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堺ウォーキング
2001.6.24(日)





		千利休屋敷跡 

		大永2年(1522)に堺の豪商の長男として生まれた千利休は、若くして茶湯を学び、信長、秀吉の茶頭をつとめ、
		侘茶を大成した。屋敷跡にはひっそりと 椿の井戸が残っている。 ビルとビルの谷間にあり、聞いても近所の
		人も知らないから、なかなか見つけにくい。



 


		利休は魚屋(ととや)という屋号を持ち、本名を田中(納屋とも言う)与四郎という豪商だった。初め北向道陳に茶湯
		を学び、のち武野紹鴎に師事し、南宗寺の大林宗套に参禅して宗易の号を受けた。茶禅一味の悟りに達し、侘茶
		を完成した。同じ堺の豪商だった今井宗久の推挙で織田信長に仕え、次いで秀吉の茶頭となり、正親町天皇から
		利休居士の号を賜った。

 


		秀吉の北野大茶会では総監督の役割を演じ、天下一の茶人として種々工夫をこらし、わび、さびの境地を深めた。
		のち僭上の振る舞いありとして秀吉の怒りに触れ、天正19年(1591)2月28日に切腹を命ぜられた。

 


		利休の墓は、京都大徳寺内の聚光院にある。堺の南宗寺にはその遺髪を埋葬し、それを取り巻いて、表・裏・官休庵
		の三千家代々の供養塔が建てられている。

 

周りはビルが立ち並び、会社や飲食店でひしめいている。この屋敷跡だけぽっかり空いた空き地である。
阪堺電車「宿院」駅の西側、電車通りから一本通りを入った所にあるが、案内も何もなく通りからは見えない。





電車道の際(道路の真ん中あたり)に、「明治天皇何とか・・」と書いた石碑が立っていたが、歩道からは遠くてよく見えなかった。(下右)

 



 

「安部晴明神社」は大阪市阿倍野区にある。この後(今日の最後の訪問地かな?)、寄る予定である。



2002.4.29(祝)連休に再び訪問

驚いた、ここもきれいに整備されている。

 

 

 

 

 


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