Music: 京都慕情(Ventuers)

高瀬川散策 歴史倶楽部 第92回例会

 

2004.12.23(木)天皇誕生日


	忘年会で、「年末もどっか行こう。」という事になったので、例会候補地を考えていなかった私は、以前一人で歩いて感慨にふけった、
	京都の高瀬川散策を提案した。私は源流から川下へ下ったが、七条から登って二条の終点で懐石料理に舌鼓を打って、今年の打ち上げ
	にしたらどうだろうかと考えたのだ。高瀬川か懐石か、どちらに興味があるのかは分からないが賛同者があったので、決行することに
	なった。
	そういう訳で、ここでの解説の大部分は、以前私が一人で行った「京都慕情−高瀬川物語−」から転載した。今回新たに遺跡の写真を
	加えたのは「坂本龍馬・中岡慎太郎−遭難の地」と「坂本龍馬寓居跡−酢屋」の2ケ所である。もっとも酢屋の方は旧跡ではあるが、
	現在も営業中の木材屋さんである。



京都駅前に立つ「電気鉄道事業発祥の地」碑。上右の角が京都駅。

 

京都駅からまっすぐ西へ歩いていって、ぶち当たった高瀬川からこの日の散策を開始。高瀬川の碑が金網の中にある。

 




	この日の高瀬川はいつになく水が澄み切っていた。川岸には椿、カキツバタが咲いていて、どういうわけか夏みかんがたわわだった。
	五条から南は少し川堤が高くなっているが、ほどなく又低くなる。
	ここから先の川岸は、炭屋や材木屋とその倉庫が多く、残りは大名諸藩邸だった。船着き場である舟入(ふないり)が二条から四条ま
	での間に九つ設けられ、荷物の積み卸しや舟の方向転換の場所となっていた。高瀬舟は、浅い川でも航行できるように、底を平たくし
	た舟で、幅2m、長さ13m位で15石積(2.25トン)であった。高瀬川には幾つもの橋が架けられ、その名前も変遷したが、往
	時には今よりもっと高いところに掛けられ、階段や坂を上って渡る様になっていた。明治28年、沿岸の二条と五条の間を日本最初の
	チンチン電車が通る事になり川岸も整備され、現在のような、三条・四条・五条を除く橋は、みな低い橋になった。

 


	高瀬川は、京都の豪商角倉了以(すみのくらりょうい)とその息子素庵(そあん)によって開削された運河で、森鴎外の
	歴史小説「高瀬舟」でも有名である。鴨川の水を二条大橋の付近、中京区樋之口町で分水し、伏見の京橋で宇治川に合
	流していた。当時は、川幅約8mで、二条・伏見間11.1kmを結んでいたが、現在は、木屋町通り沿いを南へ流れ、
	十条通り付近(京阪電車鳥羽街道駅付近)で再び鴨川に放流される河道延長4.48kmの淀川水系・普通河川である。
	高瀬川の開削が着工されたのは慶長16年(1611)だが、元々の開削の理由は、方広寺大仏殿再建のための資材を舟で
	運搬するためだったと言われる。3年後の慶長19年(1614)に完成し、総工費は7万5千両(現在の150億円余)でその
	すべてが角倉了以の自費であったという。完成後は、往来する船から船賃を徴収した。
	底の平たい、船先がとがった箱のような高瀬(浅瀬)舟を使ったことから、この運河は「高瀬川」と呼ばれ、江戸時代
	全般に渡って、京都と大阪の貨物輸送に大きな役割りを果たしてきた。伏見からは三十国船で淀川を通じて、当時の経
	済の中心地・大阪と物資の運搬が行われた。高瀬川の名前はこの舟から名付けられたのである。鴨川は勾配が大きく、
	水量が少ないため水運には適さなかったのだ。
	完成した慶長19年には、大阪冬の陣の原因といわれる方広寺鐘銘事件(「国家安康君臣豊楽」の文字を家康が咎めた)
	が起こっている。
	高瀬舟は、長さ約13m、幅約2mの、杉材で造られた底の浅い15石(2.25トン)積み平舟で、他の川でも以前か
	ら浅い川を専門に運行されていた船である。この舟を利用すれば、運河の川底も深く掘る必要はなく、当時の高瀬川も
	水深約30cm、川幅約8mの浅くて狭い運河だった。大阪から30石船で淀川を運搬されてきた物資は、伏見の港で
	いったん降ろされ、高瀬舟に積み替えられて、翌朝夜明けとともに 高瀬川を京の街へと運ばれていった。 大阪から京
	都への物資の運搬は丸1日かかっていたのだ。
	朝早く十数舟が共綱につながれて一団となって川上を目指した。一艘に3、4人の「曵き子」がつき、曳き綱を胸にあ
	て力一杯前かがみに引き、綱道を一歩一歩踏みしめてながら引いていった。先頭は、舟を岸へ当てぬようにしながら、
	「へーい、ほーい」とのんびりと音頭をとりながら上がって行った。


 

上下は、今に残る「お茶屋さん」。今も営業中らしかった。




	五條大橋へ至る通りのど真ん中の緑地帯に、牛若丸と弁慶の、「五条大橋の戦い」の人形が立っている。刀千本を集め
	ていた弁慶に牛若丸が立ち回るあのシーンである。しかし、今の子供はこんな話を知っているだろうか。おそらくもう
	絵本もあるまい。ゴレンジャーやガッチャマンがそれに取って代わった。

