Music: Imagine

島津生き残り作戦
2004.02.25(水)



	関ヶ原の戦いが終了し、戦国から江戸へと時代が大きく動くなかで、徳川家康による空前の大名取りつぶし政策が始まった。狙われ
	たのはかつての家康のライバル、外様大名たち。しかし、お家断絶や領国の経営破綻に追い込まれる大名が続出する中、見事に生き
	延びた大名たちもいた。慶長7(1602)年12月28日 関ヶ原で島津家は西軍にくみしたにもかかわらず、家康から全領土を保証される。
	強気の交渉術の薩摩・島津家。苦難の時代を生き抜いた、外様大名の生き残り戦略を解明する。




	慶長5年(1600)薩摩の17代当主島津義弘は僅かな家臣を伴い、伏見の屋敷に上洛していた。その前年、五大老の上杉氏が領地
	に戻ったまま上洛せず、五奉行の石田三成が加藤清正ら七将に襲われ、領地の佐和山に蟄居するなど、世情は混乱していた。6月18
	日、徳川家康は上杉討伐に出発する。その軍が下野の国小山に着く頃、石田三成は家康征伐を挙兵した。西軍は、毛利・小早川・宇喜
	多・安国寺・小西らの大名が大坂に集結し、当初の西軍総数は9万人に及んだ。その頃、義弘は家康・三成のどちらにつくか態度を曖
	昧にし情勢を見ていた。国元の兄・義久からも、その指示が出ていた。しかし三成からの再三の申し入れを受け西軍に加わることにし
	たが、内心は傍観者であった。義久からも援軍はなかったが、義弘を慕い6月5日に甥の島津忠久、7月28日に家老の新納旅庵らが
	大坂に着き、その後も義弘を慕う兵は各々に着陣し、関ヶ原の戦い直前の9月13日には、阿多長寿院盛淳・山田有栄らが大垣に着陣
	し、最終的にその兵力は1500人ほどになった。時に島津義弘66歳。島津家の命運を賭けて、老将はこの戦いに望んだ。 




	9月15日午前8時頃、濃い朝霧の中戦闘は開始された。東軍の攻撃は、笹尾山の石田隊と宇喜多・小西隊に集中した。島津隊はその
	真中に位置したが、前方に島津豊久その右に山田有栄、後方に島津義弘という配置で、矢のような陣形を取り、攻め込む東軍には鉄砲
	の一斉射撃で追い払ったが、積極的に攻撃には参加せず、防戦に終始した。三成の家臣が東軍への攻撃を二度にわたり要請したが取合
	わず、戦いを傍観する態度に終始した。ほどなく、三成自身が島津豊久の陣へ攻撃参加の督促に来たが、「本日の合戦はめいめいに戦
	いたい。」として取り合わなかった。幾度と無く三成に義弘が進言した奇襲案などを、三成はことごとく拒絶していたし、それなら勝
	手に戦えばよいとの思いもあったかもしれない。しかし、入り乱れての混戦の中、幾度も東軍を押し戻したが東軍との間合いは徐々に
	狭まり、乱戦となって島津の兵力は次第に減少していった。

 


	昼過ぎに小早川秀秋らが東軍に寝返ってから西軍は総崩れになり、各陣営は敗走を始めた。島津軍は西軍の敗走兵が自陣に逃げ込むの
	を防ぎながら東軍に防戦したが、戦いの勝敗はほぼ東軍の勝利に決するなか、逃げず留まった島津隊は戦場に孤立し取り残された。
 	西軍の敗走が続く中、陣を構えているのは島津隊のみであった。背後には西軍の敗走兵とそれを追う東軍の兵が満ち溢れていた。数百
	m前方には家康の本陣がある。義弘は家康にここで最後の戦いを挑もうとするが、豊久や重臣達のすすめもあり、ここは退却して薩摩
	へ逃げ帰ろうと決心する。しかし後ろには引けない。前方の東軍の中を敵中突破で突抜け、南宮山と松尾山の間、前日来た道を南に抜
	けるという方法しかなかった。前に退却という方法は前代未聞であり、その島津隊の勇敢さをして後にこの退却戦は「島津の退き口」
	と称された。

 




