Music: 雷鳴

関ヶ原古戦場
2004.02.22(日) 岐阜県不破郡関ヶ原町





 


	昨日今日と、会社の社内旅行が熱海であった。金曜の晩から東京のホテルに前泊し、翌土曜の朝に本社前に集合して東京組と一諸に
	バスで熱海へというコースだ。途中御殿場で高原ビールの飲み放題などを楽しみながら熱海到着。例によっての宴会・酒盛りのドン
	チャン騒ぎで夜は更けた。若い連中からは「今時、なんで熱海?」という声も聞かれたが、そもそも、もう社内旅行などを行ってい
	る会社自体がマレらしい。まして宴会などと言うと、若い女の子達は「セクハラの根元」と敬遠する。
	ま、そんなわけで本日は東京組は再びバスで東京へ、大阪組は熱海から新幹線で帰阪という事になった。行く前から、帰りにどっか
	寄っていこうとは思っていたのだが、今回は名古屋でおりて関ヶ原に寄ることにした。古代史とは関係ないが(関係なくもない。こ
	こは壬申の乱の合戦場でもある。)、ここは昔から一度行ってみたかった。なんと言っても「天下分け目の関ヶ原」である。どんな
	ところで家康と三成が対峙したのか。島津義弘はどうやって関ヶ原から薩摩へ逃げ帰ることが出来たのか。前から機会があれば一度
	はこの目で見たいと思っていた。雨が降りそうで若干心配だったが、何とかもってくれた。私が関ヶ原によると言うと、大阪の若手
	達は一斉に「タフですねぇ。」と呆れていた。(おまえ等が弱いんだよ!)



上左の千社札は、「関ヶ原町歴史民俗資料館」で売っていた「参戦武将千社札」。
東西の参戦武将44人分が揃っている。1枚50円。家康と三成と2枚買った。












	美濃国関ヶ原(岐阜県不破郡関ヶ原町)は、北に伊吹の山々、南を鈴鹿山脈に囲まれ、東西に約4km、南北に約2kmの標高12
	3mの高原地帯である。今から、およそ400年前の慶長5年(1600年)9月15日、ここに徳川家康率いる東軍7万4千と、石田三
	成を総大将とする西軍8万2千の兵が集結した。東西併せて16万の兵が、この日この狭い高原盆地にひしめいていたのである。早
	朝には16万だった兵も、戦闘がほぼ終結した午後3時には10万5千に減っていた。7時間ほどで5万の命がこの地で果てたこと
	になる。この地が歴史的野戦の舞台となったのは、東西に中山道が貫き、西北に北国街道、南に伊勢街道に通じる交通の要所であり、
	戦略的価値が大きいからと言われるが、家康は城攻めは不得手で、こういう平野で闘う野戦のほうが得意だったので、家康が三成を
	関ヶ原へ誘い込んだのだと言われている。
	(戦死者の数は推定。)朝霧の中に始まり、夕風とともに終結した僅か数時間の闘いだったが、16万人のつわものたちにとっては
	長い長い一日だったことだろう。敗走した将兵の多くは行方知れずである。おそらくは町人・百姓となって徳川の300年を生き抜
	いて行ったのだろう。歴史はこの合戦の戦死者の数さえ、正確には伝えていない。

 


	この地は1300年前にも壬申の乱の舞台となっている。吉野を出て伊勢を廻ってきた大海人皇子(後天武天皇)と、その甥で天智
	天皇の息子大友皇子(弘文天皇)がこの地で闘っているのである。敗れた大友皇子はこの地で自害したと言われ、その頭を埋葬した
	という「自害ケ峰」という場所もここにある。
	現在の関ヶ原町は人口約9,200人の、一面田畑が広がるのどかで静かな町である。冬場は観光客も少ないそうだが、それ以外の季
	節には結構歴史ファンが集まってくるらしい。桃配山や笹倉山などに登ってみると、そんなに広い盆地ではないのがよく分かる。
	16万がここにひしめいているのはさぞ壮観だったろうと思われる。しかし関ヶ原の戦いにあたっては、住民は合戦により田畑を荒
	らされ家は焼かれ、戦後も後始末のために半年も労役に狩出され大変な苦役を強いられた。権力の覇権争いで迷惑を被るのはいつの
	世も一般大衆である。


 


