この流域は2度歩いた。歴史という観点から言うと、今まで見て頂いたような角倉了以の活躍、幕末期の動乱のような華々しい ものは一つもない。それどころか、気が重くなり、歩いていて暗鬱とした気持ちになってくる。当初、この部分はHPには掲載 しないつもりだった。しかし「高瀬川物語」と銘打ったからには、高瀬川の源からその終焉まで伝えるのが本筋だろうと思い直 して掲載する事にした。感想は読者諸氏それぞれが整理して欲しい。しかし肝に銘じて欲しいのは、これも又「高瀬川」の現実 だという事である。国際都市「京都」、歴史と文化の街「京都」、ロマンと憧れの古都「京都」、そういった華々しい着飾った 京都が持つ、言わば暗部がここにはあるのだ。
五条から七条の高瀬川沿いには結構花が多い。地域の人々が植えているのだろうが、なにもない川筋に鮮やかな色が浮かんでい るのを見ると心が和む。花にはさほど興味がない私でも、何かしら華やかな気分になれる。
鴨川の一条付近は、昔は貴族の産湯の儀や禊ぎの場として使われた。高瀬川が出来た後、近世・幕末には三条から四条にかけて の高瀬川・鴨川周辺は暗殺、斬首などの血なまぐさい抗争の舞台となり、鴨の河原は死体遺棄の場とも化した。そして六条・七 条まで下った湿地帯では、毎年のように鴨川は氾濫し、多くの死傷者を出した。この付近の河原には、江戸時代初期の頃から貧 しい人たちが集まり集落を作って住んでいた事が、今村家蔵「水論論所高瀬川絵図(明暦2)」などにより確認されている。
現京都市の七条から南に同和地区がある。高瀬川はここを貫いている。日本で最初に人権宣言を行った「水平社」が創設された 地としても有名で、行政・金融機関・その他とは今も係争中の問題が幾つもある。京都駅前の総面積8万坪にも及ぶ広大なこの 地域は、戦後から今日まで、まるで忘れられた地域のように、日本の繁栄から取り残されているように思える。過去幾度か「京 都駅前再開発計画」が発表されたが、その後どうなったのか、端から見ると目に見える進捗はないように思える。
前述したように、高瀬川はいくつもの水量調節機能や泥水排除機構などを設けた、高度に管理された運河だった。しかし明治以 降の、度重なる流路変更や川幅の減少などにより、また、内浜の埋め立てなども重なり、運河としての役目を終えた後は管理水 路としての機能は低下していった。ここに未曾有の集中豪雨が悲劇を引き起こすこととなった。特に東七条の被害は甚大で、そ の被災者救済の不公平をめぐって水平社東七条支部は「不公平分配反対同盟」を結成し水害闘争を展開した。
上の絵は、現在着工されている高瀬川付替工事の完成図である。度重なる流路変更によって曲がりくねった高瀬川を南北に直行 させる事を目的に工事が進行中である。これにより河原町通拡幅工事が進み、高瀬川が、さまざまな人が行き交う川岸のプロム ナードとして、また人々が集う親水公園として蘇ることが期待されている。
ここを歩いていると、密集した住宅の中に、数m程の金網フェンスで囲まれた小さな空き地が点在しているのに出くわす。京都 市が買収したものの、利用できないまま長期間放置されている場所だ。
九条通にかかる橋の上から見た高瀬川(下右)。この後、空き地が目立つ同和地区の中を流れて地下に潜る。
下右が、高瀬川が鴨川へ注ぎ込む暗渠の出口である。どこからか地下へ潜った高瀬川は、ここでその流れを鴨川へ戻す。 鴨川を挟んで向こう岸には、昨年(2001年)まで任天堂の本社があった。