 

 

記念撮影に納まる、昔の子供達。考えてみればこのオジサン達にも子供時代はあったのだ。



五条大橋(上)の欄干のすぐ側の植え込みの中に、「扇発祥の地」の碑(下)があった。扇はこの五条から生まれたとある。知らなかった。





 

上はおそらく、昔の五条大橋の橋桁と思われる。「天正XX年」の刻印があった。「なんでわざわざ丸くしたんやろう?」
「そりゃやっぱ、美的センスちゃいまっか。」「べつに四角いままでもええんとちゃうかなぁ。わざわざ丸うせんでも。」

 

 

	
	古高俊太郎邸宅跡
	----------------
	新撰組が池田屋の尊攘派志士達を襲撃した事件の原因となった、古高俊太郎の邸宅跡である。四条通りから1,2本北に
	入った通りの、高瀬川から10m程の所にひっそりとある。石柱はひっそりしているが、廻りは風俗店がひしめいている。
	我々に声を掛けたオッサンも、この石柱を覗き込んでやいのやいの言っているのを見て、「あ。こいつらアカンわ」と思
	ったようで、引き返すときにはもう声をかけなかった。下はその隣にある道標。いつもながら、なかなか読めない。

	池田屋騒動の発端となったのが、河原通り四条上ルで道具屋を営んでいた桝屋の主人湯浅喜右衛門こと尊攘の志士・古高
	俊太郎であった。元治元年6月、不穏を察した新撰組は、かねてから内偵していた古高俊太郎を捕らえ拷問する。足の裏
	に5寸釘を打ち、足の甲を貫いた釘にロウソクを立て火をともして逆さづりにして責め立てた。拷問に絶えきれず古高は、
	文久年(1863)「8月18日の政変」で京都を追われた、長州、土佐、肥後などの尊攘派が密かに京都に入っており、御
	所と中川宮に放火して所司代、反長州系大名を襲って天皇を長州へ拉致する計画があり、その相談が池田屋で行われる事
	を白状した。
	


 




	
	本間精一郎遭難之地
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	木屋町通りを三条から四条通りへ歩いていくと、左手に「本間精一郎遭難の地」という石碑がある。本間精一郎(1834〜
	1862)は、越後寺泊の郷士で、20歳の時青雲の志を抱いて郷里をあとにする。土佐や長州へ出向き、過激な攘夷討幕論を
	説いたようである。安政5年(1858)までは江戸におり、幕府の勘定奉行・川路聖謨(としあきら)に仕えた。しかしや
	がてそこから転じて、勤王の志士として京都に潜伏し、いつしか尊攘派浪士の志士たちと交流するが、エキセントリック
	で軽率な性格の故に、次第に仲間達からも疎まれるようになる。本間精一郎の主張は王政復古であり倒幕であった。開国
	には反対であくまでも攘夷すべしと主張し、さらに公武合体にも不満の意を表明する。幕府と朝廷、薩摩、長州、土佐の
	三藩の勢力争いの渦中にあって、一介の浪士である本間は、それぞれの立場を優先する側からは疎まれていくのである。
	そして、それを感じた本間は、その後酒びたりとなって、発言もますます過激になり、土佐藩士武市半平太の指図で、岡
	田以蔵、田中新兵衛等の兇刃に斃れた。暗殺時も泥酔していて、首を切られ胴体は高瀬川に投げ込まれた。時に文久2年
	(1862)8月、本間精一郎29歳であった。
	

 


	角倉了以碑
	----------
	木屋町通蛸薬師に、旧京都市立「立誠」小学校がある。この学校の正面玄関右に、角倉了以の顕彰碑が建てられている。
	同地域の高瀬川保存会によって高瀬川開創350年を記念して建立された。高瀬船の船板を模したモニュメントの上に角
	倉了以の像が乗っている。
	掘削当初の高瀬川の長さは、京都伏見間約10kmであったが、五条から南は昔の農耕用水路を拡張利用したのでだいぶ
	曲がりくねった水路となり、ほぼ中間で鴨川を横断していた。当初は川幅も約8mで水量も多く、深さも30cm以上あ
	ったが今は川幅は半分程度になっている。また、鴨川から伏見へ至る東の高瀬川は、もう存在しない。

 




現在の高瀬川。上と下をつなげて、二条から五条までとなる。




 


	土佐藩邸跡
	----------
	石高24万石。幕末期、山内容堂(ようどう)が藩主となり、吉田東洋を起用して藩政改革を行った。公武合体路線を貫
	いたが、藩内では武市半平太を首領とする土佐勤王党が勢力を増し、公武合体派と抗争を続けた。勤王派による吉田東洋
	の暗殺、武市半平太以下勤王党員の投獄、勤王派の脱藩・半平太(瑞山)の切腹など、血なまぐさい争いが続いたが、脱
	藩した坂本竜馬は旧怨にこだわらず後藤象二郎と結び、容堂をして大政奉還建白書を幕府に提出させ、戊辰戦争にも参戦
	して維新後の地位を不動のものにした。
	高瀬川沿いには藩邸の跡がいくつかある。勿論例によって今は石碑が一本残るのみだが、土佐、加賀、彦根の各藩邸跡が
	石碑一本だけなのに対して、長州藩跡には一応説明書きがある。土佐藩邸は、土佐出身の坂本龍馬が暗殺された近江屋と
	は目と鼻の先である。





