Music: a girl


2003.11.23 香川県高松市




	JR高松駅はすぐ裏が海である。目と鼻の先にフェリーや観光船が発着する高松港があり、そのすぐ南隣に、豊かな緑
	と白壁を水面に映して高松城跡がたたずむ。高松城(玉藻城)は、北側はそのまま海、残り三方の濠に海水を引き入れ
	た、海に浮かぶ水城である。かっては月見櫓の下まで波が打ち寄せ,水手御門が瀬戸内海に向けて開かれていたそうで、
	全国でも数少ない海に浮かんだ城となっていたが、現在は周辺にビルが建ち並び、四国の玄関都市高松のシンボルにな
	っている。

 


	秀吉が四国を平定した後の、天正15(1587)年8月、讃岐17万6千石を与えられた生駒親正(1526 〜1603))は、
	播磨国赤穂から讃岐引田城へ移って来たが、引田城は狭く不便なため、仙石秀久が宇多津に築いた聖通寺山(しょうつ
	うじやま)城へ居を変え、さらに翌天正16年、当時,箆原庄(のはらのしょう)と呼ばれていた香東川の河口に,築城
	を始めた。これが現在の高松城である。箆原庄はそのころ、アシやヨシの茂った海浜の漁村であったという。

 


	城の北は瀬戸内海に面しており、外濠・中濠・内濠の全てに海水が引き込まれた水城(海域)であった。海城は、攻め
	るに難く守るに容易で、城側にとっては海路を利用した物資補給・脱出路確保が可能で、しかも水攻めや水断ちといっ
	た手段が使えないという利点があった。特に高松城は城内に直接軍船が出入りできる構造となっていて、水軍の活用も
	考えた城郭だった。その築城の妙故に、縄張りを手がけた人物として、細川忠興、黒田官兵衛、小早川隆景、藤堂高虎
	などの名前が挙がっているがはっきりしない。今治城・三原城と共「日本三大水城」とも言われている。今でも堀には
	海水が引いてあり、潮の満ち引きにより水位が変化するそうで、稚魚で迷い込み成長したタイやスズキが泳いでいると
	案内板にあった。

	城下町として高松は発展していったが、生駒家はその後4代目高峻の時、お家騒動を起こして出羽(秋田)へ左遷され、
	そのあと松平頼重が12万石の藩主となった。初代城主松平頼重は、水戸黄門(水戸光圀)の兄で、宗家が徳川御三家
	の水戸藩であったところから、明治へ至る治世は親藩としての格式を誇って栄えた。以来、高松城は、生駒家4代54
	年、松平家11代228年の、歴代藩主の居城として、波静かな瀬戸内海を見下ろしてきたのである。三層五階の天守
	が瀬戸の海に映え、海上から見る城の姿は見事なものだったらしい。「讃州讃岐は高松さまの、城が見えます波の上」
	と歌にも歌われた。



この城は堀が海とつながっているので、潮の干満による水位調整のため水門が設けられている。




	藩祖・頼重は高松入府に際し「讃岐国は海辺の国なれば水練は武道の一班たるべし」と藩士の今泉八郎左衛門に命じ、
	高松城の濠を使い藩士の水泳指導を行わせた。頼重自身も内濠で水泳を行い、以来高松藩では水練が奨励された。高松
	藩の泳法は水戸藩の水術である「水府流」を基とした「高松御当所流」と呼ばれ、後に「水任(すいにん)流」を正式
	名称とした。現在も水任流保存会が頼重の追悼遊泳祭を行い、日本古式泳法の伝承に努めているそうである。





 






	明治維新後、版籍奉還により高松城は廃城とされた(1869:明治2年)。その後兵部省所管となり一時大阪鎮台分営が
	置かれたが、明治7(1874)年鎮台分営は丸亀へ移り、暫く空城であったが、明治治23(1890)、城跡の一部が旧藩
	主松平家に払い下げられ、さらに昭和20(1945)年、財団法人松平公益会へ継承、昭和29(1954)年高松市へ譲渡
	された。



 


