Music: 京都の恋(Ventuers)

高瀬川物語

取水口から一之船入へ 2002.4.20/21 Shiny Saturday & Rainy Sunday


	鴨川は、京阪出町柳駅付近で高野川と加茂川が合流して1本の鴨川となる。真ん中に見えている森は「糺(ただす)の森」で、
	その奥に下鴨神社がある。

 
		
	私事になるが、私は今大阪に住んでいる。福岡県の地方都市に生まれ、大学時代を博多で過ごして大阪に就職した。卒業前に
	内定していた新聞社が、73年のオイルショックで編集局内定者15名をすべて内定取り消しにした時、私はどうにも我慢な
	らなくてその新聞社に怒鳴り込んだ。応対した総務課長はさんざん企業の身勝手を詫びた後、「あなたのような積極的な方な
	らきっとすぐ(就職が)見つかりますよ。」とのたもうた。就職試験解禁が7月1日、内定が8月中旬、オイルショックが
	11月下旬だった。私は焦った。もうろくな会社は残っていないだろうと思うと腹が立ったが、まさか留年するわけにも、就
	職浪人する訳にもいかない。何とか探して働き口を見つけなければならない。
	その新聞社には実は、誕生日が1週間違いで、東京の大学で社会学をやっていた私の従兄弟も内定していた。二人で偉い事に
	なったなぁ、とボヤきながら、片っ端から面接を受けて2,3の会社に合格した。もうマスコミ志望などと言っている余裕は
	私にも従兄弟にもなかったのだ。小さな静岡のお茶の問屋(今や超有名な飲料水メーカーになった。)、神戸の小さなレコー
	ド会社(ここはその後潰れたようだ。)、そして有名なCOPYマシンの会社(ここはどうして受かったのか未だにわからないが、
	誰もが行きたがる有名な日米合資の、当時では超優良会社だった。)から採用通知が来た。しかし私は、心のどこかで、違う、
	違うと思っていた。

 
	
	私の父は、当時大阪松屋町(まっちゃまち)の結構大きな玩具問屋の九州支店長をしていた。志望していたマスコミへの望み
	を絶たれて、もうどんな業種でも良いという私の言葉に、「俺の会社に来るか」というので、年が明けた2月、父と大阪の問
	屋を訪ねた。社長の息子というのがこれまた私と同じ年で、もうじき大学を卒業してやがてはその会社を継ぐというので、
	「君にはXXX の右腕になってもらいたい」とその時社長から言われたが、1日、会社の中や倉庫やら経営するゴルフ場やらを
	案内して貰いながら、父には悪いが「だれがこんなとこ」と思っていた。社長には曖昧な返答をしたまま父は博多へ帰り、私
	は京都ホテルで働く大学の先輩を訪ねていった。ワンダーフォーゲル部の先輩で美人だった。先輩は勤務を休んで私を京都見
	物に連れだした。その時案内して貰った嵯峨野で、横なぐりの雪を受けてしきりに髪をたくし上げている彼女の姿を見て、私
	は「ここで働こう」と決めた。


	
	結局、仕事は横浜のコンピュータ・ソフト会社に決めて、大阪営業所を希望した。3ケ月の研修を終えて大阪に赴任し、あの
	時、博多行きの寝台列車の客室まで来て「京都から博多までやね。」と見送ってくれた先輩を訪ねたが、彼女は既に京都ホテ
	ルを辞めていた。横浜の会社は5年で辞めて、今の会社でもう23年目になる。顧客も京都に何社かあり、私的にも公的にも、
	京都を訪ねる機会は多い。詩的で美的な部分ばかりでなく、京都の暗部や恥部も知ったし、京都人の良い面、嫌な面も見てき
	た。しかしこの街は、千年の歴史をかかえて今も私を誘う。私の内定を取り消した新聞社も、松屋町の玩具製造問屋も今はな
	い。いずれもこの23年の内に倒産した。
	新聞社には高校時代の友人が私より1年早く就職して編集局にいたが、内定取り消しの時には大いに同情してくれた。しかし、
	その新聞社が倒産したときには、私は彼にかける言葉が見つからなかった。雪の中私を案内してくれた美人の先輩は、その後、
	同じくワンダーフォーゲル部の先輩(彼女の同期生)と結婚し、今福岡市で夫婦でコンビニを経営している。高校生時代、佐
	世保に「エンタ−プライズ寄港反対」デモに行ったり、刑事が家まで尾行してくる程の活動家だった従兄弟は、その後紆余曲
	折を経て、今や東京都の練馬区議で、都自民党の中堅である。結婚式にはガッツ石松が祝辞を述べていた。人生とは全くわか
	らないものだとつくづく思う。

