今回の例会は「宇治」である。参加者は、服部さん、河原さん、栗本さん、河内さん、新開さん、井上だ。私もこれまで 何度か宇治には来たことがあるが、みなさんそれぞれ一度は来ているようである。この方面には、宇治以外にも黄檗山な ど見所は多いが、私はなんと言っても宇治川の豪壮な流れが一番好きである。服部さんには「井上さんは川やら海やら、 水がほんま好きやねぇ」とからかわれるが、この宇治川の奔流を見ているとほんとに心がなごむ。もしかしたら私の前世 は魚かもしれない。しかし、残念なことに今の季節は水が少ない。夏前などはまるで轟音をたてて流れているような宇治 川も、冬には水量がすっかり少なくなってしまっている。上流には天ヶ瀬ダムがあり、ここで放流量を調整しているのだ ろう。
京阪電車の「中書島」駅から「宇治線」に乗り換えて終点が宇治であるが、今日は一つ手前の「三室戸駅」(みむろど) で降りて莵道稚郎子の陵墓を見て、宇治へ向かうことにする。
莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)は、応神天皇と宇治木幡の豪族の娘、宮主宅媛(みやぬしやかひめ)との間に生まれた。 幼い頃から学問に秀で、父に望まれて皇太子になったが、兄の仁徳天皇と皇位を譲り合って自ら命を絶った悲劇の皇子で ある。皇位をめぐるゴタゴタのため都を逃げて来たが、その時道案内したのが莵(うさぎ)だったと言う。
日本書紀によれば、応神天皇が次の帝に菟道稚郎子を指名したが、兄である大鷦鶺皇子(のちの仁徳天皇)をさしおいて 自分が皇位につくわけには行かないと悩み、葛藤から宇治川に入水したという。入水の知らせを聞いた大鷦鶺皇子は宇治 へ駆けつけ、弟の亡骸をかき抱いて号泣し三度その名を呼ぶ。すると菟道稚郎子は息を吹き返したが、今度は、「黄泉の 国で、兄上が帝にふさわしいと父上にご報告します。」と告げると遂に永の眠りについた、と書記は記録している。
紫式部は、この莵道稚郎子皇子を源氏物語の「八の宮」のモデルにしたのではないかといわれている。
日本書紀によると莵道稚郎子は「莵道の山の上」に葬られたとあり、江戸時代には宇治川東岸の朝日山山頂の経塚が莵道 稚郎子の墓とされていた。墓の所在地は諸説あって特定されていなかったが、明治23年(1890)当時の宮内省によって 「浮舟の杜」とよばれていた場所が買い取られ、「莵道稚郎子の墓」(宇治墓)と設定された。従ってここも例によって、 宮内省によって「作られた」陵墓である可能性が高い。
また、この地を「宇治」と言うのはこの皇子の名前、菟道(うじ)稚郎子(わきいらつこ)に由来しているとの説もある。 京阪宇治駅横から、宇治川べりに堤防の上の道をずっと下っていくと陵墓全体がよく見える。