	<披雲閣(ひうんかく)>
	松平氏11代228年間にわたり居城した時代に、政庁・住居として披雲閣を使用した。藩の政庁および藩主の住居と
	して建てられた建物の中には、142畳敷の大書院をはじめ、槙の間、松の間、そてつの間など雅致を生かした各部屋
	があり、波の間には、昭和天皇・皇后両陛下が2度宿泊した。建物は明治5年(1872)老朽化によって取り壊されてし
	まったが、大正6年(1917)、規模を半分にして再建された。再建披雲閣は現在高松市の所有となり公会堂として市民
	に開放されている。
       
 



披雲閣の右手に、高松城関係の資料を収蔵した平屋建ての資料館がある。









 

 







 

 

 



明治期の高松城。かってはここまで海が来ていた。まさに水城である。

 



 





 

 






	頼重の治世は32年におよんだが、讃岐松平2代目藩主として後を継いだのは光圀の子・頼常(よりつね)であった。
	御三家である水戸藩主となった光圀は、父の意向とは言いながら、長幼の序に反して家督を継いだ事を悔い、兄・頼重
	の次男である綱条(つなえだ)を水戸家の後嗣として養子に迎え、代わりに自らの長男・頼常を頼重の養子に出して讃
	岐高松藩の後継ぎとした。兄の名誉を回復する事を願った光圀苦心の策であり、頼重の血統に水戸本家を返上しようと
	したのである。これを契機として水戸家と讃岐高松家では代替わりの度に養子交換が行われるようになった。







 




	中央左に見えるのが天守閣跡(旧玉藻廟)。生駒氏の頃は三層だったが、松平氏時代の寛文9(1669)年頃に、三層
	五階に立て替えられ瀬戸内海に偉容を誇っていた。明治17(1884)年老朽化により取り壊され、その跡に松平頼重
	を祀った玉藻廟が明治35(1920)年に建てられた。高松市に譲渡された後は、ご神体は移され現在建物だけが残っ
	ている。







 




	<艮櫓(うしとらやぐら)>
	石塁上から大きく張り出す四隅の石落としが特徴的な艮櫓は、その名が示すようにもと東の丸に在ったが、払下げを
	受けた日本国有鉄道から高松市へ寄贈の際、旧太鼓櫓あとに移築された。北東の守りの要だったもので、三層三階・
	入母屋造・本瓦葺で、初層に大きな千鳥破風があるのが特徴。昭和25年に重要文化財に指定された。2代目藩主頼
	常は、初代頼重に引き続き高松城拡張工事を継続し、現在に残る月見櫓・艮(うしとら)櫓や新曲輪などが造営され
	た。讃岐松平家は頼重・頼常以後、3代頼豊、4代頼桓(よりたけ)、5代頼恭(よりたか)、6代頼眞(よりざね)、
	7代頼起(よりおき)、8代頼儀(よりのり)、9代頼恕(よりひろ)、10代頼胤(よりたね)、11代頼聰(よ
	りとし)と、228年に渡り高松を治めて明治維新を迎えた。






	総面積約8万平方mの城域内は、三層5階の天守閣が゙そびえ要所には、約20の櫓があってその威容をほこっていた
	という。現存するものは、良櫓、月見櫓、渡櫓及び水大手門だけ。縄張りは、本丸から右回りに二の丸、三の丸とつな
	がる渦郭式であった。瀬戸内海から流入する海水に往時の面影を残すものの、明治期の埋め立てにより外堀と中堀・内
	堀の西側に車道・鉄道が敷かれ郭が分断されている。

 


	高松城は現在玉藻公園となっている。別名で玉藻(たまも)城とも呼ばれるが、これは万葉集の歌人柿本人麻呂(かき
	のもとのひとまろ)が讃岐国(現在の香川県)の枕詞に「玉藻よし〜」と詠んだ事に由来するという。こっちの入り口
	がどうやら玉藻公園への正式な入り口のようだ。