	そういう経緯があって、私は今でも京都の町が大好きである。もともと高校生の頃から京都への憧れはあったのだが、あの時
	の嵯峨野の光景は、30年後の今でも脳裏に焼き付いている。
 
	
	上下5枚の写真は、鴨川から取水された「みそそぎ川」が暗渠を通って地面に出現する地点。ここから少し南の二条大橋下で
	分水され、中心市街地である木屋町通り沿いを南へと流れてゆく。この運河の完成によって、近世京都の産業や商業の発展が
	もたらされたが、波及して、川沿いに「花街・色町」も誕生し、現在の木屋町、先斗町の賑わいへと繋がっていくのである。

 

	
	高瀬川は、京都の豪商角倉了以(すみのくらりょうい)とその息子素庵(そあん)によって開削された運河で、森鴎外の歴史小
	説「高瀬舟」でも有名である。鴨川の水を二条大橋の付近、中京区樋之口町で分水し、伏見の京橋で宇治川に合流していた。
	当時は、川幅約8mで、二条・伏見間11.1kmを結んでいたが、現在は、木屋町通り沿いを南へ流れ、十条通り付近(京
	阪電車鳥羽街道駅付近)で再び鴨川に放流される河道延長4.48kmの淀川水系・普通河川である。高瀬川の開削が着工さ
	れたのは慶長16年(1611)だが、元々の開削の理由は、方広寺大仏殿再建のための資材を舟で運搬するためだったと言われ
	る。3年後の慶長19年(1614)に完成し、総工費は7万5千両(現在の150億円余)でそのすべてが角倉了以の自費であった
	という。完成後は、往来する船から船賃を徴収した。
	底の平たい、船先がとがった箱のような高瀬(浅瀬)舟を使ったことから、この運河は「高瀬川」と呼ばれ、江戸時代全般に
	渡って、京都と大阪の貨物輸送に大きな役割りを果たしてきた。伏見からは三十国船で淀川を通じて、当時の経済の中心地・
	大阪と物資の運搬が行われた。高瀬川の名前はこの舟から名付けられたのである。鴨川は勾配が大きく、水量が少ないため水
	運には適さなかったのだ。完成した慶長19年には、大阪冬の陣の原因といわれる方広寺鐘銘事件(「国家安康君臣豊楽」の
	文字を家康が咎めた。)が起こっている。
		

 


	高瀬舟は、長さ約13m、幅約2mの、杉材で造られた底の浅い15石(2.25トン)積み平舟で、他の川でも以前から、
	浅い川を専門に運行されていた船である。この舟を利用すれば、運河の川底も深く掘る必要はなく、当時の高瀬川も水深約
	30cm、川幅約8mの浅くて狭い運河だった。大阪から30石船で淀川を運搬されてきた物資は、伏見の港でいったん降
	ろされ、高瀬舟に積み替えられて、翌朝夜明けとともに 高瀬川を京の街へと運ばれていった。 大阪から京都への物資の運
	搬は丸1日かかっていたのだ。
	朝早く十数舟が共綱につながれて一団となって川上を目指した。一艘に3、4人の「曵き子」がつき、曳き綱を胸にあて力
	一杯前かがみに引き、綱道を一歩一歩踏みしめてながら引いていった。先頭は、舟を岸へ当てぬようにしながら、「へーい、
	ほーい」とのんびりと音頭をとりながら上がって行った。
 


	寛文年間(1661〜73)に鴨川の二条から五条までの堤が築造されるまでの木屋町界隈は、いわゆる洛外であり正に「賀茂の河
	原」だったようだ。雨が降ると大洪水になるが、普段の鴨川は水も少なかった。今と同じく、徒歩で渡ることができた程で、
	殆どの橋は、流れても良いように仮の板橋だった。寛文堤の築堤後は、鴨川の川筋も落ち着き、高瀬川沿岸には宅地が造成
	され、木屋町には水運を利用した商家や倉庫が立ち並ぶようになり、前述したように遊楽街も形成された。