 


	
	坂本龍馬・中岡慎太郎遭難の地碑
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	旅館近江屋跡。今は四条通と三条通りの間で、河原町通りに面した「京阪交通社」の軒先にある。
	

 
	坂本龍馬暗殺の謎
	----------------
	坂本龍馬の暗殺に関しては、歴史好きなら一度はハマッた事があるのではなかろうか。犯人を巡っては、巷間、◆見廻組
	説◆薩摩藩説◆土佐藩説◆紀州藩説◆中村半次郎下手人説◆伊東甲子太郎下手人説◆後藤象次郎黒幕説◆陸援隊説◆岩倉
	具視黒幕説◆西郷隆盛黒幕説、などが唱えられているが、勿論確かなところは不明である。龍馬は巻き添えを食っただけ
	だという説もある。一応一般には見廻組犯人説が「定説」と言われているようだが、今後もこの謎が解明される事はある
	まいと思われる。それぞれの説の詳細は、ネット内にもいろんな情報が飛び交っているので、興味のある方はお調べ願い
	たい。しかし今では、ここが龍馬が死んだ場所だと思うには、あまりにも喧噪すぎて、そんな感慨もわかない。
	行き交う車と人の群れ。この写真を撮るために、人通りが途絶える瞬間を相当待った。








河原町通から先斗町の歌舞演場が見える。その手前に「先斗町の由来」がある。








	
	木材商酢屋・坂本龍馬寓居跡
	--------------------------
	龍馬と海援隊隊士をかくまった木材商「酢屋」は、池田屋と通りを挟んだ向側裏手にある。夜は歓楽街として賑わう京都
	の中心地に、創業280年来「木の文化」を伝え続け、今もその当時の場所に残る、京都では珍しい場所の一つである。
	ここは龍馬が[寓居]とし、海援隊屯所としても利用されたといわれている。一階は「創作木工芸酢屋」、二階は「ギャラ
	リー龍馬」として、龍馬に関する資料が展示されている。
	

 

 




	------------------------------------------------------------
	酢屋嘉兵衛は享保6年より現在まで、創業280年つづく材木商でございます。「酢屋」は材木業を営んだ店の屋号で、初代
	酢屋嘉兵衛より現代までこの地にて継承しております。幕末、当時六代目嘉兵衛は材木業を営む傍ら、角倉家より、大阪
	から伏見そして京へと通ずる高瀬川の木材独占輸送権を得て、運送業をも掌握しておりました。当時、家の前の京劇は高
	瀬川の舟入で、高瀬舟が出入りしていました。岸には納屋が建ち、舟の荷あげをしていました。高瀬川の川ぞいには各藩
	の藩邸が建ち並び、各藩との折衝や伏見そして大阪との連絡にも格好の地であった為、龍馬は「酢屋」に身を寄せたので
	す。嘉兵衛は龍馬の活動に大変理解を示し、その活動の援助に力を注いでおりました。
	龍馬は家の者から「才谷さん」と呼ばれ、二階の表西側の部屋に住まいしていました。(現在ギャラリー龍馬として使用し
	ています)当時の面影を残す二階の品格子より龍馬は向いの舟入にむけてピストルの試し撃ちをしたということです。
	遭難の年(慶応3年)の6月24日には、お姉さまに宛てた手紙の中で酢屋に投宿している旨を伝えております。又、この家に
	海援隊京都本部を置き、隊士、陸奥宗光、長岡謙吉、等数多くの志士が投宿していました。11月15日龍馬遭難直後の天満
	屋事件もこの二階の一室に隊士が集まり事件が起りました。維新後、陸奥宗光は「酢屋」の家を訪れる時、当時を思い、
	感慨にむせんだと言われています。   材木商 十代目 酢屋嘉兵衛
	------------------------------------------------------------
	(「創作木工芸酢屋」HPより)

 

 


	
	池田屋騒動之址
	--------------
	元治元年(1864)6月、池田屋で起こった新撰組の尊攘派志士襲撃事件の跡。池田屋騒動が禁門の変(蛤御門の変)につなが
	っていく。尊攘の志士・古高俊太郎からの、天皇奪還の計画に驚いた近藤勇は、池田屋惣兵衛方(三条通河原町東入ル北
	側)に集まっていた、宮部鼎蔵(ていぞう:肥後)、吉田稔麿(としまろ:長州)、野老山五吉郎(のろやまごきちろう
	:土佐)らを急襲して9名を斬殺し、23名を生け捕りにした。新撰組では沖田総司が、刀の先端が折れるほど大活躍し、
	宮部鼎蔵らの返り血で衣服が染まったと言う。(永倉新八翁遺談)この後沖田総司は、持病の肺病が悪化し、寝たり起き
	たりという生活をするようになる。現在の池田屋跡は、何の因果かパチンコ屋である。中で大勢が切った張ったを繰り返
	している。なお、間一髪、池田屋を逃れた桂小五郎を助けたのは芸者の幾松であったという。幾松は後に桂小五郎の妻・
	松子となる。 
	

