Music: And I love her

雪と紅葉の 越中富山城 2002.Autumn 富山市

		
		秋のある1日。TVで北陸に雪が降っているのを見て、急に雪が見たくなった。世間はまだ紅葉に沸き返っているというのに雪は
		ないんじゃなかろうかと思ったけど、じっくり黒部川渓谷鉄道に乗って雪を見たいと思うと、なかば衝動的にサンダーバードに飛
		び乗っていた。富山城は紅葉真っ盛り、黒部川は雪の中で、まさに意図したとおりの光景が見れて幸せだった。


大阪−富山間を5時間で結ぶ、特急サンダーバード。日本語はご存じ雷鳥である。



 



		【富山城】
		富山駅から歩いて5分ほどの所にある。周りはビルの立ち並ぶ富山市の中心部で、隣には全日空ホテルがたち、NTTや富山国際会議場
		などの建物が並ぶ。城址は、現在木々の緑と、穏やかな濠に囲まれた城址公園となっている。訪れた日はまさに紅葉の季節のまった
		だ中で、赤や黄色の木々の葉が目に鮮やかだった。
		江戸時代の富山藩は、加賀、越前、能登三ヶ国を支配した3代目前田利常が、寛永16年(1639)幕府の許可を得て、次男利次に10
		万石を分与して成立した。その後13代232年間、明治を迎えるまで存続していた。明治18年から県庁が置かれていたが、昭和
		5年に焼失したあとは城址公園となった。

		しかしこの城址は江戸時代の富山藩の城郭ではない。城は,寛文元年(1661)から改修され,本丸,二の丸,三の丸,櫓などを築き、
		堀をめぐらした城だったが、その後たびたび火災にあい、延宝3年(1675)に類焼、正徳4年(1714)に本丸御殿焼失、天保2年(1831)
		復旧したばかりの本丸などを全焼、安政2年(1855)千歳御殿焼失,文久3年(1863)諸役所焼失と続いて、もともとの建物はほとんど
		消滅し、明治維新を迎えた。
		昭和29年城址公園一帯を会場として富山産業大博覧会が開催される際、これを記念して富山城復元が決定され、昭和28年7月か
		ら翌年3月に、犬山城(愛知県)、彦根城(滋賀県)などを参考にして築かれた。博覧会終了後、昭和29年11月富山市立郷土博
		物館として開館し今に至っているが、最近立て替え論議も起きていると言う。



		
		<富山城(博物館パンフレットより)>
		
		富山平野のほぼ中央にある富山市はもと藤井村と呼ばれた寂しい小さな村でした。天文12年(1543)頃神保氏の家臣と考えられる豪族
		の水越勝重が始めて城を築いたと言われています。その後,神保氏3代がここの城に住んでいましたが,越後(今の新潟県)の上杉氏と
		しばしば戦いを行いました。天正9年(1581)織田信長は,家臣である佐々成政を越中の守護にしました。成政は,神通川の氾濫によっ
		て,主流が富山城の後ろを流れるようになっていたので,これを城の守りとし,城の東側の「イタチ川」から水を引き,堀を整備し櫓
		を設けるなど富山城を改修しました。このため,富山城は浮城とも安住城とも呼ばれました。天正10年織田信長が本能寺の変で亡く
		なり,その後成政は上杉氏を追い払い越中全体を平定しました。 

 

		
		しかし,天下は次第に豊臣秀吉の方に移っていきました。信長の子信雄と秀吉との仲が急に悪くなり,天正12年小牧,長久手の戦い
		が起こりました。このとき成政は,これ幸いと信雄,徳川家康側に味方したのです。成政はどうしても秀吉を倒したいと考え,雪の
		立山のざら峠を越え,浜松城(静岡県)の家康を訪ね秀吉を攻めるように頼みました。しかし,家康は動かなかったので,寂しく富山
		へ帰ってきたと言われています。天正13年,豊臣秀吉は大軍を率いて成政を打つため富山に向かいました。秀吉の大軍の前にはどう
		することもできぬ成政は,ついに秀吉に降伏しました。秀吉は,新川郡だけを成政に与え,そのほかは前田利長に与えました。その
		後,天正15年成政は秀吉によって肥後(熊本県)に移されて,越中は,加賀前田家の所領となりました。慶長2年(1597)加賀藩2代前田
		利長は富山城に入りましたが,父利家の死後金沢城へ帰りましたので,富山城は城代がおかれました。その後,同10年利長は,隠居
		して再び富山城に入り,城を修築しました。 

