Music:Bad to me

宇治を訪ねて 歴史倶楽部弟69回例会
興聖寺


		
		【興聖寺(こうしょうじ)】
		朝霧橋を渡って中之島(塔の島)を出ると宇治川の北岸に出る。すぐ目の前に宇治神社の鳥居が見える。そして橋の左手の匂宮と
		浮舟の碑が、ここが源氏物語の舞台である事を再認識させてくれる。宇治川に沿った道を、その碑とは反対側、つまり橋を降りて
		右手へ歩きだすと、程なく「関西電力宇治余水路」と呼ばれる発電所の放流川が左手に見え、奥には発電所の建物も見えている。
		栗本さんの話では、この建物は明治期の古建物として有名で、その古さから建築に興味のある人の見学が多いそうだ。発電所から
		の流水路が宇治川に注ぎ込む地点に観流橋が架けられている。放水量の多い時の橋の上から見る水流の勢いは圧巻だ。まさに「観
		流」という名前がぴったりの橋である。なおも4,5分進むと左手に「興聖寺」と書いた石塔が見える。

 

		
		その脇に、宋風の興聖寺への山門がある。門をくぐると、なだらかな「琴坂」と呼ばれる参道が寺に向かって一直線に延びている。
		両側に切り立った崖から、岩盤を切り崩して作った切り通しの坂であることが判る。この参道は、脇を流れる小川のせせらぎが琴の
		音に似ていることから琴坂と呼ばれているそうだが、今日はそのせせらぎは聞けなかった。季節には、紅葉が道の上を覆い、見事な
		紅葉の赤い天井を作り出す、と案内にある。

 

		
		2,3分で琴坂を上りきると、門の中から本堂以下の創建当初の諸堂が見える竜宮形の楼門薬王門に至る。 興聖寺は、元福元年(12
		33)、宋の留学から戻った道元(どうげん)禅師の開山になる曹洞宗最初の禅寺である。現在は曹洞宗永平寺派の寺になっているが、
		それは、道元がここで約10年説法を行った後、越前の永平寺へ移ってそこで曹洞宗の基礎を確立したからである。もともとは京都深
		草に建立されたようだが、道元禅師が永平寺へ移った後は相次ぐ戦乱もあって廃絶状態となっていた。江戸時代になって慶安2年、
		(1649)、当時の淀城主であった永井尚政が、深草で荒れ果てていた禅寺を嘆き、宇治七名園の一つの朝日茶園であった現在の場所に、
		道元の遺徳をしたう万安英種(ばんあんえいゅ)を迎えて復興した。以降永井家の菩提寺となって、今では関西での曹洞宗の中心的な
		寺院となっている。中興の開山万安英種(ばんあんえいしゆ)は、峻厳かつ枯淡な禅を導き、その教えが興聖寺の伝統的な禅風となっ
		て、江戸時代を通じ興聖寺は隆盛を極め、畿内を中心に末寺250余ヵ所を数えるまでになった、諸国から多くの雲水(うんすい)が集
		って修行し、越前の永平寺、加賀の大乗寺、能登の総持寺、肥後の大慈寺とあわせて日本曹洞五箇禅林とうたわれた。 

 


これが紅葉の赤い天井。観光協会パンフより。

		
		楼門薬王門を入ると境内には、朝日山を背景に中央に本堂、その左右には開山堂や禅堂、方丈などが整然とが並び、いかにも禅寺の
		たたずまいを感じさせる。各堂は回廊で結ばれ中庭を作り、茶人でもあった尚政が植えた松、桃、梅、柳、桜、モミジなどが四季お
		りおりに趣を添え、閑静な枯山水を作り出している。元々は三つの茶亭があったようだ。ひめこまつの老木も多い。本堂には、伏見
		城の遺構を移築した血の手形が残る天井や鴬張りの廊下などがあり、本尊には釈迦三尊像が奉られている。

 

		
		本堂から庭園を眺めていると、まさしく「心が洗われる」気がする。大自然を閉じこめた端正な空間。背後に朝日山を背負って静寂
		な時間。空間と時間が、これほど「無」状態の雰囲気を醸し出している場所を、私はまだ知らない。



		
		<曹洞宗永平寺派仏徳山興聖寺>
		・京阪宇治駅から徒歩10-15分 ・Tel:0774-21-2040 ・拝観時間 8:00〜17:00 ・駐車場あり 
		・境内の庭園散策は無料だが、本堂は拝観許可(予約)が必要。


 
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