	午後2時ごろ、東軍の勝利がほぼ決した。島津隊は生き残った兵をまとめこれを4隊に分け、鋒矢(ほうし)の陣形をとり豊久を先頭
	に穿ち抜けして東南に進み始めた。鬼気迫る勢いで突進してくる島津隊に押され、東軍の将兵は唖然として見送ったと言う。猛将と言
	われた福島正則でさえ手を出さず、正則の子・正之が追おうとするが、家臣から「死に狂いする敵に戦はせぬもの」と押しとどめられ
	た。譜代の家臣たちがその前面を固めていた家康の本陣の前方を駆けぬけた島津隊は、関ヶ原の戦場を脱し山間の牧田方面へ駆け抜け
	た。東軍参加の諸将は見送ったが、家康の家臣本多忠勝・井伊直政やその子・松平忠吉らは、家康の鼻先を抜けていった島津を許せず
	一団となって島津隊を追撃した。 

 

 

 


	関ヶ原を一文字に脱出した島津隊は、山間の間道「烏頭坂」にたどり着いた。ここまでたどり着いた島津隊は200人あまりであった。
	先鋒であった豊久の隊はここで最後尾に回りこみ、追撃してくる東軍を迎え撃ち、殿(しんがり)として戦った。豊久は義弘が羽織っ
	ていた猩々緋の陣羽織を着て島津惟新(義弘)を名乗り、追撃を引き付け義弘を先へ進めた。豊久は本多忠勝の兵に囲まれ、四方八方
	から槍で突かれ、豊久に従った13人の部将ともどもここで討ち死にした。

 


	島津隊のその後の脱出ルートについては諸説がありはっきりしない。いずれにしても義弘は無事に堺まで逃げ切り、大阪城に人質にな
	っていた妻と息子・忠恒の妻を救い出して、薩摩の地へたどり着いた。この時、義弘に従った者は84名であった。 

 


	関ヶ原直後から家康の戦後処理が始まる。敗走した将兵は捕らえられ断罪された。生き残って領地へ逃げ帰った者も、多くは領地没収
	或いは改易となった。家康から「じっとしていれば所領は安堵する」と言われ、大阪城から動かなかった毛利輝元は120万石から3
	0万石にされたし、上杉も120万石から30万石となった。




	家康は島津に対して謝罪せよと迫り、無条件降伏を意味する「上洛」を要求してきた。また家臣らに命じ、島津に対して上洛を促す書
	状を何通も送らせている。義弘の2歳上の兄で、島津16代当主島津義久は、これらにのらりくらりとした返事を返す。「遠方につき
	なかなか出て行けません。」「義弘には蟄居を申しつけ既に奄美大島へ流してあります。」「いま上洛に向け準備中です。」「道路が
	悪く今、道を修理中です。」「手元不如意(金がない)で出掛けられません。」

 

 


	その内の一人、山口直久へ返答した島津義久の書状によると、「上洛しようと準備していたが体調が悪く果たせない。決して仮病など
	ではありませぬ。」と、いや仮病ですよと白状しているような、いかにも人を食った返事である。

 

 

 


	事ここに至って、家康は遂に島津征伐を決心する。譜代や九州の大名達に命じ薩摩へ向かわせるのであるが、しかし義久は、引き延ば
	し策を取っている間にも戦争に向けての準備を進めていた。義弘が大坂の人質を救い無事に帰還した直後から、島津は国境を固めてい
	た。間道や要所には砦を築き、新に武器弾薬をそろえ、各地に陣地を設営する。そしてそれらの陣地には、なんと奄美で蟄居している
	はずの義弘さえもが布陣していたのである。

 

 


	しかし家康は、出兵からわずか1ケ月半で突然島津征伐の軍を引く。廻りはいぶかってその真意を家康に質すが、家康の返事は「これ
	から寒くなる」というものだった。




	家康と島津との膠着状態は続く中、その翌年、日本に向かっていた「明国」の船が奄美沖で海賊船に襲われる。積み荷は奪われ乗組員
	は全員殺されたと思われた。この船は、家康が明国王に宛てた書状の返書を日本へ運んで来る途中だった。これには家康は戦慄したも
	のと思われる。
	家康も秀吉と並び貿易のもたらす利益を熟知していた。当時中国との貿易ルートは2つあった。1つは対馬の宗家を通して朝鮮から大
	陸へ渡るルートであり、もう一つは華南から琉球・奄美諸島を経由して日本に至るルートである。しかし前者は秀吉の朝鮮出兵により
	文字通り道は途絶えていた。残るルートの元締め的存在は薩摩である。薩摩が協力しなければこのルートによる日本への渡航はあり得
	ない。当時の交易は国家間の正式な通商ではなくいわば密貿易に近い私貿易だった。中国も和冦を恐れ公式には日本との貿易は禁止さ
	れていた(海禁)。しかし薩摩藩では独自に朱印状を発行し、これを保持する船は領海を通航させていたのである。当時日本から輸出
	されていた主なものは銀で、中国からの輸入品は生糸・絹であり、これらは仕入れ値の10倍の利益を生んでいた。