	新幹線を名古屋で降りて、東海道線を大垣まで新快速で30分ほど行く。大垣で米原行きの普通電車に乗り換えて2つ目が関ヶ原で
	ある。普通電車は1時間に2本くらいしかないが、名古屋から1時間あれば十分これる。駅前にはタクシーがあって、古戦場めぐり
	のコースも、1時間半、2時間半、3時間半と揃っているが、時間とコースは運ちゃんと相談すればおまけや追加料金やらで適当に
	廻ってくれる。私も弘文天皇の「自害が峯」もおまけで付けて貰った。時間があって、季候の良い春や秋なら、自転車や徒歩でゆっ
	くり巡るのも良い。弁当を持って朝から古戦場めぐりをしている親子連れも夏には結構いるそうだ。「夏休みにオヤジがセガレに歴
	史を教えてるんでしょうねぇ」とは、乗せて貰った運ちゃんの話。

 








	1600年9月15日早朝、前日美濃赤坂を発った徳川家康率いる東軍7万4千の兵と、石田三成をリーダーとする8万2千の西軍は、
	前夜からの濃霧のため見通しが利かないここ関ヶ原に陣を構えていた。午前8時頃、ようやく霧が晴れたのを見て井伊直政、松平忠吉
	がまず出陣して宇喜多秀家の隊に向かった。これを見た福島正則の隊は先鋒として遅れてはならじと宇喜多の隊に一斉射撃を開始する。
	これが戦闘の火蓋である。先鋒ではないと本田忠勝に咎められた井伊直政、松平忠吉の隊は矛先を島津へ向けた。東軍右翼の黒田長政、
	竹中重門、細川忠興らの隊は一斉に石田光成、小西行長の隊を攻撃。左翼の藤堂影虎、京極高知の隊も大谷吉継の隊と交戦。たちまち
	関ヶ原全体が戦いの中に包まれ、戦いは一進一退西軍がやや有利であった。家康は、最初桃配山にあったが、午前10時頃陣場野へ陣
	を進め全軍を指揮した。松尾山の小早川秀秋は、焦った家康に鉄砲を自陣へ撃ち込まれ、あわてて正午頃西軍に反旗を翻して大谷吉継
	の隊を攻撃した。これを見た脇坂安治、朽木元綱、小川裕忠らも小早川に同調し、三方から攻められた平塚為廣、戸田重政は相次いで
	討ち死にし、大谷吉継も自害して果てた。小早川の裏切りで大谷の隊が壊滅すると形勢は逆転し、ついで小西行長、宇喜多秀家の隊も
	敗走し、石田光成の隊も奮闘したがついに敗走した。最後に残った島津義弘(維新)の軍は、僅か200に足らぬ兵で義弘を護り、敵
	中を強行突破して薩摩へ逃げ帰った。戦闘が完全に終結したのは午後3時頃だったという。



桃配山(家康最初の布陣地)

 



 

 

 


	秀吉の死後、天下をねらう家康は、会津の上杉景勝に謀反の兆しありと兵を東へ進めた。これを機として三成が挙兵する。すると家康
	は直ちに兵を反転させる。家康が東征すれば必ず三成が兵を挙げると踏んだ家康の陽動作戦だった。三成を中心とする西軍の拠点は大
	垣城である。今はビルの谷間になっているが元々は要塞堅固で有名な名城であった。東軍の先鋒は岐阜城を攻め落とした。東軍は全勢
	力を、大垣の西北、赤坂お勝ち山に結集させた。大垣城を無視して、秀頼のいる大坂城へ攻め入らんとする勢いであった。西軍三成は
	これを見て籠城作戦を捨て、城を出て、東軍の先を越して要害の地、関ヶ原で決戦を挑むという作戦に出たのである。9月15日午前
	2時、野戦を得意とする家康は、この知らせを聞いて飛び起き、「してやったるかな」と小躍りしたと言う。




	東軍も直ちに西軍を追った。夜陰に乗じ山沿いの脇道を行く西軍。松明を掲げ、敵にその姿を誇るように中山道を行く東軍。鎧をも貫
	くような肌に染みいるにわか雨の中を、三成は兵を進めて関ヶ原の西北、笹尾山に陣をしいた。一方家康は、関ヶ原の東のはずれ、桃
	配山(ももくばりやま)に本陣を定めた。両本陣の間は約4kmである。開戦直前の両軍の配置を見ると、西軍は笹尾山の三成をはじ
	め、いずれも戦場を見下ろす丘陵に布陣している。対する東軍は吸い寄せられるように狭い盆地にひしめいていた。配陣の戦術的な立
	場から言えば、明らかに西軍の勝ちであったと言われる。