 

		
		しかし,同14年城下の火事によって,城は全焼したので,高岡に城を築いて移りました。そのため,富山城は,城番だけが守るだけ
		で30年間放置されたままになっていました。加賀藩3代前田利常の次男前田利次は,寛永16年(1639)分家して富山10万石の初代藩主と
		なリ,翌17年富山城に入りました。それ以来,富山城は,13代232年間,明治になるまで続いたのです。

 



		
		富山城の起源は中世に神保氏が築いた(天文12年(1543)、安住郷の地に神保長職が安住城を築いた。)とされるが、諸説ありはっ
		きりした確証は無いようである。富山城築城に関して、水野勝重が築城し、神保長職が改築したと言う説や、水野勝重と神保長職は
		同一人物と言う説もある。神通川の河口にあり、周囲を川で取り囲んでいたので「浮城」ともよばれていた。神保氏は古くからの越
		中豪族で、鎌倉時代に畠山氏に仕え、室町時代には越中守護代に任ぜられた。戦国時代になると越中は近隣の大勢力に挟まれた抗争
		の地となる。越後の上杉謙信、木曽・飛騨を経由してきた武田信玄、加賀の一向一揆勢力、そして近畿から勢力を拡大した織田信長、
		それに在地の神保氏・椎名氏といった土豪が加わり入り乱れる。



		
		
		
		一時、加賀・越中を中心とする一向一揆が安住城を占拠することとなるが、その後上杉謙信は一向一揆宗と戦い天正元年(1573)に
		和睦を結ぶ。しかし最終的には上杉謙信はこれを討ち、富山城は上杉謙信の手に落ちたが、翌年、謙信は脳溢血によってこの世を去
		る。その際、守山城に織田家臣として使えていた神保長住が富山城に進出する。その後、織田信長の配下佐々成政(さっさなりまさ)
		が、天正10年(1582)54万石を所領とし富山城へ入部、富山城の大改修を行った。堀を深くし城塁を高くするなど改修を加え、戦
		闘機能の向上に努めたようである。やがて本能寺の変を経て、越前柴田勝家が賤ヶ岳の合戦で敗死すると、成政は豊臣秀吉軍の加賀
		前田利家に攻められ富山城で孤立する。天正13年(1585)、前田利家によって富山城は落城、佐々成政は秀吉の大軍の前に降伏し、
		肥後熊本へ転封となる。その後肥後領内で起こった一揆の責をとらされ、成政は切腹を命じられた。 
		天正15年(1587)からは加賀前田氏の支配下となり、寛永16年(1639)に前田氏の支藩として富山藩が創設された。万治4年(1661)
		の改修工事で近世富山城が完成している。
 

		
		富山城で昔のままに残っているのは、本丸跡、石垣、堀の一部だけである。前田利次によって、寛文元年(1661)から本丸・二の丸・
		三の丸、東・西出丸の整備と、御殿・櫓・門・石垣などの本格的な改築が行なわれたが、殆どは火災によって焼失した。
		石垣は、時代区分が定かではないが、現存しているものは打込ハギである。天守閣南側の枡形門には、大阪城あたりに比べれば小ぶ
		りであるが、結構大型の石も使われている。
		かつては、新発田城の天守と同様に3個の鯱が乗せられていた五層の天守、櫓3基、櫓門3ヶ所が建てられたという。また、石垣の
		上には本家金沢城と同様、唐破風付出格子がついた海鼠塀がめぐっていた。

		大手門側の濠からみた天守閣(上)と大手門(下)。池にはどでかい鯉が何匹も泳いでいた。 



 