 


	彦根藩邸跡
	----------
	石高35万石。彦根藩は初代藩主井伊直政から最後の藩主井伊直憲まで14代にわたり井伊家が藩政を司どってきた。井
	伊直政は家康の四天王の一人で、直政が関ヶ原の戦いで死んだ後、長男の直勝が大坂の陣に参戦できなかった為、次男の
	直孝の系統がこの藩を継ぎ、直勝の系統は上野安中藩に移った。彦根藩は譜代大名の筆頭とされており、また京都守護の
	密命を帯びていたともいわれる。歴代藩主中で著名なのは何と言っても第12代藩主井伊直弼(いいなおすけ)である。
	安政5年日米修好通商条約締結を断行、その責を負い老中職を辞すが、安政7年(1860)3月3日早朝、江戸城桜田門外で
	水戸藩士他に襲撃され命を落とす。
	鳥羽伏見では慣例で彦根藩が幕軍の先鋒となるが真っ先に遁走し、あとには「井伊の赤備え」の甲冑が累々と遺棄してあ
	ったという有名なエピソードが残る。甲冑を脱ぎ捨てて潰走した子孫達を見て、井伊直政はあの世で家康に何と言って詫
	びたであろうか。


瑞泉寺

	高瀬川は木屋町通の西を流れているが、木屋町という名は、ここに材木業者が多かったことに由来している。ここから高
	瀬川を南へ行くと、京都では有名な、安藤忠雄設計の「TIME'SI 2ビル」(上左)がある。喫茶店やブティックが入居し
	たコンクリートむき出しの雑居ビルで、高瀬川沿いに面しているカフェは若者達でいつも満員だ。
	このビルの向かいに、瑞泉寺(ずいせんじ)がある。鴨の河原で処刑された「豊臣秀次」の一族を弔うため、高瀬川掘削
	中の角倉了以が、その遺骨が埋まっていた場所の裏手に建てた寺である。秀次自身は高野山で切腹させられたが、妻子、
	侍従達はこの寺の裏手の鴨の河原で惨殺された。

 

 

 

 



 




 


	加賀藩屋敷跡
	-------------
	幕末の加賀藩は旧弊な大藩意識にしばられて開明的な動きができなかった。まず第一に藩主・前田斉泰(なりやす)の夫
	人が将軍・家斉の娘だったため、いつまでも慎重にかまえすぎた。
	元治元年(1864)藩主の代理として、あとつぎの慶寧(よしやす)が上洛した。倒幕に加わるチャンスだった。若い世子の
	周囲には不和富太郎、小川幸三、千秋順之助、大野仲三郎などという血気にはやる藩内の少数倒幕派がつきそい、長州藩
	とひそかに連絡して天皇をむかえる手はずをととのえた。慶寧は禁門の変が起こると中立の立場をとって軍を出さず、長
	州が敗れると京都からさっさと引き上げた。
	これに対して藩主である斉泰は幕府の顔色をうかがって慶寧を謹慎させて家老・松平康正は近江の梅津で切腹した。他に
	も尊攘派志士が四十名以上も死刑、流刑などに処された。きびしく自粛しすぎたのである。【泉秀樹著:日本暗殺総覧】

 


	我が歴史倶楽部、東京支部長の河原さんは、もともと佐久間象山と同じ信州・松代藩の出で、母方の家は松代藩の家老職
	を代々勤めた家系である。おそらく、曾祖父あたりは佐久間象山とも言葉を交わしていたのだろう。私がその話をすると、
	皆さん知らなかったと見えて、

	「へぇー、あ、そうなん。」「いやぁー、そう言えば河原さんの顔はどことなく品があるよね。」「うぅーん、口を開か
	なかったらねぇ。」「あ、おらん思てめちゃくちゃ言いよる。」「わっはっはっはっ。」

 


	
	吉村寅太郎寓居之址
	------------------
	吉村寅太郎(1837〜63)は、幕末の志士で天誅組幹部。土佐国高岡郡の庄屋の子として生まれる。武市瑞山の土佐勤王党に
	も加わり、武市瑞山の命により長州藩萩に久坂玄瑞を訪ね、大いに感化された。平野国臣を知り、さらに尊攘倒幕思想の
	影響を受けた。脱藩して京都へ行き、諸藩の志士と交わり国事に奔走。尊攘派公卿の中山忠光を擁して天誅組を結成した。
	文久3年(1863)8月、大和御幸を受けて倒幕の兵を大和であげることを計画。京都をでて大和にむかったが「8月18日の
	政変」が起こり大和行幸は延期となる。しかし計画は後戻り出来ず挙兵する。吉村寅太郎総裁はじめ天誅組志士30人は、
	五條代官所を襲い五條新政府を号し、倒幕の旗を揚げた。
	十津川郷士の助けを得て高取城へ進攻するが撃退され敗走。京都へ落ちる途中包囲されたため、鷲家口で自刃して果てた。
	享年27歳。天誅組は内部対立や十津川郷士の離反などを経て翌年9月、東吉野村で壊滅した。
	

 


