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宇治を訪ねて 歴史倶楽部弟69回例会
塔の島



		
		平等院から中之島へ行く途中に、多宝塔の跡がある。平成6年の発掘調査で発見され、同所の基壇が復元してある。鳳凰堂建立の
		8年後、1061年に藤原頼道の娘寛子(かんし)が建立したとある。当時平等院は、現存する鳳凰堂を中心に相当な範囲までその寺
		域が拡がっていて、多くの建物が建っていたことは文献上からもわかっているが、大半はまだその位置も含めて判明していない。
		ここも多宝塔となっているが、発掘結果からは絵にあるような単塔(宝塔)である可能性が高いそうだ。





		
		【塔の島(とうのしま)・橘島(たちばなじま)】
		平等院の新しくできた博物館「鳳翔館」内では飲食はできないので、中の島へ渡って昼食にした。水量は少なかったが宇治川の流
		れはいつ見ても勇壮である。これこそ川だという気がする。これに比べると、京都市内を流れる鴨川などちょろちょろと流れる小
		川に過ぎない。
		宇治川の流れを眺めながら林の中の広場で昼食を取る。昼食後、平等院へ戻って見学した後、再び中の島へ戻る。平等院側から塔
		の島へ渡る橋を「喜撰橋」といい、近くに鵜飼舟の船着場があって、川にはシーズンオフで御用済みの鵜飼船が浮かべられている。
		辺りは料理屋や土産物屋が軒を連ねる。平等院南門前の坂道を東へ歩き、喜撰橋を渡る。

 



上右の写真に見えている橋が「観流橋」。奥の宇治発電所からの流れが宇治川に注ぎこむ。



 

		
		<浮島十三重の石塔(重要文化財)>
		宇治川の中洲である「中の島」には二つの川洲があり、上流側が塔の島で、下流側が橘島であるが、一般的には中の島で通ってい
		る。塔の島は、その名の通り島内に重要文化財「十三重の塔」がある所からその名がついた。「十三重の塔」は高さ15.2m、日本最
		大・最古の石塔で、1286年に奈良西大寺の僧の叡尊が建立し、宇治橋の架け替えに伴い、宇治川の殺生禁断と宇治橋供養のために
		建立した。弘安7年(1284)、宇治橋の架け替えを引き受けた叡尊は、戒律を守る僧侶として、宇治川の殺生禁断令の発布を朝廷
		に要請し、それを受けた太政官布によって、漁業は全面的に禁じられ、宇治橋は弘安9年(1286)11月に完成する。上皇を始め
		多くの皇族、貴族が来臨して盛大な渡り初めが挙行される一方で、叡尊は、魚霊を供養し水流の安泰を仏に祈願するよすがとして、
		宇治川に小島を築き、高さ15m余の石塔を建てた。現存する日本最古の石塔である。塔の下には、漁具や漁舟などを埋めて法要を営
		んだという。以後、洪水や地震で倒壊・傾損を繰り返す度に再建されたが、1756年の洪水による倒壊の際の復旧は難工事のため断
		念され、150年もの間、石塔は川中に埋没していた。その後、明治41年(1908年)に、九重目の笠石と相輪を補い復元され、昭和28
		年(1953年)に、国の重要文化財に指定された、と石塔の解説にある。塔の島は「浮島」とよばれることもある。中の島全体は「宇
		治公園」として整備されていて、桜の名所としても知られ、季節には多くの花見客・観光客で賑わう。

 

 

上記の説明が石塔の基壇に埋め込まれている。(以下)。




中の橋
		
		橘島と塔の島を結ぶ橋を「中の橋」といい、島周辺の橋の中で一番小さい橋である。これを渡って橘島へ行く。ここには「平家物
		語」に登場する「宇治川の先陣争い」の碑がある。この碑は、源義経配下の佐々木四郎高綱と梶原源太景季(かげすえ)の2人が、
		橘の小島ヶ崎(橘の小島の先端)より、勅旨でもあった源義仲討伐の先陣を争った故事を偲んで、昭和6年に建てられた。「橘の小島」
		は現在の「橘島」とは違い、宇治橋の下流にあった中洲の一つで、今は消滅し幻の島となっている。  

 

		
		<宇治川の先陣争い>
		後白河法皇の木曽義仲追討の勅旨を受けて、源頼朝は二人の弟、範頼と義経に命じ6万の兵で宇治へ向かう。宇治川をはさんで、
		木曽義仲の軍勢と源義経軍が対峙した。義仲は勢田と宇治の二つの橋を落し、岸には柵を巡らせ水中には杭を打ったり、網を張る
		など防戦の準備をしていた。この様子を見た義経は、「この合戦に手柄をたてた者の名前を記録に残す。また見事に宇治川を渡る
		者があれば、敵に矢を射させてはならぬ。」と命じた。このとき義経軍のなかに、源頼朝の家来で頼朝から名馬「摺墨(するすみ)
		」をもらった梶原景季と、「生妾(いけづき)」をもらった佐々木高綱が、一番乗りの栄誉を得ようと競いあうのである。早や宇
		治川に馬を躍らせて先陣を急ぐ梶原に、佐々木は「梶原殿、馬の腹帯が緩んでいるようだが。」と声をかけ、梶原が腹帯を引締め
		ている間に、高綱は追い越して対岸に跳びあがり「宇多天皇八代の落胤、佐々木三郎秀義の四男、佐々木四郎高綱、宇治川の先陣
		つかまつった。」と名乗りを挙げた。鎌倉へ報告された合戦の記録には「宇治川の先陣、佐々木の四郎。二陣、梶原源太」と書か
		れていた。(平家物語の一節「橋合戦」)



 



 

		
		橘島から川岸へ渡る橋が真っ赤に塗られた「朝霧橋」で、この橋の上からの光景が宇治の景色の中で一番の圧巻である。上流側の
		景色は山紫水明そのもの、下流側は正面に宇治川・愛宕山を望み、雄大な宇治川の全景が臨める。





		
		朝霧橋を渡りきった東詰には宇治十帖モニュメントが建っている。 源氏物語宇治十帖の中で、浮舟(モニュメントの右側)は薫に
		連れられて宇治に移るが、匂宮(左側)は浮舟の居場所を探り出し宇治を訪れる。そして、二人はともに小舟で橘の小島へ渡った。
		モニュメントはその場面をモチーフにしている。背景に宇治川の流れ、朱色の朝霧橋を得て、源氏物語の世界に一番ふさわしい場
		所に建っているように思われる。

 

 


 
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