 


	実は家康は、義久とはずっと前から面識があった。秀吉の朝鮮出兵に際して名護屋城にある時、義久の家臣で明人のリョ・サンカンと
	言う者が秀吉からスパイの嫌疑を掛けられ死罪になる寸前であった。家康はこの時秀吉に掛け合い、義久とこの明人の命を救っている
	のである。島津と明国は古くから同盟関係にあり、島津には多くの明人の臣下がいた。鹿児島市内の、サンカンが住んでいた所の近く
	には「さんかんばし」と名付けられた橋が今も残っている。薩摩は明に対して独自のパイプを持っており、200年に渡って、いわば
	独立国家のような位置づけで明と接していたのである。家康はこれをよく知っていたと思われる。島津が要請すれば明から援軍が来る
	かもしれないと考えたふしもある。

 


	家康は対馬の宗氏を通じて朝鮮通信使を復活させたように、明国との貿易も強く望んでいた。島津はこの事件を島津出入りの商人、
	「伊丹屋助四郎」というものが犯したと家康にも明国にも通知したが、常識で考えても出入り商人がそんな和冦まがいの事をする訳が
	ない。明らかに島津の差し金であった。薩摩を攻めればこうなるぞ、という義久の家康への脅しである。

 

家康は悩む。そして遂に、島津を力づくで屈服させるのを諦めるのである。

 

 


	そして家康の家臣から義久への書状が届く。「家康様が証文を書いておられるのを見た。薩摩は安堵される。急ぎ参内し安堵書を受け
	取られるとよろしい」。これを受けて義弘の子・忠恒は江戸へ向かう。そして家康から請書を受け取り「60万9533石は安堵する。
	義弘は義久の監督下に置く限り、これも安堵する。」という通知をもらうのである。関ヶ原からちょうど2年が過ぎていた。

 


	島津との決着が着くやいなや、家康は明へ国書を送る。そこには「吾邦四辺無事、海陸安静」と書かれていた。ほどなく待ち望んでい
	た明国・福建省からの船が家康の元に到着する。家康は、薩摩ではなく自分の名で朱印状を発行し、明国、安南国(ベトナム)、呆宋
	国(フィリピン)への貿易を開始した。
	

				(日新)  (伯囿)     (修理大夫)
			忠良 ―― 貴久 ――――― 義久 ――― 女(薩州家島津義虎室)
					N  |     O  |
					   |         |
					   |
					   |
					   |   (兵庫頭・惟新) (又一郎)
					   |――― 義弘 ―――― 久保
					   |     P  |
					   |        |    (又八郎、少将、参議、大隈守) (薩摩守)
					   |        |― 忠恒(家久)――――――――――― 光久
					   |        |   Q                 R
					   |        |
					   |        |― 忠清
					   |        |




	西軍参加の主要な大名のうち所領を守りきったのは島津のみである。義久・忠恒らの数年に渡る粘り強い交渉の末、その所領が安堵さ
	れた。1石も削られず、1人の処罰者も出さなかった。家康の島津への処置は、他の大名へは見られない寛大なものであるが、これは、
	明国との貿易を強く望む家康が、天下を手中に収めた今、あえて事を構えず、根気よく島津懐柔の道を選んだと言うべきだろう。
	明との関係や、西南端にあるという位置的な関係は勿論あるが、いざとなればもう一度「関ヶ原」を「島津対その他大名」で薩摩で行
	ってもよいぞ、という強い意志が義久たちにあったからこそなしえた快挙だろうと思われる。鹿児島では今でも、薩摩を守った英雄と
	して島津義久・義弘・忠恒を称える祭りが毎年盛大に行われている。

	因みに、家康の戦後処分は、西軍大名の内、改易91家420万石、減封4家221万石、東軍大名加増115家671万石となって
	いる。 




	このHPは、「日本の城と城下町」コーナーの「関ヶ原古戦場」の補足として製作した。製作に使用した画像は2004.02.25(水)に放
	映されたNHK−TVの歴史番組「その時歴史が動いた」からスキャンしたので、その使用許可をNHKに求めたのだが、何の連絡も
	ないので、黙認と解釈した。また一部、同じNHKで昔やっていた歴史番組「歴史誕生」からも映像を拝借した。記して謝意を表明し
	たい。



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