	
	武市瑞山(たけちずいざん)寓居跡
	---------------------------------
	武市瑞山は、土佐国長岡郡吹井村(高知市)に出生。土佐郷士から藩士となる。幕末の剣客、尊王家。通称半平太(はんぺいた)
	として知られる土佐藩士で、坂本龍馬らとともに攘夷・倒幕に奔走。文久3年尊攘派弾圧のため捕らえられ、慶応元年切腹
	した。幼少のころから文武に励み、国学、書画を嗜んだ。安政元年(1854)、叔父島村寿之助と槍剣道場を開き、藩内東部に剣
	道出張指南に赴いた。
	同3年(1856)江戸に出て桃井春蔵に入門し、翌年塾頭となった。帰郷後、道場の経営に尽力。同5年剣道奨励の功により藩か
	ら終身二人扶持を給付された。安政の大獄(1859)、桜田門外の変(1860)など情勢の変化に伴い、尊攘運動が激化する中、万
	延元年(1860)秋、藩から剣術修行の許可を得て門弟2名を従え北九州の諸藩を巡歴した。ついで文久元年(1861)文武修業
	のため再び江戸に出て、住谷寅之助、岩間金平、樺山三円、桂小五郎(木戸孝允)、久坂玄瑞ら水戸、薩摩、長州藩の尊攘派志士と
	交流し、帰国した。同年8月には土佐で下級武士、郷士、村役人層を中心とする土佐勤王党を結成し、その首領となった。盟約
	に応ずるもの200余人に及び、藩体制に大きな影響を与えた。瑞山は年末に留守居組に列せられて上士格に進み、文久3(1863)
	年正月京都留守居役となった。公武合体派の吉田東洋と対立し、暗殺した。これにより藩論を尊王攘夷に導いたが、この頃
	藩主山内容堂は、東洋暗殺を後悔し勤王党弾圧が始まった。京都の8月18日の政変によって尊攘運動は後退し、勤王党の弾
	圧が強化された。瑞山は志士たちが相次いで脱藩する中にあって動かず、9月投獄され、在獄1年半余、ついに切腹を命ぜら
	れて死去した。享年37歳。
	

 



佐久間象山(さくましょうざん)遭難碑(右)・大村益次郎(おおむらますじろう)遭難碑(左)。
高瀬川に木々の葉が覆い被さる季節には、うっかりすると見過ごしてしまう。


	
	佐久間象山(さくましょうざん)遭難碑
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	佐久間象山(1811〜64)は、信濃国松代藩(長野県)下士であり、幕末期の思想家。兵学者でもあった。家督を継いだ後、天保
	4(1833)年、江戸に出て佐藤一斎に学び、梁川星巌と親交を結んだ。 天保13年(1842)藩主真田幸貫が海防掛老中になると、
	顧問として海外事情の研究を命ぜられ、海防問題に取り組む。伊豆韮山代官江川坦庵(太郎左衛門)に入門し西洋兵学を学び、
	また藩主に「海防八策」を提出した。
	嘉永3年(1850)、深川藩邸で砲学の教授を始め、勝海舟、吉田松陰、橋本左内、河井継之助ら、多くの有能な人材を門下に集め
	た。嘉永6年(1853)、ペリー来航に際し「急務十条」を老中阿部正弘に提出、翌安政元年(1854)、下田開港に反対し横浜開港を
	主張した。同年4月、門人吉田松陰のアメリカ密航失敗事件に連座して捕らえられ閉居を命ぜられる。44歳から52歳まで
	8年間を松代ですごす。やがて赦免され、幕府の軍備計画で活躍したが、元治元年(1864)幕命によって上洛、公武合体論
	と開国論を主張。その進歩的言動のため尊攘派に暗殺された。
	佐久間象山は、元治元年(1864)7月11日、自ら書いた開港の勅許草案を持って山階宮邸を訪問していた。夕刻、馬丁の
	半平が轡をとる馬に乗って、木屋町近くの三条小橋に差し掛かった。そこへ二人の男が襲いかかったのである。一人は因州
	藩士・前田伊左衛門、もう一人は壱岐藩士・松浦虎太郎である。走り出した馬の前に肥後藩士・河上彦斎が立ちふさがり象
	山は落馬した。そこへ河上が腹部を片手切りで横真一文字に切り裂いた。象山も刀を抜いたが、次ぎの瞬間には頭を切り割
	られて絶命した。享年54歳。
	


