Music: god father

丹波篠山城
2003.4.27(日曜)





大書院での案内パンフレットより転載。





		
		【篠山城跡】
		
		江戸幕府を開いた徳川家康は、慶長13年(1608)に実子「松平康重」を常陸国の笠間城から丹波八上城に移し、西国諸大名に対
		する抑えの拠点として、京都から山陰、山陽そして大阪へ通ずる要衝の地であり、江戸幕府最西端の拠点として丹波笹山に新城
		の築城を命じた。関ヶ原の合戦に大勝したとは言え、大阪に残存する豊臣氏一党やその息の掛かった西国の諸大名に対して、家
		康はまだまだ安心できなかったのである。



 





 



		
		当時この地は八上領で、八上城(やかみじょう)に居住する外様大名前田氏がいたが、家康はこれに改易を命じ、庶子松平康重
		を八上領に入部させた。しかし八上城は中世の城で攻守に適せず、新たに新城を造ったのである。八上城の西方に広がる盆地内
		の笹山の小山に、普請総奉行に池田輝政(姫路城主)、縄張りに藤堂高虎(津城主)を配し、近畿、中国、四国の15カ国20藩の大
		名の夫役による天下普請として築城が開始され、翌年の慶長14年に、笹山に新しい平山城が完成した。これが篠山城である。

 

 

 



 

 

		
		別名「桐ガ城」とも呼ばれた篠山城は、着工以来二百余日という突貫工事で完成し、以後松平三家8代、青山家6代の居城とし
		て栄えた。方形約400mと小規模ではあったが、要所には二重の桝型や二重、三重の石垣を巡らせた堅固なもので、城全体の
		構えの広壮さといい、堀といい石垣といい、禄高5万石(後に6万石)の小藩の城としてはいささか分が過ぎると言われ、「さ
		すがは内府様(家康)のお声がかり、天下普請の城じゃわい」とささやかれた。明治維新後に城の建物は全て取り壊されたが、
		城郭・堅固な石垣はすべて昔のままの姿をとどめており、満々と水をたたえた外壕は、現在篠山市民の桜の名所として知られて
		いる。 戦前までは豪奢な大書院と庭園が残っていたが、昭和19年(1944)の火災の為焼失し、近年(平成12年)大書院が復
		元された。

 

 

井戸を背にして、 数少ない建物遺構である長屋門背後に、ひときわ高く聳える松の木を眺める馬野さん。



二の丸跡(上)。右側まっすぐに伸びているのが、北大手廊下門跡。左手には復元された大書院が見える。

 

上右、下は、復元された大書院。本丸側から見た大書院の裏側である。





歴代・篠山藩主

			1 松平康重 常陸国笠間城より八上城へ 城下町建設 大阪の役で土民一揆を鎮圧、元和7年岸和田城へ 
			4 松平康信 高槻城より 大検地(新検地)を行なう 藩政全般に大改革、立杭窯座・郷代官製を廃し家臣を当てる
			7 松平信庸 酒造出稼ぎ禁止令
			9 青山忠朝 亀岡城より 米価高騰 百姓一揆起こる
			12 青山忠裕 地所奉公人厳禁、市原の清兵ヱ直訴 城下町東部大火 一万石加増される 
			13 青山忠良 大塩の乱に出兵 多紀郡明細記出る 城下大火 天保七年大飢饉 万延百姓一揆起こる 
			14 青山忠敏 元治の変に京へ出兵、堺門を守る 助郷免除願いを出す 藩籍奉還 全藩世直し一揆 

大書院での案内パンフレットより転載。





 



 

「長のつぼね、やて。」「ここにお局たちがおったんかいな。」「橋本さんの出番でっせ。」「アホかいな!」

 









 

 

 

 

<本丸南東角の天守台> どこの平山城もみんなそうだが、ここにも天守閣はない。





<天守台からの風景> 右方に見えているのが、八上城跡の八上山(丹波富士)

