【多武峰(とおのみね)・談山神社(たんざんじんじゃ)】
奈良県桜井市の多武峰は、飛鳥時代に中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏を倒す計画を練った所として有名である。言うなれば、大化
改新が始まった場所とも言える。中大兄皇子と中臣鎌足は、宮中の蹴鞠を通じて知り合い、台頭して権勢を延ばしつつあった蘇我
氏の勢いを止めようと画策し、ここでその談合を行った。それ故「談山」という名もこのことから起こっていると言われている。
「多武峰」も「談岑」「談武峯」などとも書かれていた。
大阪組は近鉄上本町駅に8:30に集合して、桜井駅に待つ奈良組と合流して9:45分発のバスで談山神社へ向かう予定だった
のだが、私が集合に遅れて、桜井に着いたのは10:00時前となった。次のバスは1時間後の10:45分だったので、4人と
3人に分かれてタクシーで「多武峰バス停」までと言うことになった。皆さんにいらん出費をさせてしまった。
新規会員の小川さん(上左)。友達と二人で参加する予定だったが、友達は参加取りやめとなって一人で参加。新たな倶楽部のアイドルとなるか?
タクシーを、バスの終点ひとつ手前の多武峰バス停で降りる。多武峰談山神社へは、終点の「談山神社」まで乗ったほうが近いが、
多武峰バス停から杉木立に囲まれ中を歩いていく方が気持ちがいいし、元多武峰寺の境内も歩けて、より歴史が感じられる。歩い
ても15分ほどしか違わない。屋根の付いた屋形橋を渡ってバス道を少し行くと、享和3年(1803)建立の東大門が見えてくる。
ここが、元多武峰寺の境内を通って談山神社正門へ至る坂道と、駐車場から即正門へ至る道との分岐である。
談山神社を出て、飛鳥への道を歩き出した辺りに西大門があるが、そちらにはもう門はない。門の柱を支えていたと思われる石柱
だけが残っているが、この東大門の扉は、まるでお城の門のように頑丈で堅固だ。
相当な樹齢を持つと思われるみごとな杉木立のなかの坂道沿いには、かって寺の建物が並んでいた石垣が点在している。元多武峰
寺の跡である。かつてここに建ち並んでいた伽藍が目に浮かぶようである。坂道をしばらくゆくと、左に鎌倉時代作の魔尼輪塔(ま
にりんとう)が立っている。八角柱の石塔の正面に、大日如来の梵字を刻んだ円盤が付けられている。こんな石塔は初めてだ。あま
り例がない珍しいものである。「妙覚究竟摩尼輪」と刻まれ、重要文化財になっている。
坂道沿いに土産物店や観光ホテルが立ち並ぶ。河内さんは「こんにゃく串」をパクついている。道沿いにムクゲの花が咲き誇り、
植物に詳しい錦織さんが新人の小川さんに「これは無窮花と書いて、ムグンファと呼ぶんよ。韓国の国花にもなってる。」と説明
している。途中の広場のような所に「談山神社」の由来を書いた大きな石碑が建っていて、こんにゃく屋のオヤジが見ていけと言
う。ここを過ぎると程なく談山神社の正門入り口だ。
入山料500円を払って境内に入る。紅葉の時期には、写真を撮る人や紅葉狩りの人々で賑わっているらしいが、今日は人出はさほど
多くない。鳥居をくぐり石段を上っていくと、本殿へ昇る直前で右側に小さな鳥居があって、東殿、三天稲荷神社への道が延びて
いる。恋の神様として鏡王女が祀られている。
【鏡王女】
ハッキリしたことは分からない女性である。通説では鏡王(かがみのおおきみ)の娘で、額田王(ぬかたのおおきみ)の姉とされてい
る(武田祐吉校注「萬葉集」)が、それをハッキリと記録した文献や史料は見当たらないようである。日本書紀に、天武12年(683)
7月に天武天皇が病気の鏡王女を見舞い、その翌日鏡王女は亡くなったとの記事があるが、天武天皇と鏡王女が恋愛関係にあった
のではなさそうである。危篤の鏡王女を天皇が見舞いに行くのだから、恋人でなければ係累である。万葉集には藤原鎌足との贈答
歌、天智天皇との贈答歌があり、興福寺縁起には鎌足の嫡室とあるので、中大兄皇子の寵愛を受けた後、鎌足が正室とした皇子女
の一人だったのかもしれない。鏡王女の墓が奈良県桜井市忍阪(おしざか)の舒明天皇陵の域内にある点も、それを推測させる。
三天稲荷神社から石段へ戻ってきて本殿と拝殿を参観する。まだ咲き誇っているアジサイの花と石灯籠の間を抜けて本殿へ昇る。
社殿は極彩色の朱塗りで、楼門と透廊が本殿と拝殿を連結している。永正17年(1520)の創建で、朱塗りの舞台造り、周囲に廻
縁をめぐらし勾欄を備え、釣燈籠が並んでいる。中央の間の天井には、唐から輸入したという香木伽羅(きゃら)を用いていると
説明にある。殿内は宝物殿も兼ねており、多くの社宝が展示されている。 靴を脱いで社殿の中にはいると、有名な多武峰縁起絵
巻が置いてある。教科書や歴史図鑑では必ずお目に掛かる代物だ。鎌足誕生や中大兄皇子との密談の場など、まじまじと見入る。
入鹿討伐の首切り現場のシーンなどは生々しい。首のない入鹿の骸が運ばれていく絵もある。これはどうやら鎌足の一生を描いた