	二条大橋上流で取水された「みそそぎ川」は、二条大橋まで来て分水される。大橋の少し南で、一方は高瀬川になり、もう
	一方は鴨川へ戻ってゆく。



	
	鴨川の二条の南側にホテルフジタがある。その前で「みそそぎ川」は分水し、豪商角倉了以の別邸跡「がんこ高瀬川二条苑」
	を通り木屋町通りをくぐって再び姿を現し高瀬川となる。分水地点では、もう一方の流れが鴨川へ注いでいる。

 

上左は「がんこ二条苑」、右奥に見えているのがホテルフジタ。下左は、高瀬川への流れが「がんこ」の庭へ、下右は鴨川へ流れる。

 


	角倉氏別邸跡の碑はこの「がんこ二条苑」の中にあり、おおよそ380年前の慶長16年、了以によってつくられた当庭園
	は、了以の後、明治の元勲山縣有朋の別荘、第二無鄰庵(山県有朋の別邸は、南禅寺の近くに「無鄰庵(むりんあん)」が
	あり、ここを「第二無鄰庵」と称した。)となり、その後、第三代日本銀行総裁・川田小一郎の別邸、阿倍信行首相別邸等
	をへて、現在は「がんこ高瀬川二条苑」となっている。高瀬川は、この庭園の中を抜けている。

	この庭園は「高瀬川源流庭苑」となっており、食事をしなくても無料で庭だけ見学させてもらう事もできる。食事もさほど
	高くはない。
	昼の懐石を頼めば3,000円くらいするが、千円位の普通の食事もある。庭苑は、小川治兵衛という庭師が基礎を作ったもの
	だそうで、千百坪の敷地のうちの80%が地泉回遊式庭園になっている。高瀬川を拓いた角倉了以は、京都と大阪を結ぶ運
	河の起点を自分の屋敷の庭から始めたわけだ。豪商なればこそかもしれない。









ここで鴨川を南へくだり、この取水口の反対側へ出てみることにする。少し高瀬川を北上する事になる。





	「がんこ高瀬川二条苑」は一之舟入の斜め向かいにあって、高い石垣で1,100坪の敷地を囲まれている。見慣れた「が
	んこ」の看板がなければ、どこかのお屋敷か高級料亭と間違えてしまう。この庭を通ってきた流れは、木屋町通りをくぐっ
	てこの橋の下から一之船入(いちのふねいり)へ注ぎ、みんなが知っている「高瀬川」となる。

 



黄色いタンクローリーがこの高瀬川から水を吸い上げていたが、ややこしそうな
あんちゃん二人が作業していたので、何をしているのか聞きそびれた。




	下は角倉氏邸址の碑。日本銀行京都支店の敷地のようで、こっちは銀行の裏側に当たる。建物の入り口には、「銀行・・・
	協会」とか、銀行関係の団体が3つ程ひっそりと名を連ねていた。別に「ひっそり」でもないのかな。どうも銀行の裏側と
	いうとついそんな気になってしまう。「がんこ高瀬川二条苑」の向かい側だ。下の写真2枚はこんな感じで繋がっている。



	高瀬川一之船入(たかせがわいちのふないり)

	 高瀬川一之船入址にて。船入とは荷物の揚げおろしをする船着き場のことで、高瀬川には9カ所の船入があった。現在、
	一之船入址の脇には、明治30年頃まで使われていたという高瀬舟上り便の復元船が浮かんでいる。この船入は当時、東
	北約85m、南北10mほどの掘割であったが、現在東西20m、南北mほどが残されている。国の指定史跡である。高
	瀬川は木屋町通の西を流れるが、木屋町の名はここに材木業者が多かったことに由来するという。幕末の頃は勤皇浪士が
	よく集まった場所でもあり、付近には志士ゆかりの場所も多いが、殆どは石碑(柱)のみである。

 


	伏見の酒樽を積んだ一艘の舟が川に浮かんでいて、なかなか絵になっている。舟の周りをカモも泳いでいて、のどかな風
	景である。柳の下には記念碑が建てられ解説版もある。中学生4,5人をつれた先生が高瀬川の解説をしていた。





 


	現在の高瀬川は、石積みの護岸でできた川幅約5〜7mの浅い河川となっている。石積みや水面に張り出す沿川の樹木に
	よって、しっとりとした歴史情緒ある河川景観となっている一方、京都の中心市街地としても賑わっている。夜の高瀬川
	界隈は、昼間とは異なり、特に三条・四条付近は京都一の歓楽街で、酔客と客の呼び込みで歩くのも難儀する程だ。しか
	しこの辺りはまだ落ち着いている。
	浅瀬をくだるせせらぎの音もやわらかに、四季折々の自然の情緒を織りなして京都の街中を流れる高瀬川。その流れに寄
	り添って 木屋町通りが続く。街の喧噪からはほど遠く、木屋町通りを挟んで西に高瀬川、東に鴨川を控えて落ち着いた
	佇まいをみせている。