栗林公園








	栗林公園は高松城(玉藻公園)から南に3Kmぐらい行ったところ、紫雲山の麓にある庭園で、江戸時代初期の生駒氏から
	松平氏5代に渡り約100年かけて造園された池泉式回遊庭園で、国の特別名勝に指定されている。栗林公園の起こり
	は、元亀、天正の頃当地の豪族佐藤氏によって、西南地区(小普陀付近)に築庭されたのに始まるといわれ、その後寛
	永年間(1625年頃)当時の讃岐高松藩主生駒高俊公によって南湖一帯が造園され、更に寛永19年(1642)入封した藩
	主松平頼重に引き継がれた。以来5代藩主頼恭公に至る100余年の間、歴代藩主が修築を重ねて完成されたもので、
	その後、明治維新に至るまで松平家11代228年間にわたり下屋敷として使用された。その後、明治6年の公園に関
	する太政官布達に基づき県立公園として定められ、藩政時代に「栗林荘」と呼ばれていたものが「栗林公園」の名で一
	般公開されるに至った。 










	栗林公園の面積は、背景の紫雲山(約59ha)を含め、約75haあり、特別名勝の庭園の中で最大の広さである。南庭
	と北庭にわかれ、6つの池と13の丘がある。南庭は、早くから築庭され江戸時代初期から中期に見られる回遊式大名
	庭園としてすぐれた地割り、石組みを有しており、北庭は元禄頃に造園され鴨場として使われていたが、明治の末から
	大正の初期にかけて整備改修された。廻遊式大名庭園とは、広大な土地を利用し、池泉や築山などを配し、めぐり歩く
	ことで空間を楽しむ様式をいう。栗林公園は、この日本庭園の粋を極めた空間構成技術に基づいたもので、一歩あゆむ
	ごと変化に富んだ庭景の数々が "一歩一景" と言われるゆえんである。 

 

 

小春日和の中、コゲラの群れが木々の間を飛び回っていた。




	学生時代を私は九州の博多ですごしたが、所属するワンダーフォーゲル部の行きつけのスナックが中洲にあった。そこ
	のママが高松の出身で店の名前が「りつりん」だった。入学して4年間、私はそこで飲んで一銭も払ったことが無かっ
	たが、卒業時に4年間のツケを一度に払わされた。もう金額は覚えていないが、一月のアルバイト代をそっくり差し出
	したような気がする。あれから30年だ。あのママさんはどうしているだろうか。


クリックすれば大画面になります。



		香川・高松城 天守閣復元へ、市が本格調査 <yomiuri-online>

		◇石垣内部も発掘
		日本三大水城・高松城(香川県高松市)の天守閣復元を目指し、同市が本格的な調査に乗り出した。現存する
		天守台の石垣を取り壊して内部を調査し、未解明だった天守閣の構造や内部を示す資料が出てくれば、念願だ
		った天守閣復元がかなう可能性が出てくる。

		◇20年越しの悲願、2010年までに着工目標
		高松城は一五八七年、讃岐領主だった生駒親正が築いた。領主四代と松平藩主十一代が二百八十二年にわたっ
		て居城したが、明治時代に版籍奉還に伴って取り壊された。その後、残された天守台の上に松平家が廟(びょ
		う)を建てて地表をコンクリートで覆い、天守閣への入り口の穴を石でふさいで階段を造った。現在はほかに、
		明治時代に建てられた別邸「披雲閣」と、門や堀、一部のやぐらなどが残る。

		同市は一九八〇年代から「高松のシンボルにふさわしい水城を復元し、観光客増加につなげよう」と天守閣復
		元を提案したが、天守閣の外観原形を示す資料が写真一枚しかなく、文化庁が難色を示していた。
		昨年、市が内閣府に構造改革特区の申請をしたのを機に同庁の姿勢が軟化。専門家を交えた委員会を設置して
		調査し、成果があれば天守閣復元を許可する可能性があるとしたため、市は今年一月、「史跡高松城跡整備検
		討委員会」を設置した。今年度は石垣保存と天守閣復元を専門とする二つの小委員会を新たに設け、天守台を
		囲う石垣の実測と解析を行う。
		市は来年度中に文化庁に申請して天守台の石垣を取り壊し、二〇〇六年度に地下の発掘調査を実施。得られた
		資料を基に市制百二十周年を迎える二〇一〇年までに天守閣復元の着工を実現させたいとしている。
		(2004年10月7日

		
		天守閣復元を目指して高松市が調査に乗り出す高松城跡(高松市提供)  



邪馬台国大研究ホームページ / 歴史倶楽部 / 高松城趾