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須恵器の里を歩く − その2 −


	資料館の入り口を入ったところに鴟尾(しび)が置いてあった。だいぶ修復してあるが、本物である。鴟尾と言えば屋根の
	両端に飾るモノで、鯱(しゃちほこ)のデカイやつであるが、普通は寺院跡とか豪族の館跡とかから発掘される。墓(古墳)
	から発掘されたなどというのは初めて見た。

 

 








	我々は5月に、池田市の歴史民族博物館に置いてあった「五月が丘古墳」出土の陶棺を見たが、そう言えば豊中の古墳と関
	係があると書いてあったような。



 

 


	焼き物の歴史という事でここに大阪城関係の出土品が置いてあるんだろうか。なんでやろ。



 



 


	展示室は第一から第四まであって、第一展示室は泉北地方の歴史と、焼き物を中心に各時代ごとの解説がある。後は焼き物
	の歴史や種類が解説してあって、第四展示室が「須恵器」展示室である。

 


	ほんとに丘陵地帯だ。昔も今も丘陵というのは人が大勢住む所なのだ。私が今住んでいる所も千里丘陵である。人々は、洪
	水や猛獣がうろうろしている低地を避けて小高い丘の上に住居を構えたのか。

 

 





 




	国府(こう)遺跡の出土品は、大阪の古い博物館や資料館には必ずある。関西大学の博物館には結構あった。丸い小さなつ
	ぶつぶが土器の表面に貼り付けてあるのは、近畿でも大阪の遺跡に多いようだ。河原さんは「気味が悪い」と言っていた。
	なんでやろ。



	
	泉北、大阪狭山市一帯は、昭和40年代以降にベッドタウン化されて急激な人口増加をみた。近年でも住宅開発は引続き盛ん
	である。現在判明している遺跡の多くは、これらの大規模開発時代にその殆どが発掘調査されているが、現在でも、その頃
	に建設された木造住宅の建替えや増改築が行われる時期にさしかかっており、これらに伴う埋蔵文化財の発掘届の提出件数
	にもほとんど減少の兆しはみられない。持続して発掘調査は行われていくだろう。泉北丘陵と羽曳野丘陵に挟まれた間に、
	幾筋かの南北方向の谷筋が走っていて、これらの谷筋から、旧石器時代・縄文時代の打製石器が数カ所出土している。

  


	古墳時代中期、泉北丘陵を中心にその造営が展開された陶邑窯跡群が東方へとその域を拡大した結果、大阪狭山市西端に相
	当する陶器山丘陵とその北側の高位段丘の斜面に須恵器窯が数多く築かれた。古墳時代後期の6世紀中葉〜後葉になると、
	陶邑窯跡群は、さらに東方へとその域を拡大し、泉北地域の至るところの中位段丘崖に窯を築き、須恵器生産を行うように
	なる。7世紀前葉〜中葉になると、窯焼きの燃料である薪や窯を築く斜面が不足したようであり、6世紀末〜7世紀前葉に
	築造されたばかりの狭山池の池の水を堰き止める堤の外側斜面のような、窯を造営するには不適当な箇所にまで窯を築くよ
	うになる。





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