	
	大村益次郎(おおむらますじろう)遭難碑
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	大村益次郎(1824〜1869)は、周防国吉敷郡鋳銭司村(山口市鋳銭司)に生まれた長州藩士であり、幕末期の兵学者であ
	る。旧名を村田蔵六といい、藩の討幕軍制改革の中心となって活躍した。
	村田家は代々医業を営んでおり、天保13年防府宮市の梅田幽斎に医学と蘭学を学び、翌年豊後の広瀬淡窓の門に入り、
	弘化3年大坂の緒方洪庵に学び塾頭にまで進んだ。嘉永3年帰郷して四辻で医業を開いたが、同6年伊予宇和島藩に招か
	れて蘭学・兵学を教授し、安政3年江戸に出て「鳩居堂」を開塾。また幕府の蕃書調所教授方手伝となり、翌年講武所教
	授に任ぜられた。万延元年萩藩に抱えられ、藩の蘭学に貢献し、文久2年帰国し、西洋学兵学教授となって山口普門寺塾
	で兵学を教えた。ついで藩の兵制を改革し、元治元年下関外艦和議の応接掛を勤め、慶応元年軍務掛となり、同2年の幕
	長戦に石川口の総参謀として連勝ののち、山口明倫館兵学寮に帰り、兵学の教授に当った。明治元年二月、太政官から軍
	防事務局判事加勢を命ぜられて軍政改革に尽力、親兵を編成し、東北平定のため江戸へ進軍、5月江戸府判事を兼任した。
	ついで上野の彰義隊を討伐、さらに奥羽・北越の平定に尽し、10月軍務官副知事となり、明治2年箱館を鎮定した。
	同7月兵部省新置の時兵部大輔に任ぜられ、兵制の大改革を企て、東京を発して大坂・兵庫を巡回し、9月京都の三条木
	屋町の旅宿で暴徒に襲われ重傷を負う。10月大坂鈴木町の病院に入院したが、療養中に死亡した。享年46歳。

	益次郎を襲ったのは同じ長州出身の仲代直人、団伸次郎らであった。仲代も団も、萩で水戸学を教えていた大楽源太郎
	(だいらくげんたろう)の弟子で、凶行は師の大楽にそそのかされてと言うことになっているが、はっきりした真相は不
	明である。大楽はかねてから進歩的な益次郎に不満を持っていたと言われるが、後に、佐久間象山を暗殺した肥後の河上
	彦斎らと攘夷党を結成して蜂起し弟とともに殺された。益次郎は京都から大阪に運ばれ、オランダ医師ボールドウィンの
	治療を受け、シーボルトの娘いねも看病に当たった。大腿部から下を切断し一時は回復に向かったが、結局助からなかっ
	た。凶行に及んだ仲代らは捕らえられ、その年の暮、処刑された。
	大村益次郎は、その学び教授した近代兵学の故に、第二次大戦まで「軍神」として崇め奉られていた。今も東京九段の靖
	国神社にはその全身像が本殿前の玉砂利道に立っている。
	



 


	料理旅館「幾松」
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	「一之船入」の前に、料理旅館「幾松(いくまつ)」がある。かつては長州藩控屋敷であった。幕末にはたびたび新撰組の
	襲撃に遭っており、現在でもその跡が残っている。ここは、幕末の志士の一人である桂小五郎(木戸孝允)と芸者・幾松と
	が住んだ所でもある。維新に命を賭ける長州の若者・桂小五郎と名妓・幾松の恋。桂小五郎は木戸孝允となってからも、
	幾松の侠気と庇護にずいぶんと助けられたようだ。幕末の動乱期に咲いたロマンスは実を結び、幾松は木戸伯爵夫人とな
	ってからも多くのエピソードを残している。また、二人が暮らした、明治維新の参謀本部にもなった部屋には、当時のつ
	り天井や抜け穴などが今も残されている。

 


	桂小五郎に憧れているのか、それとも桂と幾松の関係に憧れているのかは知らないが、石柱に寄り添わんばかりの河内さ
	ん。すぐ側の料理屋のメニューで、「なんで、大村益次郎定食が3,000円で、桂小五郎が1,050円なんや!」と怒っていた
	から、桂小五郎に憧れているのかもしれない。

 

	高瀬川一之船入(たかせがわいちのふないり)

	 高瀬川一之船入址にて。船入とは荷物の揚げおろしをする船着き場のことで、高瀬川には9カ所の船入があった。現在、
	一之船入址の脇には、明治30年頃まで使われていたという高瀬舟上り便の復元船が浮かんでいる。この船入は当時、
	東北約85m、南北10mほどの掘割であったが、現在東西20m、南北mほどが残されている。国の指定史跡である。
	高瀬川は木屋町通の西を流れるが、木屋町の名はここに材木業者が多かったことに由来するという。幕末の頃は勤皇浪
	士がよく集まった場所でもあり、付近には志士ゆかりの場所も多いが、殆どは石碑(柱)のみである。
	江戸時代から、京の町を支えた高瀬舟も時の流れには逆らえず、陸路の発達とともに衰え、汽車・電車の出現により大
	正9年(1920)に完全に姿を消す。高瀬川には舟入が9カ所ほどあったが、現在では復元された「一之舟入」だけに昔
	の面影を残している。伏見の酒樽を積んだ一艘の舟が川に浮かんでいて、なかなか絵になっている。舟の周りをカモも
	泳いでいて、のどかな風景である。柳の下には記念碑が建てられ解説版もある。
	高瀬舟では、川の両側から曳き子が船を曳いたので船には船頭以外あまり人を乗せることが無かったが、大阪から島流し
	にされる罪人が乗ることがあった。森鴎外の『高瀬舟』は、そうした高瀬舟の舟上で語られる安楽死をテーマにした罪人
	の物語である。
 