絵巻物のようだ。
【大化の改新(乙巳の変)】
蘇我馬子の死後を継いだ蝦夷・入鹿父子は政治を私有化し、勅許もなく入鹿に紫冠を与える。既に推古天皇は没し、
皇位は舒明天皇から皇極天皇に移っていたが皇太子は未定であった。蘇我氏は蝦夷の妹・法堤郎女(ほていのいら
つめ)を母とする古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)を皇太子にと画策する。対立候補は、皇極天皇の子、
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と、聖徳太子の遺児、山背大兄王(やましろのおおえのおう)が有力だった。
しかし入鹿は643年山背大兄王を暗殺し、聖徳太子の血統は絶えていまう。さらに入鹿は翌年飛鳥宮を見下ろす甘橿
丘(あまかしのおか)に館を造営し、その権勢は天皇をも越えようとしていた。
中大兄皇子は、自身にも及ぶ蘇我氏の陰謀を警戒しながら、ひそかに蘇我氏打倒の機会を狙っていた。ある日、蹴
鞠の会で靴を飛ばした皇子はその靴を拾ってくれた人物、中臣鎌足(なかとみのかまたり)と知り合う。鎌足もま
た蘇我氏の暴挙を憂えていた一人だった。二人は密かに会合を重ね、蘇我氏打倒の計画を練る。その会合に使われ
たのがここ多武峰である。
蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ)を味方に付け、645年6月12日、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)の大極
殿で、中大兄皇子が入鹿を殺害する。中臣鎌足は軍勢を指揮し、甘橿丘の邸宅にいた入鹿の父蝦夷を攻めた。翌13
日、観念した蝦夷は自害し邸宅には火が放たれた。ここにクーデターは成功し、これを「大化の改新」または「乙
巳(いっし)の変」と言う。
翌年、皇極天皇は退位し上皇となり、皇極天皇の弟・孝徳天皇が即位し、皇太子に中大兄皇子がつく。中臣鎌足が
新設された内臣(うちつおみ)に就任し、左大臣に阿倍内麻呂(あべのうちまろ)、右大臣に蘇我石川麻呂、国博
士(くにのはかせ)に遣隋使として留学した旻と高向玄理が就任した。そして9月には古人大兄皇子も討たれ、蘇
我氏は完全に政権から排除された。年の暮には都は難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)へ移された。
適当に涼しい風が吹き込んで爽やかな本殿の大広間。みんな寝っ転がって「ここが儂の家ならええなぁ。」「ここで紅葉見ながら
冷酒でも飲んだらたまらんで。」「何人か美女でも侍らせて?」「ええなぁ。」 全くバチあたりどもばかりだ。
舞台造りの拝殿外廊に下がる金灯籠が美しい。その反対側(背中側)の外廊に立つ小川さんと服部さん。
中大兄皇子と中臣鎌足との出会いとなった蹴鞠(けまり)も勿論展示してある。
「三方にらみの藤原鎌足公画像」(中央・鎌足、左・次男不比等、右・長男定慧)。この談山神社は公式には、鎌足の死後、定恵
が不比等と図って父を葬ったということになっている。中臣鎌足は、大化の改新後「藤原」の姓を賜り、我が国では鎌足だけとさ
れる「大織冠」という位を授けられて、以後延々と天皇の側に仕えて、その血脈は現代まで続いている。藤原家家系図一覧という
小冊子が売っていたが、見ると井上も藤原家から分派した一族になっていた。当日参加した7人の内5人までがみんな藤原家一族
という事で記載されており「これだけあったらみんな藤原やで」。
【談山神社・十三重塔 】
談山神社の起源は、白鳳7年(678)に鎌足の長男・定慧が、父の供養のために摂津・阿武山に埋葬されていた鎌足の遺骨をこの地
に移し十三重塔を建立して妙薬寺(多武峰寺)を創建した事に始まると言われている。701年に神殿が創建され、藤原氏の繁栄に
伴って長らく神仏習合の形で隆盛してきたが、明治時代の神仏分離令で寺が廃止され、談山神社として今に至っている。現存の十
三重塔は享禄5年(1532)の再建で、木造の十三重塔としては、現存する唯一のものである。鎌足の墓(塚)は裏山の御破裂山頂
上にある。十三重塔と言っても、いわゆる京都や奈良の五重塔などのように、中へ入って階段を昇っていけるような塔ではなく、
大きめの卒塔婆(そとば)、つまり供養塔である。
この神社は近辺の明日香や吉野に、「とうのみね」と彫られた江戸時代以降の石造道標が多く立っていることから考えても、かっ
て多くの参拝者が訪れていたことが推測される。御破裂山の山上に近い談山神社から山麓にかけては、この神社ゆかりの聖林寺や
日本三文殊に数えられる安部文殊院なども存在し、飛鳥時代、大化の改新の雰囲気を感じさせてくれる。拝殿・十三重塔を経て、
談い山(かたらいやま)へ向かう。
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