	午前8時、ようやく霧は晴れようとしていた。流れる霧の合間に、両軍の旗が見え隠れする。東軍の本陣桃配山では、気負い立った一
	人の旗本が、馬に乗ったまま家康にぶつかりそうになった。やにわに刀を抜いた家康は、斬りそこねて小姓のもつ旗さしものの竿を斬
	ったと言う。沈着な家康も、さすがに殺気だっていたのである。




丸山烽火場(黒田長政・竹中重門陣地)

 



 









福島政則陣地



 

 







松平忠吉・井伊直政陣地跡

 

 





床几場(家康最後の布陣地)


	午前10時過ぎ、戦況は西軍が有利であった。東軍はしばしば後退を繰り返し、桃配山の家康を苛立たせた。11時過ぎ、家康は遂に
	桃配山を捨てて前線へ陣を進めた。後に床几場(しょうぎば)と呼ばれ徳川幕府の聖地となった家康の陣は、三成の笹尾山から数百m、
	まさに最前線と言っていい場所だった。



 



 







笹尾山・石田三成陣地


	笹尾山に石田三成は布陣した。合戦が始まるまでの西軍の陣取りは、大坂から近いだけに非常に有利であった。三成は合戦の10日
	前位までは勝利を確信していたと言われている。しかし先制布陣であった西軍の陣取りというものは、いわば西方の各武将が勝手に
	陣を取ったもので、厳しい命令統制によったものではない。中にはほとんど戦う意欲のない武将も少なくなかった。形式的な西軍の
	総大将である毛利秀元をはじめ、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)、長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)なども、一応三成に呼
	応して参戦はしたものの、いわば傍観者であった。小早川秀秋は東軍と密約しているし、脇坂、朽木といった天満山の中腹にいた連
	中も東軍からの誘いを受けていた。こういう連中が、合戦が始まっても全然動こうとしないのだから、これはもう戦力ではない。







	島左近(しまさこん:?−1600)。名は勝猛(かつたけ)。対馬の出身で、父友保の時から筒井家に仕えていた。資質ただならず、幼
	少より「孫子」「呉子」を読んで兵法に通じ、剣刀にも長けていた。その性格も激しく、ある時主人の筒井順慶が酒色に溺れるのを諫
	めたが聞き入れられず、憤慨して筒井家を飛び出した。秀吉に仕えようとしたが、斡旋した石田三成が左近を気に入り、自分の俸禄4
	万石から1万5千石を左近に渡すからと乞われて三成に仕官した。左近は早くから家康の謀略を見抜き、家康を暗殺する事を三成に勧
	めていた。しかし三成は家康を討つのは私闘ではなく大義であると考え、左近の家康毒殺案にも乗らなかった。左近は大義より、とに
	かく首謀者を殺害すれば本望は達成されると思っていたようである。いざ合戦となったときの三成の不人気や統率力の無さを、誰より
	も見抜いていたのではないかとも考えられる。いざ関ヶ原の決戦においても種々進言したが入れられず、もはやこれまでと奮闘して討
	ち死にし、三成の知遇に応えている。我が歴史倶楽部のメンバーには、リタイヤした人が3分の1ほどいる。彼らが、サラリーマンに
	とって何が一番大事かという問いには、皆が皆、声をそろえて「上司」と答える。島左近も、いい主人に付けば、一国一城の主になっ
	ていたと思える人物である。俗に、巷間囁かれた言葉として、「治部少(じぶしょう:三成)に過ぎたるものが二つあり。島の左近と
	佐和山の城。」が残っている。

 

 




