Music:Bad to me

宇治を訪ねて 歴史倶楽部弟69回例会
県神社



		
		【宇治・県神社(あがたじんじゃ)】
		宇治の商店街から平等院へ向かう。その途中、平等院の南門から西へ100メートルほど手前のところに県(あがた)神社がある。「県」と
		は、大和政権が西日本の要衝地に設けた行政組織のことで、特に畿内にあった県は、政治と祭祀に重要な位置を占めていた。県神社は
		平等院の総鎮守社で、祭神は木花之佐久夜比売(このはなのさくやひめ)である。元来は、古代の「宇治県(うじあがた)」の守護神
		として祭られた神社と考えられ、平安後期には「県の森」と呼ばれていた。藤原道長が、隣接地に別業(別荘)宇治殿を営み、その子
		頼道が、宇治殿を平等院として以来、この神社を鎮守のやしろとして尊崇したので、明治時代になるまでは平等院の管轄下にあった。
		江戸時代には商売繁盛、良縁成就などの民間信仰が盛んになり、毎年6月5日夜に行われる「あがた祭り」には近畿一円の信奉者の奉
		仕による梵天渡御が行われる。この祭りは暗闇の奇祭として知られており、その日、宇治の街路は参詣者と露店で埋め尽くされると言う。






		
		【木花之佐久夜比売(このはなのさくやひめ)】
		古事記は「木花之佐久夜毘売」と表記するが、日本書紀・先代旧事本紀は、「木花(之)開耶姫 」、風土記では「許乃波奈佐久夜比売
		命」とある。木花之佐久夜毘売は、日本神話に登場する女神で、山を司る大山祇神(おおやまつみ)の娘である。
		天照大神の孫である邇邇杵尊(みみぎのみこと)の妻となった。古事記によれば、高天原から日向の高千穂に降臨した瓊瓊杵尊は、吾
		田の笠沙で一人の美人に出会う。それが、木花之佐久夜毘売である。恋に落ちた瓊瓊杵尊は、彼女の親である大山祇神に結婚をを申し
		込む。大山祇神は喜んで、姉である石長毘売(いわながひめ)とともに、瓊瓊杵尊に献上するが、石長毘売は醜かったので、瓊瓊杵尊
		は木花之佐久夜毘売とだけ一夜を共にし石長毘売を親元に送り返す。大山祇神はこれに怒って瓊瓊杵に言う。「姉妹二人を送ったのは、
		石のごとく雪や風が吹いても微動だにしない命(いわながひめ)と、木の花が栄えるかのごとく繁栄(このはなのさくやひめ)すると
		いう意味を込めたのであり、石長毘売だけ送り返したので、今後は花の様に美しいだけで儚い命となってしまうでしょう。」歴代天皇
		が短命なのは、そのせいであると古事記はいう。
		この後木花之佐久夜比売は身ごもる。しかし、瓊瓊杵尊は一夜限りの契りで孕んだことを疑い、国津神の子ではないかと言い放った。
		その疑いを晴らすために、彼女は出入り口のない産屋を作ってその中に入り、邇邇杵尊の子であれば無事に生まれるはずと言って産屋
		に自ら火をかけた。その中で出産し、それが邇邇杵尊の子であることを証明した。その際に生まれたのが、火闌降命(ほでりのみこと:
		海幸彦)・火須勢理命(ほすせりのみこと)・彦火火出見尊(ほをりのみこと:山幸彦)である。彦火火出見尊は、やがて初代天皇となる
		神武天皇の祖父である。



		
		炎の女神としてのイメージからか、富士山本宮浅間大社の社伝によれば、木花之佐久夜比売は、噴火を繰り返す富士を鎮めるために水
		神として祀られたという。また、8月26〜27日に行われる富士吉田市浅間神社の「火祭り」は、木花之佐久夜比売が茅の産屋に篭
		り、火をかけてその中で三人の皇子を出産したというこの故事に基づくお祭りである。産屋に火をかけて出産するというのは他の伝承
		にも二三見え、暗闇で行われる奇祭と言うここの祭りも、何か古代文化との繋がりを残しているもののような気がする。
		また、日本の国花であるサクラの名は、木花之開耶姫(このはなのさくやひめ)の“さくや”がなまったという説もある。




 
  邪馬台国大研究・ホームページ / 歴史倶楽部 / chikuzen@inoues.net