Music: Octopus garden
古代ダム・狭山池を歩く
2001.4.8(日) 大阪狭山市
郷土の文化財を見学する会
狭山池博物館の重源座像(上左:レプリカ)と、三重県・新大仏寺の重源座像(上右:重要文化財)
よく晴れて、少し暑いくらいの4月8日、南海高野線の「北野田駅」に集合した我々は、古代の大規模ダム式灌漑施設
「狭山池」とその支流である西除川の灌漑用樋を見学した。勿論今では古代の有様は全く残っていない。川は全てコン
クリートで固められ、樋は金属のハンドルによる樋板で構築されているが、かってここを古代人が築いたのだと思って
見ると、先人達の生きる為の必死の努力と苦労が伝わってくる。
狭山池
現大阪狭山市の中央北寄りにある。東の羽曳野丘陵と西の狭山丘陵との間に位置し、池尻、半田、岩室にまたがる。
北流する西除川(にしよけがわ)と、その西側を北流する三津川(みつがわ)を堰き止めて造った人工池で、周囲約4
キロ、満水面積38.9ヘクタール、灌漑面積約570ヘクタール。北西岸から西除川が流出し、北東岸からは当池を
水源とする東除川(ひがしよけがわ)が流出する。
葛城山系の天野山を源流とする西除川(にしよけがわ:上流は天野川とも呼ばれる。)は、狭山池を形成した後、南河
内平野を北流して大和川左岸に注ぐ。
河内平野の東一帯は、生駒の麓を北流する石川および大和川とその支流によって潤っているが、西側一帯は、この狭山
池出現前は全くの荒野であったと想像される。この狭山池とそこから流れ出る東除川・西除川によって、ようやくこの
地方は灌漑されたのである。1400年の時を経ても今だにこの水は、この辺り一帯の稲作・畑作に貢献している。
その優れた景観は古くから知られ,大阪府の史跡・名勝に指定されており、現在はハイキングなどで賑わっている。
この池の築造については、以下の文献に見えるような由来・経緯・伝承を持っているが、はっきりした事は不明である。
狭山池は、「古事記」「日本書紀」にも登場する我が国最古の潅漑用の溜池(ダム)で、日本書紀、古事記には以下の
ような記事がある。
『日本書紀』崇神 天皇紀
六十二年秋七月乙卯朔丙辰,詔曰,農天下之大本也,民所恃以生也,今河内埴田水少,是以,其国百姓怠於農事,
其多開池溝,以寛民業,冬十月,造依網池,十一月,苅坂池,反折池,一云,天皇居桑間宮,造之三池也
『古事記』垂仁天皇記
次,印色入日子命者,作血沼池,又狭山池
しかし考古学的な見地から、ほぼ6世紀末から7世紀にかけて築造されたものではないかとされている。
昭和63年から行われた、「平成の大改修」と呼ばれる大規模な改修工事に伴う発掘調査により、7世紀前半に築造され
た日本最古のダム式溜池であることが確認された。堤の最古の盛土から出た木材の年輪をしらべた結果,AD616年を示
していたのである。即、築造年とは見なせないが、その後数年乃至数十年のうちに用いられたものと思われる。
狭山池は、以来1400年間にわたり何度も改修工事が行われ,その記録が周辺民家の古文書に残されている。その中に
は,地震で池の堤防が壊れたという記述も見え、大阪府の調査で、池の底から8mを上回る厚さの堆積物が確認された。
堆積物の下半部は細粒砂と粘土・シルトの互層で所々粗粒砂層を挟んでいる。上半部には礫混じりの粗粒砂からなる
厚い砂層があり,その上を粘土・シルト層が覆っており、これは明らかに、狭山池に残る地震の痕跡であると認めら
れ、古記録が事実であったことが証明された。
土手や設備は最新のものに修復されているが、水路そのものは古代から全く同じ所を流れているのだ。
下右は、狭山池および博物館を目指して歩く今日の参加者達。70名ほどいただろうか。私は殆どビリの方にいる。
狭山池は古くから、行基や重源(ちょうげん.1120〜1206.86歳) といった有名な僧の手で改修が行われ,江戸時
代の初期には豊臣秀頼(1593〜1616) の命を受けた片桐且元(かたぎりかつもと.1556〜1615 )が大規模な改修工事
を行うなどの記録も残されており,現在までこれらの改修を経ながら、南河内の拠点的用水源として使われてきた。
多くの農地に水の恵みを与え続けてきたのである。これらの狭山池改修の歴史は、とりもなおさず、日本の土地開
発の歴史と大きく関係している。
この水門も、設備は金属とコンクリートになったが昔からここにあったのだ。
ダム管理事務所の桜も、今、匂うがごとく咲き誇る。
初めて見る私には結構な広さに見えたが、昔を知る人は「あぁーあ、狭もうなって。」と嘆いていた。
そんなにデカいダムを古代に作っていたとは驚きだ!