		
		【八上城(やかみじょう)】篠山城築城以前の城
		篠山城址の東南方約3kmに「丹波富士」とも呼ばれる高城山(たかしろやま)が見える。戦国時代、丹波(京都府、兵庫県)の中
		心的地位を占めていたのは、この高城山に築かれた八上城であった。元来丹波の国は、足利将軍の支族細川氏の領国だったが、
		16世紀になるとその被官、波多野稙通(はだのたねみち)が急速に台頭し、ほぼ丹波一円を支配するようになった。八上城は
		その稙通が本城として永正12年(1515)に営んだ典型的な中世の山城で、西の毛利氏と手を結んで勢力を強化していった。
		波多野稙通より3代後の秀治の代になって勢いは最も振るい、領国内の支城は40余を数えた。信長より丹波平定を命じられた
		明智光秀はなかなか八上城を抜くことが出来ず、光秀の母を人質に差し出し講和会議を開いて活路を見出そうとした。ところが
		信長は安土に出てきた波多野秀治・秀尚兄弟を、講和会議もなんのその、乱暴にも殺してしまう。そのため、光秀の母も、怒っ
		た波多野氏の家臣により、磔と言う極刑に処せられてしまったという話である。このことが本能寺の変の原因の一つとも言われ
		る。
		波多野氏の本城、八上城は標高459mの高城山の上に築かれた山城で、山頂に本丸を、山麓に政庁と居館を設け、城下町もひ
		らけていた。波多野秀治の時代には地方豪族というより、むしろ立派な戦国大名だった。ともあれ、当主秀治兄弟を謀殺された
		波多野氏はその勢力にかげりが差し、天正7年(1579年)押し寄せる光秀軍と攻防の末、ついに八上城は落城する。その後、八
		上城主は明智光秀をはじめとしてめまぐるしく入れ替わり、関ヶ原の合戦後は前田玄以の子茂勝が5万石で封じられたが、しか
		し茂勝は慶長13年(1608)、発狂を理由に改易され、変わって家康の妾腹の子、松平康重が新城主として入城した。今、その
		八上城址は土に埋もれて、丹波最大の古戦場として歴史にその名を残している。(大書院の解説パンフから抜粋。)

 

上左が、天守台から見た青山神社。左は北東側のお堀で、側に学校が見える。

 

 

天守台を降りて、城の石垣沿いにぐるっと濠を廻る。そこかしこの石垣に符号を刻んだ石が見える。

 
		
		【天下普請の証・石垣の符号】
		石垣の各所で目に付く刻印は、家康の命により篠山城築城に参加した諸大名が、石材を積み上げる作業間に起こりうるトラブル
		を避けるため、それぞれの符牒、紋を石に刻み、その所有を明確にしたもの。各所に混在する約150種の刻印からは各大名が
		細かい丁場割(工事分担地)の間で競争心にあおられて工事を急いだ様子が窺える。大きな城の築城に当たってはよく見受けら
		れる制度だが、ここの刻印は、大阪城、名古屋城に次ぐ種類と数の多さで、普請の大規模さを物語っている。





城の南側を出ると濠があり、小さな橋を渡ったところに馬出(うまだし)がある。

 

 

写真が傾いているのではなく、説明板が傾いているのだ。



		
		篠山城には馬出が北(大手)、東、南の三ヶ所にあって、北を除いて残存している。城門から外堀を渡るのは、普通の道路の感
		じだが、堀の水位を調節する役目とともに、敵に破壊されないようにと基礎から積み上げた「土橋」なのである。その前方に設
		けられ、堀に囲まれた石垣や土塁の上に塀をめぐらした比較的小さな区画(曲輪)が馬出であり、この城は三つとも角馬出であ
		った。馬出は城門のさらに外を守る施設で、場内への出入りを複雑にするため、必ずこの入り口で確認を受けてから、土橋を経
		て城門に向かう仕組みになっているわけで、最初と最後のチェックポイントなのである。戦いが始まると、武将が敵状偵察をし
		たり、兵馬をここに集合させて、出撃する拠点にするのである。
		篠山城跡から南へ約3分歩いたところに南の馬出があり、一番規模が大きく、搦手(裏門)の防衛を重視したと思われる。幅約
		40メートルの堀に囲まれ、高さ約4メートルの土塁が残存し、水面下まで石垣を用いずに築かれた「土塁の馬出」であって、
		わが国で現存する唯一の貴重な遺構である。「丹波篠山五十三次ガイド」より

 


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