	森鴎外『高瀬舟』
	喜助という西陣の職人が、弟の自殺現場に出くわし、その苦しむ姿を見かねて弟の頼むままに自殺を助ける。その罪を問
	われて島流しになるのである。この小説は、京都奉行所与力「神沢真幹」がまとめた「翁草」という随筆集に出てくる
	「流人の話」を元にしたもので、「翁草」には、同心の名前も罪人の名前もない。鴎外はこれを脚色して名前を与えて、
	安楽死の問題をテーマにした。小説の舞台となった江戸時代には、この高瀬川を上下する舟は1日170艘にものぼった
	という。





	現在の高瀬川は、石積みの護岸でできた川幅約5〜7mの浅い河川となっている。石積みや水面に張り出す沿川の樹木に
	よって、しっとりとした歴史情緒ある河川景観となっている一方、京都の中心市街地としても賑わっている。夜の高瀬川
	界隈は、昼間とは異なり、特に三条・四条付近は京都一の歓楽街で、酔客と客の呼び込みで歩くのも難儀する程だ。しか
	しこの辺りはまだ落ち着いている。浅瀬をくだるせせらぎの音もやわらかに、四季折々の自然の情緒を織りなして京都の
	街中を流れる高瀬川。その流れに寄り添って 木屋町通りが続く。街の喧噪からはほど遠く、木屋町通りを挟んで西に高瀬
	川、東に鴨川を控えて落ち着いた佇まいをみせている。







なんだか河内さんと栗本さんを押しのけて私がデーンと構えているが、実は
この写真は私が写したのです。さて、どのあたりが合成した部分でしょう?

	長州藩邸跡
	----------
	高瀬川を挟んで、料理旅館「幾松」とは反対側に京都ホテルが立っている。ここに桂小五郎像が立っていて、ここが長州
	藩跡であったという名残を僅かにとどめている。幕末の京都では、どこの藩にもまして長州の藩士が一番もてたと言う記
	録があるそうだ。金払いがよかったのだろうか。1864年、蛤御門の変(禁門の変)で会津・薩摩を中心とする朝廷・幕府
	側に破れた長州藩は、自らこの邸内に火を放ち京都を脱出、邸内の放火はたちまち市中に延焼し、数日間にわたって燃え
	続けたと言う。(京都ホテル説明書)


	木屋町通
	--------
	木屋町通は、高瀬川開削と同時につくられた通りではなく、当初は、川の岸に人間一人が通れるほどの小道がつけられて
	いたにすぎない。しかし、明治28年(1895)京都最初の電機鉄道がこの木屋町通を走る事になり、たち並んでいた倉庫
	などを取りこわして道路を拡張し、また明治43年(1910)には高瀬川を1mほど埋立てて木屋町を西側にも拡張したの
	で、今日の規模となった。木屋町というよび方は、高瀬舟の運搬する物資が、材木や木材、米や塩といったものが殆どで、
	とりわけ薪炭や材木が中心であり、沿岸にはそれらの倉庫や店舗が軒をならべたので、その町並の光景から木屋町とよば
	れるようになった。
	木屋町通は日本最初の電車が走った通りでもある。平安遷都1100年記念事業の内国勧業博覧会の会場へのアクセスと
	して、琵琶湖疎水による発電電力を使って電車が走った。当時は発電も電車も試行錯誤の段階で、突如送電が止まったり、
	電車の登場で慣れない歩行者や荷車が衝突したりで交通事故が続発したと、当時の資料は伝えている。電車の前を「先駆
	人」と呼ばれる人が注意を促しながら走ったと言う。高瀬川一之船入跡の北側には島津創業記念資料館もある。

島津創業記念資料館

 

 



きっちり田中耕一氏のノーベル賞関係の資料もある。下右は島津の創業者島津(井上)源蔵。

 

 

 

 

上左は有名な「GSバッテリー」。GSとは島津源蔵のイニシャルだそうだ。日本電池(株)が元島津の会社だったとはしらなかった。

 

 

 

田中氏コーナーで記念撮影。









暮れていく鴨川は、それだけでもう十分詩情をかき立てられる。



 



 
	
	上の写真は、鴨川から取水された「みそそぎ川」が暗渠を通って地面に出現する地点。二条大橋下で分水され、中心市街
	地である木屋町通り沿いを南へと流れてゆく。この運河の完成によって、近世京都の産業や商業の発展がもたらされたが、
	波及して、川沿いに「花街・色町」も誕生し、現在の木屋町、先斗町の賑わいへと繋がっていくのである。



上は「がんこ二条苑」、右奥に見えているのがホテルフジタ。下は、高瀬川への流れが「がんこ」の庭へ流れる取水口。



	寛文年間(1661〜73)に鴨川の二条から五条までの堤が築造されるまでの木屋町界隈は、いわゆる洛外であり正に「賀茂の
	河原」だったようだ。雨が降ると大洪水になるが、普段の鴨川は水も少なかった。今と同じく、徒歩で渡ることができた
	程で、殆どの橋は、流れても良いように仮の板橋だった。寛文堤の築堤後は、鴨川の川筋も落ち着き、高瀬川沿岸には宅
	地が造成され、木屋町には水運を利用した商家や倉庫が立ち並ぶようになり、前述したように遊楽街も形成された。

