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須恵器の里を歩く − その4 −



	縄文土器が世界で一番古い土器だというのは有名である。日本人は1万年以上前から土器を製作していた。人類は土器を持
	った事でそれまでの食生活、ひいては生活全般を改善していったものと考えられる。非常に面白いのは、ほどなくヨーロッ
	パなどでも土器が発明されるが、同じような時期、同じような土器が見受けられるという点である。縄目こそ無いものの、
	英国のストーンヘンジから発掘された土器は、我が国の縄文中期の土器とよく似ている。勿論全てが一様にと言う訳ではな
	いが、時代性というものは、地理的要因を無視して、何か普遍的なものを持っているような気がしないでもない。
		


 

 


	さて、我が国の土器は、縄文、弥生、古墳時代初期(土師器)と変革を遂げ、5世紀になると朝鮮半島を経由して、新しく
	「須恵器」(すえき)が移入される。
	須恵器の源流は、中国古代(殷代)に生まれた灰陶(かいとう)の系譜を継承する陶質土器で、その技法は朝鮮半島を経由
	して、おそらくは渡来人により、機織り、鉄製品などとともに我が国に伝わったと思われる。朝鮮半島南部の新羅で焼成さ
	れた古新羅土器がわが国の須恵器の製造に影響をあたえたことは間違いない。おそらくその時期は五世紀と考えられる。
	5世紀当時の我が国の土器は、縄文、弥生の系譜をひく土師器(はじき)が主流で、素焼きの土器であった。その製法は、手
	でこねた粘土質の土器を、低温の野火の中に入れ焼き上げる原始的なものである。そこへ、ろくろを使って土器を整形し、
	登窯(のぼりがま)による高温での焼成という、新しい技法を伴って、須恵器が伝えられた。7〜800度の温度で焼くそれ
	までの土器はもろく壊れやすかったが、須恵器は1000〜1200度での燃焼のため堅く、焼き上がりの表面もゴツゴツ
	していずなめらかである。以来、古墳、奈良、平安の各時代にわたって、古代日本の主要なやきものとして生産されつづけ
	られる。平安時代に入ってもその生産は盛んで、日常什器として広く使われていた。器種としては食器類の杯・椀・皿など
	が中心である。その後に生まれる施釉陶や六古窯などの中世陶器にも、その技術は継承されている。
		
 

 

 


	須恵器を用途で大別すると、貯蔵用、供膳用、祭祀用に分かれる。貯蔵用としては各種の甕、壺の類があり、これらは時代
	の変化をあまり受けることなく、普遍的な形で各時代を通して作られている。壺に関しては、口頸部の変化に従って数種の
	器形に分けられる。
	口頸部が大きく外反する広口壺、口頸部が上方へ直立した形の直口壺、口頸部の短い短頸壺、反対に長い長頸壺など、たん
	に貯蔵用とばかりでなく、液体を注ぐ器や祭器として考えられるものもある。 
	瓦泉(はそう)は、その体部に小穴を穿った壺で、実用品としてより供献用の特殊な土器として、須恵器の初期より作られ
	ており、その時代的変遷をとらえやすい。時代が下るに従って、太く短い頸部の形が、次第に細く長くなっていく。ほかに
	も壺の変種として提瓶、平瓶などがあり、寺院などで用いられた特殊な什器が一般化したものと思われる。平瓶は把手をも
	つものが新しい形式で、8世紀頃には大衆化し、平安時代まで使用された。 
	装飾土器は、古墳から一番多く出土し、器台と装飾壺の複合土器であり、6世紀の西日本の古墳を中心に、墓前や石室内部
	に副葬供献された。





 

 



 

 

 

上記左は、須恵器に特有の「はそう」である。(漢字では「瓦」と「泉」を1文字にしたもの)








