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堺ウォーキング 2001.6.24(日)
安部晴明神社



		安倍晴明神社は、阿倍野元町5ー16、旧熊野街道に面している。祭神はその名の通り、天文学者にして陰陽師としても
		名高い、安部晴明である。時々周期的に人気が出るが、最近またその人気がピークである。本屋に行くと陰陽道関係の
		書籍に混じって「安部晴明本」も山と並んでいる。
		境内は、木々の葉陰に覆われて薄暗く狭い。京都の晴明神社も狭いがここも劣らない。狐の子という伝説から、境内の
		塔の上には狐が玉を銜(くわ)えて参拝者を迎えている。普通の神社とは何かちょっと違う雰囲気がある。

 













 

 

 



		阿部王子神社の由緒書きによると、


		●祭神安部晴明公

		安部晴明公は古代豪族阿部氏の出で、伝説では平安時代の天慶7年(944)3月辰の日辰の刻に阿部野に生誕せられ、
		又一説では延喜21年(921)、幼名は安部童子、資性英明で学問を好み、京都に上り陰陽家賀茂忠行とその子息保憲
		に師事し、陰陽推算の術を修め、天文博士、陰陽頭(オンヨウノカミ)、播磨守等を歴任し、従四位上に叙せられま
		した。天文を見てあらゆる事を占い、花山天皇の退位を予知したり、大江山の鬼退治を指導したこと等は有名で、百
		占奇中神の如しと称せられました。また職神(一種の精霊)を自在に駆使したといわれ、そうした逸話が「今昔物語」
		等に伝えられている。
		子孫は土御門家を称し、代々陰陽頭となり、江戸時代でも幕府で作られた暦は一旦朝廷に送られ、土御門家が暦注吉凶
		を加筆した上で頒布された。
		また晴明公は、寛弘2年(1005)9月26日京都の堀川邸で亡くなり、(享年62才、系図では85才)邸跡(京都市上京区
		堀川通り一条上ル)は現在晴明神社と成っている。また墓所は上京区嵯峨天竜寺の近く(旧境内)、長慶天皇陵の縁部
		に現存している。(現在晴明神社飛地境内)


 



 



		●晴明神社沿革

		安部晴明神社は、晴明公没後2年の寛弘4年の創建と伝え、晴明公の子孫と称する保田家が代々社家として	奉仕し、
		江戸時代には大社の一として、大阪城代更迭の際は特に当社の参拝され、古文書拝観を例とした程の格式ある神社で
		あったが、幕末社家の没落とともに衰微し、明治時代には文政年間堺の住人神奈辺大道心が建立した、「安部晴明
		誕生地」の石碑と小祠のみであった。明治末に復興が計画され、大正10年阿部王子神社の末社として復興が認可され、
		社家の子孫の保田伊之助が旧社地を寄進して、大正14年現在の社殿が竣工した。


		と言うことであり、毎年、命日の9月26日には晴明祭(せいめいさい)が行われている。また、阿部晴明の生誕物語は、
		「葛之葉子別れ伝説」として有名であり、江戸時代に竹田出雲が「芦屋道満大内鑑」として脚色し、歌舞伎や文楽で
		取り上げられ、全国的に有名になった。


		「葛之葉子別れ伝説」

		今から1000年の昔、大阪は阿倍野に、安部保名と言う者が住んでいた。ある時家臣と和泉の信田明神(しのだ
		みょうじん:聖神社)に参拝し、信田の森に遊んだ処、狩に追われた白狐が逃げ込みこれを匿ってやった。その後
		恩返しに、白狐は女となって保名の元を訪れ子をもうける。女の名が「葛之葉」である。二人が住んだのがこの神社
		の辺りと伝えられる。生まれた子を「安部童子」と名付けたが、童子は長じて母の影に狐の姿を見て驚く。
		これを恥じた「葛之葉」は障子に歌を書き残し信田の森へ逃げ帰る。

				「恋しくば尋ねきてみよ 和泉なる信田の森の 恨み葛の葉」

		童子が泣くので、保名は童子を連れて信田の森へ行くと葛之葉が現れ、童子に「知恵の玉」を授けた。
		これにより、童子は予知能力や他の能力を身につけることが出来たと言う。この童子が阿倍晴明である。



 





阿部王子神社

かっての熊野詣でで賑わった旧熊野街道に面している。阿部王子(遙拝所)があった所である。
現在では安部晴明神社は、この神社の末社ということになっている。

 

 



 

 





この経塚の案内は下の「晴明丘公園」の隅に立っていた。それにしてもこんな名前の公園なんて・・・。

 

 







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