明治初期の京都駅は現在よりも北にあった。明治13年に完成した京都と大津を結ぶ鉄道も今よりも北を通っており、現在の 高倉通高架の東側辺りを通っていた高瀬川は、この鉄道を避けるために、現在の下之町西部付近で東へふくらむような流路の 変更がなされた。 これは鉄道と交差する部分をできるだけ東にすることで、線路の下を高瀬船がくぐり抜けることができるようにするためだっ た。明治3年(1870)から旅客用としても使われ出した高瀬舟は、毎日四条小橋・七条小橋と伏見の間を運行し、また淀川蒸 気船と連絡することで京都〜大阪も結んでいた。しかし明治28年に開業した路面電車はやがて伏見へ延長し、淀川汽船との 間に連絡切符を発行するなど、高瀬川水上交通の強力なライバルとなった。明治43年(1910)にはもうひとつの電車、京阪 電鉄が五条〜天満橋間に開通し、ここに至って、京阪間を結ぶ高瀬舟の水上旅客運送は役割を終えることになった。 やがて、旅客量・貨物量の急増した京都駅は手狭となり、新しい京都駅の建設が計画された。京都駅は現在の場所へ移築され、 それに伴い東海道線も南へ新たに敷設し直され、高瀬川は再び流れをかえることになったのである。 高瀬川は、狭い川幅を有効に使うため、午前は京都へ運び入れる上り便、午後は京都から運び出す下り便と、一方通行制をと っていた。上りの際、船につけられた綱を「曳き子」数人が「船頭道」と呼ばれる川沿いの道を「ホ〜イ、ホイ」という掛け 声をかけながら上っていく風景は、江戸・明治時代の名所図絵などにも描かれる京都名物の一つだった。 近世には巨大な消費都市京都を支えるため、船の輸送も移出よりも移入の方が多かったが、明治以降、移出が移入を上回るよ うになり、輸送量自体の減少もあいまって舟曳きの光景も次第に見られなくなっていった。大正9年6月に、高瀬川舟運はそ の長い歴史の幕を閉じ、運河としての役割を終えることとなった。角倉了以が開削してから306年後である。
角倉了以が開削した元々の高瀬川は、今の中書島あたりの伏見港までだった。鴨川を横切った高瀬川は、東高瀬川となって伏 見まで伸びていたのだ。江戸時代には濠川と合流し、寺田屋浜や三栖浜などの水路を経て淀川(宇治川)につながっていた。 坂本龍馬が刺客に襲われた寺田屋は今も伏見に残っているが、ちょうどこの旅籠の前あたりで高瀬舟・三十石船の相互間の荷 物積み替えや乗客の乗り継ぎが行われていたのだ。
旧高瀬川に、角倉了以にちなんで命名された「角倉橋」が架けられている。江戸時代の伏見港は水路沿いに問屋や宿屋が建ち 並び、三十石舟が出入りして大変な賑わいを見ていた。その後明治にはいり巨椋池と港の水路が切り離された。大正6年の大 洪水により三川合流点付近の改修が行われ、伏見港が堤内に引き入れられるとともに宇治川の派流が本川から分離された。同 じ頃市内では新高瀬川が開削され、さらに、昭和22年(1947)には水運機能の向上をめざして舟溜まりが竣工したが、昭和 30年代にはいると、交通運送の主力は河から陸に移り、やがて泊地の埋立などが行われ、次第に現在の姿に変わって行った。 京阪電車中書島駅で下車して辺りを散策すると昔の名残を見ることが出来る。現在の高瀬川は疎水放水路と合流したあと、昭 和5年に開削された新高瀬川として淀川(宇治川)に流れ込んでいる。 一応これを持って「高瀬川物語」は終結する。伏見近辺は何度か歩いたが、「高瀬川」に主眼を置いて歩いていなかったので、 今となってはどこに何があったかほとんど記憶は定かでない。いずれ「高瀬川物語/続編」として追加したいとは思うが、と りあえずこれを持って終結宣言である。鈴木健二アナウンサーではないが、「本日も御覧頂いてありがとうございました。」