 

		
		<富山市郷土博物館>
		復元された富山城の内部は、富山藩時代の遺物などを展示する富山市郷土博物館となっている。訪れたときは「地図に見る富山」展
		が開催されていた。写真撮影禁止だったので写真はないが、古地図や古文書・古写真が並べられていた。常設展のエリアには富山城
		の復元模型も置いてあって、写真に納めたかったが珍しく遠慮した。城址公園は桜の名所としても知られ、花見シーズンには多くの
		人々でにぎわうそうだが、紅葉もなかなかのものである。

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		◇交通機関 ・JR富山駅から徒歩約5分
			  ・富山空港より車で15分
			  ・北陸自動車道富山インターより車で10分  
		◇観覧時間 午前9時〜午後5時(ただし、入館は午後4時30分まで)  
		◇休館日 毎週月曜日(祝日の場合翌日)、休日の翌日(日曜日又は土曜日の場合は除く)、
			 展示替え期間中、年末年始(12月28日〜1月4日)  
		◇観覧料 大人:210円、小人:110円  
		◇問い合わせ 富山市郷土博物館 富山市本丸1-62 TEL/FAX(076)432-7911  
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		郷土博物館の入り口となっている西側 
  
 

なんだかエイリアンのように見える鯱(シャチホコ)の復元品(上右)。と博物館にあった、初代藩主の入城の様子(下)。





 

最初、金網越しに天守からの写真を写していたが(上左)、レンズを金網の中に入れればいいんだと気が付いた。素晴らしい紅葉だった。

 








		
		現在の城址は公園として整備され、堀や石垣が残っている。本丸門跡の石垣に復元天守が建てられているが、前述したようにその外
		観は、実は佐々成政の居城を復元したものでも、富山藩時代の城を再現したものでもない。文献には、富山城に平屋の本丸御殿と2
		階建てのやぐら門があったとの記述はあるそうだが、天守閣を築いたとはないようだ。外観の慶長様式も同時代の築城と思われる幾
		つかの城を参考にして建設されたものである。上の写真の右上方は雪をいただいた北アルプスの山々。濠の前に建っている(左上)
		建物が全日空富山ホテル。
		


 
		
		地震に対する耐久性や、史実に反する現在の姿をそのまま再建しておくことに否定的な声もあるようだが、市は、城址公園も含めた
		再整備を検討する「富山城址公園基本計画策定委員会」で、天守閣を持った現在の姿を残す方針を表明した。

  大伴家持は富山にも赴任していたんだ。昔の役人も大変だ。手を振りかざして「都へ帰りたい」と泣いてるのではなかろうか。

 

 


前田利次以来、13代にわたった江戸時代の富山藩主たち
歴代 名前 官位 官職 出自 石高 家格 区分 詰間 備考
初代 前田(富山)利次(としつぐ) 従四位下 淡路守 前田利常の二男 100000 城主 外様 柳間  
2代 前田(富山)正甫(まさとし) 従四位下 大蔵少輔 前田利次の二男 100000 城主 外様 柳間  
3代 前田(富山)利興(としおき) 従四位下 長門守 前田正甫の二男 100000 城主 外様 柳間  
4代 前田(富山)利隆(としたか) 従四位下 出雲守 前田正甫の五男 100000 城主 外様 柳間  
5代 前田(富山)利幸(としゆき) 従四位下 出雲守 前田利隆の長男 100000 城主 外様 柳間  
6代 前田(富山)利與(としとも) 従四位下 淡路守 前田正隆の四男 100000 城主 外様 柳間  
7代 前田(富山)利久(としひさ) 従四位下 長門守 前田利幸の長男 100000 城主 外様 柳間  
8代 前田(富山)利謙(としのり) 従四位下 出雲守 前田利與の長男 100000 城主 外様 柳間  
9代 前田(富山)利幹(としつよ) 従五位下 出雲守 前田利道の八男 100000 城主 外様 柳間  
10代 前田(富山)利保(としやす) 従四位下 出雲守 前田利謙の二男 100000 城主 外様 柳間  
11代 前田(富山)利友(としとも) 従四位下 出雲守 前田利保の六男 100000 城主 外様 柳間  
12代 前田(富山)利聲(としかた) 従四位下 大蔵少輔 前田利保の七男 100000 城主 外様 柳間  
13代 前田(富山)利同(としあつ) 従四位下 淡路守 前田斉泰の九男 100000 城主 外様 柳間  
		
