Music: Anna
万関橋
平成15年10月11日(土曜日)



	万関橋(まんぜきばし) −久須保水道−
	
	天然の良港、浅茅湾の中の竹敷(たけしき)に海軍要港部が設置されたのは1896年(明治29年)。海軍の次の
	目標は、東の久須保浦の地峡での運河の開削だった。もちろん、日露戦争を想定してのものである。明治33年、竹
	敷の日本海軍要港部は、日露戦争を控え、小型艦艇を通す水路として万関の丘を堀りきった。幅25m、水深3m。
	海軍が艦船の通り道として人工的に掘削した瀬戸は、軍事的に交通の要所として重要視され、日露戦争・第一次大戦
	にも小形艦船の通り道だった。
	万関橋の下を轟々と流れる万関瀬戸(久須保水道)は、もともとは地続きであった。南北に繋がり、東西の幅は尾根
	部分では十数メートルしかなかった。軍艦を風雨に強く安全な浅藻湾へ進入させる為に掘削して水路を作った人工の
	運河である。工事は難事業だった。ここは土ではなく、岩盤だったので、東西の両側を土嚢(どのう)を積んで潮止
	めをし、ダイナマイト以外は人力で掘ったという。
	完成と同時に一般の船舶の運航も可能となり、地元にも大きな恩恵がもたらされた。経済的、日常的な利便性は、と
	ても金には換算出来ない。上にかかる現在の万関橋は、水路を拡幅することも想定して造られているので、将来も十
	分に対馬の発展に寄与すると考えられる。



	
	ところが、久須保水道の開削に関する資料は現在皆無に等しい。「広く紹介したくて、十年近くも調べ回っているん
	ですが、どこを探してもダメ。図面もまったくなくて、論文も書けないんです」と長崎大工学部の岡林隆敏教授(5
	2)も嘆く。土木工学の立場から長崎市と県内の近代化遺産の調査を続けてきたが、大きな壁にぶつかってしまった
	という。唯一の資料は「明治工業史 土木編」(日本工学会編、昭和五年)に、わずかに二行。「中にも三十四年に
	開通せる浅海湾、三浦湾間の久須保水道掘割の如きは、今猶ほ当時を偲ばしむるものあり」。工事を請け負った大成
	建設の社史にも、「対馬国楠保掘割鉄橋」との説明のついた写真が一枚載っているだけだ。「軍事機密の一級資料で
	すから、終戦時に処分されたとも考えられます」。そして、同教授は、こう強調する。
	「戦後五十年、イデオロギーがからんで、軍事関係の遺産は研究の対象には出来なかったんです。この種の遺産に対
	して学界全体に安直な拒否反応があり、無視され、嫌われ続けて来ましたからね。でも、もう日本の近代化に果たし
	た軍の役割を、冷静な目で再評価する時期です。陸海軍の持っていた技術とその意味を純粋に考え、正確に調査をし
	て記録しなくては。このままでは、考古学の世界になってしまいます」 (1999年11月14日 読売新聞 参考)

	1905年(明治38)5月、対馬沖の日本海海戦に臨む第三艦隊の水雷艇隊は、黄金色に輝く眼下の海面を縫い、
	水道を抜けて出撃して行ったという。あの海戦の勝利なくして、現在の日本はあり得ない、と言う意見もあることを
	思えば、この水道が日露の海戦を支えた要衝だったことに、改めて感慨の念がわき起こってくる。

	現在は橋が掛けられている。対馬の上島と下島を結ぶ橋で、ここが掘削されるまでは対馬は1つの島だったが、今は
	2つの島で、文字通り「対」島になっている。実際、韓国から対馬を見ると、見方によっては2つの島に見える事が
	あるらしく、「対馬」とはそこから来ているという説も有力だ。

 

	
	現在の万関橋は3代目で、第二次世界大戦後の昭和33年に架け替えられたもの。橋長 81.6m、橋巾5.5m、
	高さ25.5m、ローゼ橋部分135m、航路高さ27.2mである。現在、朝鮮海峡と対馬海峡を結ぶ水道は、この
	万関水道と寛文12年(1671)に造られた大船越瀬戸の2ヶ所がある。干潮時の潮流は幾重にも渦を巻き、橋上から
	の景観は、訪れる人に絶賛されている。上から舟が通るのを眺めていると、しかしこんな運河をよくぞ掘ったもんだ
	という気がする。

	人は、愛と戦争のためならとてつもない事をしでかす。



	
	橋の手前には駐車場やトイレ、休憩所を整備した「対馬万関憩いの広場」がある。車を止めてしばし橋上からの絶景
	を楽しむ。対馬・浅茅湾のリアス式海岸風景を見れる場所はいくつかあるが、この橋の上方、万関展望台は、万関瀬
	戸や東側の海も望められるいいスポットである。フーテンの寅さんも、第27作「浪花の恋の寅次郎」で、マドンナ
	の松坂慶子を追ってこの対馬にきた。28作の「寅次郎・紙風船」では、私の故郷、福岡県秋月にもやってくる。

 

	
	山の間を海が通り抜ける。狭い水路だが通る船は結構多い。世界でいちばん狭い海とも言える。美津島町大字小船越
	に「浅茅湾周遊船観光」という会社があって、浅茅湾を巡る観光遊覧船を巡航させている。これに乗れば浅茅湾を巡
	る遊覧が楽しめ、鋸割岩、万関橋、狭瀬戸などを周遊できる。私は高校生で来たときこの船に乗った。



 

	
	対馬は、北北東から南南西に細長く伸びた島で、南北82kmの長さと、東西の最大幅18kmをもつ。長崎県では
	最も大きな島で、その面積の696平方キロは五島の福江島(326平方キロ)のおよそ2倍の広さである。中央部
	の浅茅湾(あそうわん)をはさみ、北と南の地域(上島・下島)に分けられ、この両地域が接続する細長い地峡は、
	明治33年(1900)海軍によって開削されて万関水道となり、浅茅湾と東側の外洋とが通じるようになった。

	対馬北部地には、海抜300〜500mの等頂面が認められる。分水嶺は東側に偏り、主要河川の佐護川、仁田川、
	飼所川、三根川は、すべて西海岸に流れこんでいる。中央部の浅茅湾内の海岸は典型的な沈水地形をもち、細長い入
	江と岬とが複雑に交錯するリアス式海岸が発達している。浅茅湾の周辺地域は、海抜50〜100mの低い丘陵地と
	なっている。浅茅湾奥の島山島は複雑な海岸線をもち、地形学では骸骨島(スケルトン・アイランド)とよばれる島
	である。
	南部の下県山地の東側は、熱変成作用を受けて堅硬になった岩石が分布するホルンフェルス帯である。この一帯では、
	上見坂から厳原の市街地背後の有明山(558m)にかけて、海抜500m級の山地をつくっている。下県山地の南
	半部には、対馬最高峰の矢立山(649m)をはじめ、海抜500〜600m級のホルンフェルス帯の山々が、ほぼ
	円形の内山盆地を取りかこむ格好でならんでいる。内山盆地は、深成岩のかこう岩の頭が地表に顕れた後に、風化と
	侵食作用を受けて形成された侵食盆地である。


  邪馬台国大研究・ホームページ / 歴史倶楽部 / 邪馬台国への旅