 


	木屋町通は日本最初の電車が走った通りでもある。平安遷都1100年記念事業の内国勧業博覧会の会場へのアクセスと
	して、琵琶湖疎水による発電電力を使って電車が走った。当時は発電も電車も試行錯誤の段階で、突如送電が止まったり、
	電車の登場で慣れない歩行者や荷車が衝突したりで交通事故が続発したと、当時の資料は伝えている。電車の前を「先駆
	人」と呼ばれる人が注意を促しながら走ったと言う。高瀬川一之船入跡の北側には島津創業記念資料館もある。

	江戸時代から、京の町を支えた高瀬舟も時の流れには逆らえず、陸路の発達とともに衰え、汽車・電車の出現により大正
	9年(1920)に完全に姿を消す。高瀬川には舟入が9カ所ほどあったが、現在では復元された「一之舟入」だけに昔の面
	影を残している。 

 

 


	高瀬舟では、川の両側から曳き子が船を曳いたので船には船頭以外あまり人を乗せることが無かったが、大阪から島流し
	にされる罪人が乗ることがあった。森鴎外の『高瀬舟』は、そうした高瀬舟の舟上で語られる安楽死をテーマにした罪人
	の物語である。

	森鴎外『高瀬舟』

	喜助という西陣の職人が、弟の自殺現場に出くわし、その苦しむ姿を見かねて弟の頼むままに自殺を助ける。その罪を問
	われて島流しになるのである。この小説は、京都奉行所与力「神沢真幹」がまとめた「翁草」という随筆集に出てくる
	「流人の話」を元にしたもので、「翁草」には、同心の名前も罪人の名前もない。鴎外はこれを脚色して名前を与えて、
	安楽死の問題をテーマにした。小説の舞台となった江戸時代には、この高瀬川を上下する舟は1日170艘にものぼった
	という。

 




	以前にも一度四条から十条までを歩いたことがある。三条界隈はもうイヤと言うほど歩いているので、下流はどうなって
	いるのだろうと思い立って歩いたのだが、とりたてて歴史的な旧跡があるわけではなかった。その時はデジカメもなく、
	今回初めて通しで歩いた事になる。ただ歩くだけなら、早足で1時間半も在れば十分歩けるが、旧跡を眺めながらだから
	二条から五条までで2時間くらいかかった。注意して表題と写真を御覧頂いた方にはおわかりだと思うが、実はここに掲
	載した写真は2日に渡って取材したものである。4月20日の土曜日と21日の日曜日だ。20日に源流から五条までを
	歩いて、下流は特に紹介する気はなかった。しかし、21日帰宅して文献その他を調べていると、見落としたところがず
	いぶんあるのに気づいた。翌21日の日曜は雨で、相当迷ったが雨も上がりそうだったので出掛けていった。しかしやっ
	ぱり京都は雨で、一日止むことはなかった。
	そんなわけで晴れと雨の写真が混在しているが、「がんこ」の庭などは雨に濡れたほうが風情があって良かった。雨の中、
	二条から十条までを通して歩いてしまった。



2011.11.20

	下が高瀬川の取水口である。私は長年この取水口を探していたのだが、三条周辺には全く無くてやっと探し当てた。大学
	同窓会のハイキング「第19回  紅葉の比叡山へ 2011.11.20」で、四条から集合場所の出町柳までを歩いた時、出町柳の
	直前で見つけた。このHPを作ってから9年後にやっと見つけた事になる。
	ここから取水された鴨川の水は、地中を通り三条の上流で地上へでて「みそそぎ川」となり、旧角倉了以(すみのくらり
	ょうい)邸宅内の庭を通って高瀬川となる。高瀬川を掘った角倉了以は、自分の邸宅から高瀬川をスタートさせているの
	だ。高瀬川は京都市内東部を十条まで流れ、昔任天堂の本社があった、京阪電車「上鳥羽口駅」付近で再び鴨川へ戻る。
	高瀬舟は伏見から鴨川を横切ってこの高瀬川へ入って来ていた。





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