		加賀金沢藩主の前田利常が次男の利次に分封して富山藩が成立した当初は、越中婦負郡6万石、新川郡で1万6千石、加賀能美郡で
		2万石の9万6千石だった。当初は利次は、婦負郡の百塚に築城しようとしたらしいが、膨大な費用試算となり断念、加賀金沢藩領
		内にあった富山城を借り受けた。
		その後金沢藩と領地交換をして10万石となる。それで、城が自藩領内にないという異常な状態は解消された。二代目藩主前田正甫
		は、自身が病弱だったこともあり、薬に興味を持ち、自分でも調合したり、内外の薬の製法を領内に広めさせ、これが後に全国的に
		も有名な「富山の薬売り」のもとになった。

 




宇奈月温泉 黒部川峡谷鉄道




		宇奈月町は富山県の東端に位置し、平坦部は水稲中心の農業地帯で、山岳地帯の大部分は千古のなぞを秘めた黒部奥山国有林を有し
		ている。日本有数の激流と峡谷美を誇る黒部川は、また有数の電力資源をも有し、四季折々の美しい自然をもつ観光の町でもある。
		しかしその歴史を顧みれば、大正年間に電源開発の端緒がつけられるまでは、深山幽谷そのままの、まさに秘境の地でもあった。
		今でこそ、峡谷探勝の表玄関としての宇奈月温泉には年間数十万人が訪れて、その大半が宇奈月温泉から上流の黒部川渓谷の神秘的
		な美を楽しんでいるが、この温泉もそもそもは、発電所建設に集まった作業員たちが遙か上流の黒薙温泉から源泉を引いてこの地に
		つくった作業場の大風呂が発祥である。

		黒部峡谷は、今では宇奈月から欅平まで片道九十分の黒部峡谷鉄道(トロッコ電車)を利用し、のんびりと景色を探勝することがで
		きるが、その先は断崖絶壁の岩肌が立ち並ぶ急峻な峡谷となっている。その岩肌を刻んで登山道が造ってあるが、片側は断崖であり、
		落ちたら黒部川の藻屑である。ここから阿曽原までの登山道を無事渡りおおせれば、立山・剣岳という北アルプスの峻峰だ。昔、約
		25年ほど前に、ここを通って剣岳に登った事がある。阿曽原温泉の露天風呂は地面に穴を開けただけの、まさに露天風呂だった。

		宇奈月温泉は、黒部川が長い年月をかて造り出した河岸段丘に、黒部川電源開発によって開かれた山峡の出湯(いでゆ)である。
		黒部川は、後立山連峰と立山連峰の、霊峰の雪解け水を集め深く急峻な峡谷を刻み、下流域では美しい肥沃な扇状地を形成し、深い
		海底谷のある富山湾に一挙に注いでいる。

 


		JR富山駅から富山地方鉄道特急で約1時間で宇奈月温泉に着く。駅のすぐ裏が黒部峡谷鉄道(株)の宇奈月駅である。黒部峡谷への
		旅はこの駅から出発である。全長20.1Kmの大小42のトンネルをくぐり23の橋を渡るスリリングなトロッコの旅はここから始ま
		る。

 

		平成14年9月18日の、鐘釣橋付近での崩落で鉄道設備が被害を受け、今シーズン(11月30日まで)は一部区間に限っての運転に
		なっている。本来は1時間半をかけて宇奈月−欅平間20kmを結んでいるのだが、今年は約半分の宇奈月〜出平間に限って運行され
		ている。片道約40分のトロッコの旅である。
		宇奈月温泉に泊まる多くの観光客が、黒部峡谷鉄道のトロッコ電車に乗りに来る。トンネルが大小41ヵ所、橋が28ヵ所もある。 
		沿線には豪快で美しい黒部峡谷の彫りの深い景勝や黒薙、鐘釣、名剣の秘湯、錦繍関の絶景があるが、トロッコ電車に乗るだけでも
		十分楽しい。シーズンは新緑鮮やかな5月1日から、紅葉が終わる11月30日まで、1日9〜19往復している。



