	雨森芳洲(あめのもりほうしゅう:1668〜1755)は元禄の人で滋賀県雨森の出身と言われる。木下順庵の門下で、幕府
	の中枢にいた新井白石とは30年来の同門であった。師の推挙で対馬藩に書記として奉職し、朝鮮外交の第一線に立っ
	た。新井白石は、経費ばかり費やす朝鮮外交を改革し簡素化しようとし、外交最前線の対馬藩、並びに直接の応対に当
	たる雨森芳洲と対立した。しかし、芳洲は誠心誠意朝鮮使節を接遇し友情を育んだため、朝鮮使節の心にも深くしみこ
	み、現代韓国人の間でも数少ない「親しまれる日本人」となっている。
	平成元年5月、韓国大統領が来日した際に大統領は、雨森芳洲の名をあげて、芳洲の唱えた「誠信外交」の精神や江戸
	時代の日韓友好の歴史を説いて、今後の日韓関係の発展を望む演説をした。雨森芳洲は88歳で対馬に没した。 

 

対馬府中(現厳原町)の長寿院。ここに芳洲の墓がある。



	
	芳洲は、みずからハングル語・中国語を学び、「誠信外交」をモットーとした。つまり「外交の基本は真心(まごころ)
	の交わりである」と主張し、日本と朝鮮の善隣外交に尽力した。その思想は、21世紀を迎えた現代の複雑な国際社会
	にあって、我々が思い起こすべき提言である。

 

	
	一般には朝鮮通信使といえば、江戸時代の日韓交流と思われているが、実はそれ以前の15−6世紀の室町時代、足利
	政権下に開始された。当時、日朝関係は概ね平和な通交関係を保っていたが、天正13年(1585)関白となった豊臣秀
	吉は、同15年九州を平定すると、ついで大陸に目を向けた。秀吉の本意は朝鮮ではなく中国大陸にあった。朝鮮はそ
	のためのベースキャンプとしてまず征服すべき対象だったのである。しかし、「文禄・慶長の役」と、前後7年間、2
	度にわたる朝鮮出兵にもかかわらず、朝鮮落ちなかった。結局、秀吉の死によってこの戦乱は終止符を打つが、朝鮮国
	全土は荒廃の極みに達し、前時代までの両国の良好な友好関係はたちまちにして崩れ去ってしまった。江戸時代に入り、
	慶長8年(1603)征夷大将軍となった徳川家康は、秀吉の高圧的な外交と異なり、「善隣外交」を旨とした友好的な政
	策を重視した。そして、徳川幕府と朝鮮国との関係修復の実務を任されたのが、古代から朝鮮との独自の交渉ルートを
	持っていた対馬藩であった。

 

	
	慶長12年(1607)以来、文化8年(1811)まで12回にわたって通信使は来日するが、一行の人数は、毎回300〜50
	0人の大使節団からなり、その中心は、李朝朝鮮政府が選び抜いた優秀な官僚たちで、随行員には美しく着飾った小童、
	一芸に秀でた技師・楽隊・絵師・武官・医師・通訳などが加わっていた。行く先々での応対は各大名が受け持ち、一行
	の警護役は往路・復路ともに終始対馬藩が担当した。対馬藩に仕える雨森芳洲も、第8・9次通信使に随伴し、さまざ
	まな折衝にあたった。

 

	
	朝鮮国王は江戸時代に12回、日本に友好使節団(朝鮮通信使)を派遣しているが、その使命の多くは、徳川将軍の襲
	職祝賀のためであった。新将軍が立つと、幕府の意を受けて対馬藩主は朝鮮国に対し通信使の派遣要請をする。朝鮮で
	はその可否を検討し、三使をはじめとする構成メンバーの人選、礼物(土産)や書簡の準備、船の整備などに取り掛か
	る。時には千人にもなった一行が、約半年間日本を旅するわけで、その準備は朝鮮国にとっても大事業だった事だろう。
	かたや日本では、幕府の老中・寺社奉行らを筆頭にして「来聘御用掛」という組織が作られ、これを中心にして、人馬
	の手配、街道・客館の整備など、使節を迎える準備にかかる。その時が来れば、対馬藩から朝鮮へ出迎えの使者を出し、
	風向きの良い日を選んで釜山を出発し、対馬島に渡る。以後、壱岐・九州北部・瀬戸内海の各港を経て、大坂から川船
	に乗り換えて、淀川を上り京都に上陸。ここで、メンバーの半数は京都に留まった年もある。ここから東へは陸路、中
	山道・朝鮮人街道・美濃路・東海道を経て江戸へ向かった。 





	
	朝鮮通信使という異国の文化を迎え、それを見物し交流することは、わが国にとって江戸時代きっての国際的イベント
	で、一行は武士階級のみならず、文人・僧侶や一般民衆からも大歓迎された。彼らがもたらしたものは、現在、各地に
	残っていて、目にすることができる。朝鮮の高官や文人が揮毫した漢詩や扁額をはじめ、狩野派の絵師たちや多くの浮
	世絵師たちによって描かれた絵巻物や屏風・掛軸、土人形、また各地の祭礼に取り入れられた芸能なども現存している。
	関西では、琵琶湖の沿岸・守山宿から彦根城下にかけての「朝鮮人街道」の名も、通信使に由来するものである。この
	道は、関ケ原合戦に勝利した家康が上洛した「吉例の道」として徳川将軍以外、諸大名等には通行が許されなかった、
	いわば特別の街道だったが、唯一、朝鮮通信使には通行が認められていた。このことからも、いかに国を挙げて善隣友
	好を大事にして朝鮮通信使を歓迎し、また将軍襲位の慶事をより一層権威あるものにしようとしたかがわかる。 





	
	この旅に出るちょうど2ケ月前、滋賀県高月町に雨森芳洲の生家を訪ねたので、ここにはどうしても寄りたかった。
	偉大な人はその仕事に偉大さが現れるという。さすれば、私はまったくの凡人だ。




厳原港

さぁ、対馬に別れを告げて、今日はこれから壱岐へ渡る。対馬パスポートが役に立った。


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