	今日全国で、「須恵器の里」と銘打つ場所は数多い。「須恵」や「陶(すえ)」と言う名前がそのまま残った所もある。その
	ほとんどの地に須恵器の窯跡が存在している。埼玉児比企郡鳩山町須江、岐阜県各務原市須衛、石川県金沢市末町、滋賀県
	蒲生郡竜王町須恵、岡山児邑久郡長船町西須恵、松江市大井町(池の奥4号窯跡)、京都市左京区岩倉(栗栖野瓦窯跡:国
	史跡)、岐阜市芥見(朝倉窯址・老洞窯址)等々列挙にいとまがなく、四国、九州地方にも「須恵」の地名は多くみられる。
	また「陶(すえ)」の地名は岐阜・愛知、・大阪・山口・香川などに散在している。私は今大阪府の吹田市という所に居住し
	ているが、何と私のマンションから歩いて5分ほどの所にも須恵器の窯跡がある。「吹田32号須恵器窯跡」と呼ばれ、こ
	の一帯は須恵器の一大産地で、5紀初頭に朝鮮半島から日本列島に須恵器が伝来してまもなくの頃の窯跡だと言う。吹田市
	博物館に行くと、その復元模型が実物大で展示されている。

	登窯とろくろの完全な利用は陶質土器を大量製造し、その焼成技術と大量生産からみて専業の職人集団が存在していたとみ
	られ、大分県の北部豊前一帯は台地周辺に多数の登窯がある。大宝2年(702)の戸籍(正倉院)の氏族構成には「勝」
	「秦部」がみえ、これらは、新羅(辰韓)からの渡来者とみられ、窯業などの技術者を含む集団であった可能性は強い。ま
	た、初期窯跡遺跡に隣接する墳墓から出土する多くの遺物は、殆どが朝鮮南部の加羅、新羅のものと同一であり、被葬者が
	渡来人であることを強く示唆している。

 



 

 


	また、全国に15万とも20万あるとも言われる古墳であるが、ここから出土する土器は殆どが須恵器である。高坏、器台、
	装飾壺、あるいはそれらの複合土器であり、全国どこへ行っても同じような須恵器が古墳に副葬されている。どうしてここ
	までそっくりなんだと思える土器が、主に6−7世紀の西日本の古墳を中心に出土している。また昨年、「加羅・新羅の旅」
	と称して韓国南西部を旅した時に見た古墳の須恵器は、全く日本の古墳から出土したものと同じであった。(歴史倶楽部H
	P、「日本人の源流を求めて」のコーナー参照。)
	これらの事実は、「須恵器=渡来人=古墳築造=・・・」という図式を思い浮かばせる。・・・の部分は人により色々であ
	ろう。「製鉄」であったり「機織り」であったり、或いは「騎馬民族」「天皇」であるかもしれない。出土する須恵器のな
	かには、明らかに中央アジアの遊牧の民に源流をもつと思われる須恵器、皮袋形器や角杯形などがある。江上波夫博士が古
	墳築造の民を「騎馬民族」と想定したのもうなずける。



 



 

 

 





 

 

 








	以下の文章は、「科学する邪馬台国」の中の、「X線で探る弥生土器の道」のコーナーで紹介したものである。既に読まれ
	た方もあるかもしれないが、「須恵器」に関しての科学的な分析という事で再度掲載したい。

	【さて土器についての研究であるが、先述したようにぼちぼち形状や大きさなどという形式による分類ばかりではなく、自
	然科学の力をかりて材質や製作産地の特定を行ってもいい時期である。奈良教育大学の三辻利一教授は、「エネルギー分散
	型蛍光X線分析法」という方法を用いて土器の科学的な分析を行っている。

	土器の産地を知ろうとする場合、まず考えられるのはその材料即ち粘土である。焼いて土器を作るのに適した粘土はそここ
	こにあるわけではない。現在でもいい土は窯元が争って入手している位だから、古代に置いてはいい粘土のとれる所が土器
	の生産地であったはずだ。従って、各地の窯跡付近の粘土を採集してその成分を調べておけば、発掘された土器の材質と照
	らし合わせて産地が特定できるかもしれない。含まれる鉱物の種類や含有率で、或程度産地を特定できる可能性もある。
	しかし、土器はその製作過程において高温が加えられており、熱を加えれば殆どの鉱物は熱変成し(石英は変化しない)て、
	まるで異なる鉱物となる。そこで元素段階での分析が必要となってくるのである。

	教授の用いている方法は、土器にX線を照射して発光するX線の波長を調べることにより、土器の化学的な組成を知ろうと
	するものである。物質は、X線を浴びると元素によって異なる波長のX線を発光する。この性質を利用した分析方法である。
	三辻教授はこれまでに、土器や粘度約6万点をこの方法で分析している。そして、弥生式土器より少し時代の新しい須恵器
	を用いての産地特定に成果をあげている。須恵器は、古墳時代に朝鮮半島から伝えられた土器で平安期まで用いられている
	が、初期(5〜6世紀)の窯跡はごくわずかである。中期以後の窯跡は全国至る所にあるが、初期の窯跡は、7,8カ所し
	かない。従って産地を特定するのには、初期須恵器の分析はもってこいなのである。教授の分析の結果、以下のような点が
	判明した。