		<新柳川原発電所>
		ヨーロッパ中世の古城をイメージしたユニークな新柳川原発電所。トロッコはこの発電所のすぐ横を通って行く。ほんとに王子様と
		お姫様がでてきそうな雰囲気だ。


		<新山彦鉄橋>
		宇奈月温泉街に架かる真紅の美しい鉄橋。これから黒部川の清流を眼下に眺めながら、峡谷美の旅が始まる。



 

		<後曳橋>
		黒部川支の、黒薙川にかかる代表的な鉄橋。トンネルからトンネルへかかる橋を渡るスリリングな景観が楽しめる。峡谷鉄道の旅の
		クライマックスともいえる地点である。



 

		トロッコ電車から見る黒部峡谷は、横殴りの雪が舞う素晴らしい光景だった。欅平まで行けないのは残念だったが、それでも片道40
		分の旅。コトコト揺られて実に楽しかった。



 

		今年はいきなり冬が来たと駅の売店のおばさんもこぼしていた。それでも土日は結構な観光客が来るそうだ。現にinternetで宿を予約
		したのだが、何処も殆ど満室だった。たまたま「今、和室が空きました。」というホテルが取れてLUCKY!だった。下はホテルではなく、
		黒部川電気記念館である。

		<黒部川電気記念館>
		電源開発の歴史や黒部峡谷の自然の姿などを、ジオラマやVTRで紹介する施設で、リモコンカメラを操作して黒部湖付近の映像を
		見ることもできる。入館無料。12月から4月19日までは閉館している。

		黒部峡谷は北アルプスの立山連峰と、白馬岳・鹿島槍ケ岳を連ねる後立山連峰との間の深い大峡谷で、昭和9年に中部山岳国立公園
		に指定されている。この峡谷を流れているのが黒部川で、富山湾に長さ86kmの長さで注いでいる。
		最初宇奈月から上流は、わずかに歩道があっただけで峡谷には岸壁が迫っており、到底工事を進めることができない状況だった。
		大正12年(1923)9月に宇奈月、猫又間の軌道敷設工事に着手し、大正15年(1926)にようやく開通。そして同時に大正13年(1924)
		6月に発電所建設工事に着手、洪水や雪崩に見舞われながらも、10年後の昭和2年(1927)11月に柳河原発電所が運転を開始した。
		そしてさらに発電所建設と軌道延長工事はともに進められ、軌道も昭和12年(1937)7月に欅平まで開通した。さらに電源開発のた
		めに軌道を延長しようとしたが、欅平からは川床がさらに急勾配になっており、両岸に絶壁が迫っているため、軌道の延長を断念し
		て山中をエレベーターでつなぎ、さらに世紀の大工事といわれた「くろよん」へと続いている。電源開発工事とともに歩いてきた黒
		部峡谷鉄道は、最初は電力会社の専用鉄道として作業のために運行されていたため、最初は普通に旅客として乗るお客に「生命の保
		証はしません」、と切符の裏に書き、これを了解のうえで乗車していたそうである。その現物も、この記念館に保存されている。
		【記念館内案内パンフレットより】

  

泊まった旅館の露天風呂と部屋。下写真左の方に見えている吊り橋に、猿が乗っていた。


宿泊した部屋の窓から見た光景。宇奈月への道路、富山地方鉄道は川の向こうを通っている。






		富山駅で「利家弁当」と「おまつ弁当」を売っていた。二段重ねで見本を見たらメチャおいしそうだったので、富山の鱒寿司とどっ
		ちにするか迷ったが、結局こちらを買って帰りのサンダーバードの中で食べた。見本通りおいしかった。






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