	関ヶ原の合戦は文字通り天下分け目の合戦だったが、この合戦ほど政治的な術策の中で行われたものはない。三成の西軍は、数の上か
	ら言っても布陣から言っても、負けるべき闘いではなかった。しかし慶長5年9月15日、闘いの火ぶたが切って落とされたときには
	既に雌雄は決していたとも言えるのである。合戦は早朝に開始され昼過ぎには大勢が決まっていた。直接的には小早川秀秋の裏切りに
	原因していたとも言えるがそれは全てではなく、しいていうなら家康の方が何枚も役者が上だったと言うべきかも知れない。ぬかりな
	く打った家康の政治的な布石が死命を制したとも言える。三成が秀吉の元で経営的手腕を大いに発揮した話は列挙にいとまがない。彼
	はすぐれた官史であり官僚であり経営者でもあった。まだ秀吉に仕えて間もない頃、加藤清正や福島政則らとともに500石を賜った。
	この時三成は、500石は要らない代わりに、淀川や宇治川の葦(あし)を刈り取った税金を取り立てる権利をくれと言って秀吉を驚
	かせる。幾ら儲かるのだと訪ねる秀吉に、三成はすぐさま計算し「約1万石くらいになりまする」と答えている。



山の中腹に物見台が再現されている。関ヶ原が一望できる。








	このような才覚は、豪腕一直線でのし上がってきた武将達とは一線を画している。確執が生まれたとしても十分理解できる。現代でも、
	本社から来たエリートに対して支店の営業部長などは、「東大出の偉いさんに現場がわかるか!」と言ってうさん臭がる。家康はそこ
	を突いたのである。豊臣家のため、という大義名分で行動している三成に対して、秀吉恩顧の武将達は当然公式に拒絶はできない。
	秀吉から被った恩恵を考えれば、当然西軍として参加しなければならない。しかし三成はイケ好かない。あいつの下で指図されるのは
	御免被る。こういう輩の集団であった西軍にめがけて、家康は書状を送り続けるのである。「我が社へ来い。我が社なら今よりもっと
	優遇する。」「戦いに来るのはかまわないが、何もせずにじっとしていてくれ。形は西軍でもかまわない。とにかく兵は動かすな。」
	「ここぞと言うときに我が軍へ寝返れ。知行は今の5倍にも6倍にもしてやる。」家康は、関ヶ原合戦の直前まで、西軍と目されてい
	る武将達にこういう書簡を書き続ける。まさしくタヌキ親父の俗称に相応しいと言わざるを得ない。



 




	関ヶ原は午後になった。東西両軍の関心は松尾山に集中している。一進一退を続ける戦場に、松尾山に陣取る小早川勢が一気に駆け下
	って参戦すれば勝敗は一気に決まる。三成は再三使者を送るが、小早川金吾秀秋は動かない。秀秋は東軍に内通しており本人ももその
	気になっていたが、初戦からの東軍のもろさに躊躇していたのである。いつまでも決行をためらっていた。家康も再三使者を送るが梨
	のつぶてである。「おのれ、金吾の小倅めにたばかられたか!」と爪を咬んで怒ったと言われる。業を煮やした家康は、松尾山に向か
	って発砲するように命じる。威嚇射撃に驚いた小早川は、はじかれたようにいままで味方だった大谷刑部の陣に切り込んだ。ライ病を
	病んでいた大谷刑部は、この時既に盲目に近かったが、戸板に乗って奮戦した。
	しかし大谷の足下を固めていた西軍の、脇坂安治(わきざかやすはる)、朽木元綱(くちきもとつな)、小川祐忠(おがわすけただ)、
	赤座直保(あかざなおやす)の4部隊も、この事態を見て見方の敗北は免れないと判断し、小早川に続いて東軍に寝返った。戦況はこ
	の裏切りで逆転した。時刻は午後1時を過ぎていた。


 





島津義弘陣地

神明神社の入り口の鳥居脇、右手にある細い道を奥へ進んで行くと、神社のちょうど裏手あたりに、島津維新の陣跡がある。

 

 



 

 





関ヶ原の戦い・開戦地(小西行長陣地)

開戦地。小西陣跡と隣接する。背後に、宇喜多、小西、井伊など、最初にぶつかり合った武将達の旗が並ぶ。



 

 

 

 


	9月14日夜西軍は、決戦地を関ヶ原と決め、関ヶ原の小山や丘陵地に鶴翼の陣を敷き、赤坂から進出して来る東軍を誘い込み包囲
	殲滅する態勢を整えた。東軍は、西軍が西へ移動中との情報を得て、先峰を福島隊と決め、中山道を関ヶ原へと向った。9月15日
	朝、霧が晴れたのを機に、井伊、松平の騎馬隊数十騎が、先峰の福島隊の脇を通り抜け、宇喜多隊の前へ進出し発砲する。先陣の功
	を取られた福島隊も直ちに宇喜多隊に対して一斉射撃を行い、ここに関ヶ原合戦の火蓋が切って落とされた。この地が開戦地と定め
	られ、国史跡に指定されている。