	@ 東北・関東地方の粘土は、西日本に比べカリウム(K)、ルビジウム(Rb)が少ない。
	A 関東においては、日本海側のほうが太平洋側に比べK、Rb が多い。
	B 関東においては、沿岸部より内陸部にK、Rb が多い。
	C 中部地方では、太平洋側を東へ行くごとにK、Rb が少なくなっていく。
	D 山陰地方は、山陽側に比べるとカルシウム(Ca)、ストロンチウム(Sr)が多い。
	E 四国の瀬戸内海に面した地方では、山陰・山陽に比べてRb、Kが少ない。
	F 九州北部でも、佐賀・福岡・北九州という所はK、Sr が多いのに、少し南の窯跡がある甘木・朝倉地方にはRb、K、
	  Sr とも少ない。

	これらの違いは、当然地質が形成された時のマグマの成分にまで遡るのであろうが、少なくともルビジウム、スチロンチウ
	ム、カリウム、カルシウムといった元素達が、産地を特定するための元素として十分有効である事が判明したのである。時
	には鉄(Fe)も有効な元素になる。更に詳細な判別が必要な時には、「中性子放射化分析法」を用いてランタン(La)な
	どの元素も測定される。これらの分析法は、現在では土器だけでなく、地層中の火山灰の分析にも応用されている。

	先述の、初期須恵器窯跡で現在発見されているのは、大阪陶邑窯跡郡(堺市)、猿投窯跡(名古屋市)、朝倉窯跡郡(福岡
	県甘木市)、新貝窯跡(福岡市)、神籠池窯跡(佐賀市)、宮山窯跡(香川県三野町)、大蓮寺窯跡(仙台市)などである。
	これらの各窯には化学的に明瞭な特徴があって、分析した須恵器はほぼどの窯跡で生産されたかが特定できた。大阪産と九
	州産は元より、隣接する北部九州内の新貝(福岡)と朝倉(甘木)、朝倉(甘木)と神籠池(佐賀)なども完全に区分でき
	たのである。
	この方法は今のところ、窯跡が少ない須恵器でのみ実験されているが、弥生土器の判別にも十分応用できるはずである。少
	なくともこの方法が、目でみた分類である編年法に加えて、科学的な土器の区別方法を付け加えたと言っていいだろう。

	教授の研究についてもっと詳しく知りたい人には『古代土器の産地推定法』三辻利一著:1983年 ニューサイエンス社刊をお
	薦めする。】

 

 



	現代の陶器は勿論の事ながら、中世・近世以降の陶器や白磁・青磁などはファンが多い。古代の土器で言えば縄文土器にも
	ファンが多い。しかし弥生土器や土師器などはあまりファンはいないようである。中でも、須恵器は余り人気がない。縄文
	土器は欲しいという人もいるが、須恵器を欲しいという人にはまだお目に掛かった事がない。源流を中国に発し、朝鮮半島
	を経てきて、丘陵の斜面をくりぬいて造った窯の中で高温で焼かれたこの硬い土器は、私見によれば日本の礎が固まったと
	される古墳時代に一番用いられた土器である。
	煮炊きには使えないが、脆く割れやすかったそれまでの土器に比べれば、堅く割れにくい器(うつわ)として、その他の多
	くの新しい技術とともに日本に伝わってきた。

	そのような日本の陶芸史上重要な位置を占めたはずの須恵器であるが、なぜか人気がない。古代史ファンにも、古陶磁器愛
	好家にも、ほとんど関心をもたれないのはなぜなのだろうか。
	まず色と形。還元焔による焼成技法からくる青灰色の器肌の地味な色合い。形の豊富さは縄文や弥生の土器にはみられなか
	ったものも多くあるのだが、あまりにも没個性的とも言える画一性。おそらくは青灰色の色合いからくるのだろうが、なに
	か冷たさを感じさせる見た目の印象。このあたりに須恵器の不人気な原因があるように思える。それと、実は私には須恵器
	不人気の原因として考えられる点がもう一つあるのだが、まだ論考がまとまっていないのでここでは控えておく。







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