	二条大橋上流で取水された「みそそぎ川」は、二条大橋まで来て分水される。鴨川の二条の南側にホテルフジタがある。
	その前で「みそそぎ川」は分水し、豪商角倉了以の別邸跡「がんこ高瀬川二条苑」を通り木屋町通りをくぐって再び姿を
	現し高瀬川となる。分水地点では、もう一方の流れが鴨川へ注いでいる。

がんこ高瀬川二条苑

	「がんこ高瀬川二条苑」は一之舟入の斜め向かいにあって、高い石垣で1,100坪の敷地を囲まれている。見慣れた
	「がんこ」の看板がなければ、どこかのお屋敷か高級料亭と間違えてしまう。この庭を通ってきた流れは、木屋町通りを
	くぐってこの橋の下から一之船入(いちのふねいり)へ注ぎ、みんなが知っている「高瀬川」となる。

	角倉氏別邸跡の碑はこの「がんこ二条苑」の中にあり、おおよそ380年前の慶長16年、了以によってつくられた当庭
	園は、了以の後、明治の元勲山縣有朋の別荘、第二無鄰庵(山県有朋の別邸は、南禅寺の近くに「無鄰庵(むりんあん)」
	があり、ここを「第二無鄰庵」と称した。)となり、その後、第三代日本銀行総裁・川田小一郎の別邸、阿倍信行首相別
	邸等をへて、現在は「がんこ高瀬川二条苑」となっている。高瀬川は、この庭園の中を抜けている。
	この庭園は「高瀬川源流庭苑」となっており、食事をしなくても無料で庭だけ見学させてもらう事もできる。食事もさほ
	ど高くはない。昼の懐石を頼めば3,000円くらいするが、千円位の普通の食事もある。庭苑は、小川治兵衛という庭師が基
	礎を作ったものだそうで、千百坪の敷地のうちの80%が地泉回遊式庭園になっている。高瀬川を拓いた角倉了以は、京
	都と大阪を結ぶ運河の起点を自分の屋敷の庭から始めたわけだ。豪商なればこそかもしれない。

 

「がんこ」の前に立つ「角倉了以邸の碑」(上左)。後ろにそびえ立つのが京都ホテルで、かっての長州藩邸。

 

きっちり井上様ご一行と看板がでている。歴史倶楽部にしとけば良かった。



満月の下、高瀬川となるせせらぎが庭先を横切っていくのを見る。夏に来れば蛍が群れている。

 












	幕末の旧跡をこうやって眺めてくると、その領域の極めて狭いのに驚かされる。暗殺された場所と、寝泊まり、飲み食い
	していた場所は目と鼻の先である。勤王の志士と新撰組が、通り一つ隔てて同じ瞬間に歩いていたりしたのだろうか。
	なんと言う狭い空間でいがみ合っていたのだろうと思うと、何ともしれないやりきれなさで一杯になってくる。新撰組も、
	勤王の志士も、日本を良くしたいという思いは一緒だったはずである。一方は新しい世の中にしなければと思い、もう一
	方は現体制の中で改善していこうとする。
	歩み寄りの突破口が見つからなかった果てに、待っていたのが暗殺というテロリズムだけだったというのは、いかに激動
	の時代だったとはいえ、やはり悲しい。
	高瀬川畔・二条から四条の木屋町界隈は、幕末の旧跡が目白押しだが、そのすべてが石柱のみである。「寓居跡」「遭難
	の地」等々の石碑がポツンと建っているだけだ。どうかすると電信柱の陰に隠れて全く見えないところもある。名所・旧
	跡めぐりを期待して来た向きにはすこぶる期待はずれの散策コースかもしれない。しかし、歴史は想像の学問だと言う事
	を思い出して欲しい。イメージはすべて脳内に自ら造り出すものだ。その作業が出来ない人は歴史などおもしろくもなん
	ともないだろうし、絵や写真を見て別な世界に遊ぶことなど出来はしない。幕末の木屋町は、二条から四条辺りに長州や
	土佐をはじめ6つの藩邸が立ち並び、尊攘派志士たちの溜まり場になっていた。池田屋騒動など、尊攘派と新撰組の戦い
	や、尊攘派内部の勢力争いなど、テロが横行する場でもあった。
	血なまぐさい殺戮の臭いの中で、祇園での芸者遊びに溺れていく若者達もいたことだろう。徳川の終焉、新時代到来の予
	感を胸に抱いて、切る方も切られる方も20代30代の若者達であった。そんな時代からまだ150年しか経っていない。

	高瀬川・木屋町界隈の散策は、四条あたりを除けば人通りがそれほど多くなく、全体的に落ち着いたたたずまいを見せて
	いる。雨でも降れば、ゆっくりと風情を楽しんでいる人の数は僅かである。また、値千金の春の宵、暮れなずむ秋の夕暮
	れに、色鮮やかに瞬くネオンの町並みも、旅情をかき立てられて、いずれも味わい深いものがある。
	古(いにしへ)の動乱期に咲いたロマン、洪水の鴨川と、高瀬川を掘削中の角倉了以達の姿、出雲の阿国が芝居する賀茂
	の河原、高瀬舟の川下りの様子、新撰組の池田屋討ち入りなど、イメージは膨れあがり、夥しい情念に包まれて、私は今
	どこを歩いているのかさえも忘れそうだ。






「週刊ポスト」2008年10月7日号













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