関ヶ原の戦い・決戦地





 

 






	決戦地。広々とした田んぼの中に、石碑が立っていてかなり目立つ。小早川軍の反乱による大谷勢の壊滅は、たちまち小西行長、宇
	喜多秀家の陣をかき乱した。午後1時半、東軍は三成の笹尾山に向かって最後の総攻撃を集中させた。午後2時頃、勝敗は決した。
	しかし最後に残った西軍島津義弘(維新)の一隊が合戦の最後を飾った。1600人の勢力で関ヶ原に参戦した島津であったが、こ
	の頃には数百人を残すのみであった。家康の陣を正面に見据えて少しも陣列を崩さなかった。西軍敗北が明らかになったとき、大胆
	にも家康本陣をめがけて敵中突破を試みるのである。家康の本陣をかすめた島津勢は、そこから伊勢路に入り、追いすがる井伊直政
	の軍勢を切り伏せながら戦場を逃れた。堺の港に辿り着いた者わずかに84名という壮絶な撤退劇であった。

 

	島津は堺から薩摩(鹿児島)へ逃げ帰るのであるが、実に不思議なことに、この後も家康の再三の上洛要請も断り、征伐の脅しにも
	屈せず、結局徳川幕府下での安堵を勝ち得て明治まで生き延びるのである。この時島津が関ヶ原で潰えていれば、西郷隆盛も大久保
	通も出現せず、明治維新の実現はもっと遅れていたかも知れない。





西首塚



 



東首塚





 

 

 



 

 


	近江盆地と濃美平野を結ぶ交通路は、伊吹山地と鈴鹿山脈の地峡部・関ケ原を経由する。ここは古来から交通の要衝として知られ古く
	は中山道が、現在は新幹線や高速道路が通っている、東と西を結ぶ中心点のような場所である。ここを有名にしたのは、勿論1600
	年に起こった関ヶ原の合戦だが、古代にも「壬申の乱」の闘いの舞台にもなっている。

	徳川家康の率いる東軍と石田三成率いる豊臣側の西軍は、天下の覇権を賭けて両軍合わせて16万の大軍で関ヶ原に対峙した。当初の
	布陣と地形、及び兵力からすれば、戦略上西軍が圧倒的に有利な態勢であったと言われる。しかし、家康の謀略活動の結果、西軍で実
	際に戦いに参加した兵力は、参陣した軍勢の40%強に過ぎなかった。それでも西軍は前半には押し気味でやや有利に戦っていた。
	小早川秀秋の裏切りが無ければ、おそらく西軍の勝利だったに違いないというのは衆目の一致した意見であるが、この寝返りを契機に
	して西軍は一挙に崩れ、開戦後数時間で軍勢は壊滅した。明治初期のお雇い外国人で、明治政府軍隊の軍務指導に当たっていたドイツ
	帝国参謀本部付士官で戦術家の参謀クレメンス・メッケル少佐は、陸軍大学校の参謀旅行でここに来て、関ヶ原の戦いの布陣図を見せ
	られ、これは西軍が勝ったはずだと言っそうである。敗北を聞いて理解できないと言ったそうだが、謀略の結果で西軍の軍勢が動かな
	かったのを聞いて、ようやくその敗北を理解したという。






不破の関


	西首塚の向かいに「不破の関」跡があった。壬申の乱(672年)の翌年、天武天皇は都を守るためこの地に不破関を置き、越前の愛発、
	伊勢の鈴鹿とともに日本に三つの関所を作った。今回はこの他にも「歴史民俗資料館」や、弘文天皇の首が葬られているという「自
	害ケ峯」も廻ったがそれらは別コーナーにある。(博物館めぐり、天皇陵めぐり)。時間があれば小早川秀秋が布陣したという松尾
	山などにも登ってみたかったが、大阪で人と会う時間が迫っていたので断念した。もし次回があれば、今度は気候のいい時期に、弁
	当を持って自転車あたりでのんびりと巡ってみたいものだ。ちなみに、私の親戚にも小早川がいる。従兄弟達とは今も時々呑んでい
	るが、もともとの本籍地は広島地方なので、小早川秀秋の一族に繋がる家系なのだろうと思われる。子供の頃はよく「裏切り者!」
	とからかわれたそうだ。



 






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