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宇治を訪ねて 歴史倶楽部弟69回例会
宇治神社


		
		【宇治神社(うじじんじゃ)】
		興聖寺から、また宇治川の流れに沿って宇治川東岸を川下へ戻ってくる。朝霧橋の対面に宇治神社の鳥居がある。両側にいかめし
		い顔をした狛犬が鎮座する。明治になるまでは、宇治神社とその東奥に位置する宇治上神社は一対で一つの神社だった。それぞれ
		離宮上神社、離宮下神社と呼ばれていた。宇治神社と宇治上神社が鎮座するこの一帯は、応神天皇の皇子で、宇治十帖の八宮(は
		ちのみや)のモデルとも言われている「莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)」の宮居跡と考えられていて、皇子が宇治川に入水した後、
		宮跡にその霊を祭ったのが両神社の起こりと言われる。





		
		祭神の菟道稚郎子は、日本書紀によれば、応神天皇が次の帝に菟道稚郎子を指名したが、兄である大鷦鶺皇子(のちの仁徳天皇)
		をさしおいて自分が皇位につくわけには行かないと悩み、葛藤から宇治川に入水したという。入水の知らせを聞いた大鷦鶺皇子は
		宇治へ駆けつけ、弟の亡骸をかき抱いて号泣し三度その名を呼ぶ。すると菟道稚郎子は息を吹き返したが、今度は、「黄泉の国で、
		兄上が帝にふさわしいと父上にご報告します。」と告げると遂に永の眠りについた、と書記は記録している。延喜式神名帳の、宇
		治郡に宇治ノ神ノ社二座とあるうちの一座がこの宇治神社とされるが、宇治上神社の二座に比定する説もある。また一説には、応
		神天皇の離宮跡とも伝えられ、「離宮社」「離宮八幡」「桐原日桁宮(きりはらひげたのみや)」などともよばれていた。

 



 

		
		その後地域の鎮守となった離宮社は、対岸に平等院が建立されると、その鎮守社としての地位も与えられる。平安から鎌倉時代に
		かけては藤原氏の支援もあり、「離宮祭」とよばれる祭礼時には神馬が奉納され、競馬、田楽が華々しく行われ、宇治川は舟で溢
		れかえったと伝えられる。平安時代後期に行われていた宇治離宮祭は、当社と宇治上神社の両者合同の神事で、田楽法師の諸座が
		祭礼に奉仕し、仮粧、散楽、馳せ馬など多彩なまつりが行われていたことが『中右記』などの古記録によって知られている。鎌倉
		初期には宇治猿楽などの芸能が催されていたとの記録も残っているし、現在、この神社には「雪掻きの面」と呼ばれる翁面(桃山
		時代・市指定重要文化財)が伝わる。現在でも、毎年6月8日に離宮祭が行われ、平成10年には市民の手により、長らく失われて
		いた田楽が復興した。大きな御輿(みこし)が市中を巡幸する。 
		三間社流造りの本殿は鎌倉時代に建立されたもので、国の重要文化財(鎌倉時代)に指定されている。他にも木造狛犬(現在は郷
		土資料館)や白色尉面などの貴重な文化財も伝わる。

 

 

		
		祭  神:菟道稚郎子命	由  緒:神社栞
		当社は仁徳天皇(自今一千七百年)の創建にして、往昔より離宮八幡と云ふ、史上所謂桐原日桁宮(きりはらひけたのみや)是れ
		なり、仰も祭神菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)は応神天皇の皇子にして、夙に経籍を習ひ、儒道を修め博くその理
		義に通じ給ふ、ことに聴明叡智に坐しましゝかば、天皇深く御鍾愛あり、長子を凌ぎて皇太子と定め給ふ、御父応神天皇御崩御の
		後、命は天位を皇兄大鷦鷯命(おおささきのみこと・仁徳天皇)に譲りて此処に住はせ給ふ、されど皇兄くらいを践み給はず、互
		いに相譲りて帝位を空ふし給ふこと三年、命皇兄の御心の奪ふ可からさるを知り給ふや、死を以って節を全ふし給へり。皇兄深く
		痛哭哀悼し給へど、今は詮術なければ、遂に天位を襲ひ給ふ仁徳天皇即ち是れなり。然れば此の御即位譲りの事は百世の美徳とし
		て普く世人の知る所なり、こゝに於て天皇その宮居の地に祠を建てゝ、命の神霊を鎮祭せしめ給ふ。是れ当社の創立なり。命は初
		め百済の貢士阿直岐(あちき)および王仁(わに)に就て学ひ薀奥を極め給ふ、実に我国文教の始祖にして、其の事蹟は長へに彜
		倫を叙し汎く治教を張れるのみならず、国運の隆興も亦大に負ふ所尠少ならざる可し。当社は古来極位の官社にして、歴朝の崇敬
		武将の信仰は申も更なり。殊に後冷泉天皇の尊崇厚く、宇治関白頼道公も亦深く崇敬し、毎年例祭の砌り幣帛を進め神馬を献した
		り、又社家政所総長者神事奉行所のありしと、古史社伝社記に詳らかなり、中古兵乱等の為、太く衰微せるも今尚ほ古礼の存する
		ものあり。明治三十年皇太子殿下(大正天皇)本社に行啓ありて幣帛を供進せらる。御神像及社殿は共に重要文化財なり。年中祭
		典行事の主なるものは、歳旦祭をはじめ祈年新嘗等の大祭、中祭、小祭、遥拝式の外に毎年十二月一日献茶祭、五月八日例祭。因
		みに往昔命が御母后宮主河技比売(かえひめ)命に奉帛せられし慣例に基づき、神輿旅所駐輦中六月五日当社附属講社員並に数万
		の人々が該旅所より県社への幣渡神事(ぼんてん渡御)に列す。かく私祭執行翌々日有名なる大幣神事執行の後ち神輿還幸あり





		
		宇治神社を出て宇治上神社までは1,2分である。すぐそこに見えている。「世界遺産 宇治上神社」と書いた大きな看板が鳥居
		に立てかけてあるので嫌でも目に付く。この石畳の散策道は、通称「早蕨(さわらび)の道」と呼ばれていて、宇治神社北東角に
		は「早蕨之古蹟碑」がある。宇治十帖の4番目の古蹟で、源氏物語の「一人取り残された「中の君」を、阿闍梨が蕨や土筆を送っ
		て慰めた」ところからこの名があるらしい。江戸時代から明治にかけて、早蕨の古跡はその所在地を転々とし、奈良鉄道(現在のJR
		奈良線)の工事に伴い、今の場所に移ったものという。源氏物語の「早蕨の巻」も、その大部分は八宮(はちのみや)邸が舞台となっ
		ている。
 

 
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