我々が訪れた2001年4月8日現在も、「平成の大修理」として大規模な工事が行われていた。
また、数次にわたる改修工事の際の遺物や出土品は、2001年3月28日狭山池のすぐ側にオープンした「大阪府立狭山
池博物館」に収納・展示されている。我々もこの後訪れるのだが、かっての狭山城をイメージしたという総石垣仕
立ての敷地上に、ものすごい施設が誕生している。歴史ファンとしては非常に嬉しいが、一大阪府民としては、再
建団体一歩手前という財政赤字の大阪府にどうしてこんな金があるのだろうと複雑な気持ちである。
以下の文章は、当日配布の資料による。(大阪府文化財調査研究センター)
【古代・中世】
「日本書紀」崇神天皇62年7月2日の条に、天皇が「農は天下の大本なり。(中略)今、河内の狭山の植田水少なし。
是を以て其の国の百姓、農のことを怠る。其れ多に池溝を開きて民業を寛かにせよ」と詔したとあり、「古事記」
垂仁天皇の段には、垂仁の皇子「印色入日子命」が血沼(ちぬ)池などとともに狭山池を造ったとある。伝説では
あるが、ここに見える狭山池が上記の狭山池にあたるものであろう。
実際の築造年代は記紀の伝えより古く、池の内側の斜面に少なくとも5ケ所の須恵器の窯跡が発見されている事か
ら、その窯の廃絶したのち、すなわち6世紀末ないし7世紀初頭ではないかと言われている。(大阪府史)
「続日本記」天平4年(732)12月17日の条に、「築河内国丹比郡狭山下池」との記述が見える。「行基年譜」には
同3年の項に、「狭山池院 2月9日起 尼院 己上在河内国丹比郡狭山里」とあり、また同書所収の「天平十三年
記」は行基の築いた池15ケ所の中に「狭山池」をあげる。おそらく行基は狭山池の畔に狭山院と尼院を建て、そこ
に集まる信者の力で狭山池を修理し、さらに狭山下池を築き、水利の便の増大を図ったのであろう。この時造られ
た下池は、大阪狭山市の太満池(たいまいけ)又は堺市野田にあった轟池(とどろきいけ)かと言われる。
「続日本記」天平宝字6年(762)4月8日の条に、狭山池の堤が決壊したので延べ83,000人の人夫を使って修造したと
ある。下って鎌倉時代には僧重源が狭山池を修理し、石樋を六段に置いたことが「南無阿弥陀仏作善集」にみえる。
この時の樋と思われるものが大正14年(1925)の大修理の際に発見されたが、石樋には家型石棺の身や蓋で造られた
ものがあり、いま北の堤の裾に置かれている。なおこの石棺は富田林市のお亀石古墳付近にあったものらしい。
(狭山町史)永禄年間(1558−70)には、畠山氏の被官安見氏が修復を試みたが成功しなかったという。
【近世】
慶長13年(1608)、豊臣秀頼のもとで大改修が行われた。奉行は片桐旦元で、林又右衛門・小島吉衛門・玉井助兵衛
の三人を下奉行とし、池尻孫左衛門以下五人が下奉行の元で水下の摂津泉三国の農民を人夫として徴用した。
(狭山池樋板銘文)
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