Music: mr.lonely
堺ウォーキング
2001.6.24(日)









		妙国寺

		日蓮宗広普山妙国寺。永禄4年(1561)、摂津・河内・和泉を領した三好義賢(実休)が京都頂妙寺の日晄(にっこう)に帰依、東西3丁・南北5丁の
		土地と蘇鉄の木を寄進したことに始まる。翌年、義賢は戦死し、そのままになっていた寺地に日晄の父、油屋(伊達)常言(じょうごん)が堂宇
		造営料を寄進し、天正11年(1583)頃には壮大な寺観を呈した。墓には義賢の墓がある。

		この寺には、創建時に寄進された蘇鉄(ソテツ)が今も境内に行き続けており、国の天然記念物となっている。
		高さ7m、周囲17mもあって、見学者が絶えない。かって信長が、安土城に移植したとき、夜な夜な「堺に帰ろう」と泣き、切り倒そうとすると
		血が出たので、再びこの寺へ戻した、という伝説を持つ。

 

		というような、一般的な上記の寺の縁起より、この寺は「堺事件」の侍たちの割腹の場所としての方が有名である。上右の石碑にも、
		「とさのさむらいはらきりのはか」と記してある。

		実はここにくるまで(堺探訪を計画するまで)、この事件のことは知らなかった。昔知った事はあるのかもしれないが、記憶には全くなかった。
		知って驚きである。こんな事が起きていたのか、という驚きとその割腹の場の情況があまりに凄惨で、なんじゃこりゃという思いと、封建制の
		元における国際間外交の力関係が、いかに悲惨な情況を作り出すかという事にも驚いてしまった。

 


		堺事件

		慶応4年(1868)2月15日、フランス軍艦デュクプレス号が堺沖に回航し、数十名が2隻のボートで上陸した。当時、堺の町は土佐藩の兵士が警備
		していた。箕浦猪之吉(みのうらいのきち)・西村左平次(にしむらさへいじ)を隊長とする藩兵たちは、何のために上陸してきたかわからない
		フランス人水兵を船に戻すべく、説得に出動した。しかしことばが通じず、また水兵が店先にあった隊旗を奪うなどの行為に出たため、7人を
		殺傷するという結果になった。これは諸外国の強く抗議する所となり、下手人である隊長以下全員を斬首する事、土佐藩がフランスに15万ドル
		を支払うこと、など5項目の要求を政府に突きつけた。その結果、2月23日、箕浦・西村両隊長以下20名が妙国寺で切腹する事になった。

		切腹には日仏代表が立ち会ったが、順々に切腹していく者達が、フランス代表をものすごい形相でにらみつけ、中には死に往きながら
		罵詈雑言を代表に投げかける者もおり、箕浦に至っては、割腹した腹から飛び出した内蔵を自らの手でつかみ、代表に投げつけるという、
		凄惨を極める光景となった。
		青ざめていたフランス代表は、11人が切腹したところで残りの者の助命を乞い、引き上げてしまった。
		のこり9名は口々に、「俺も殺せ!」と去るフランス代表に向かって叫び続けたと記録されている。

 

		ここは、十一人が割腹した場所である。この時果てた11人の墓は、妙国寺向かいの宝珠院にある。
		ここと、事件発生の地にも、「烈士十一人記念碑」が建てられているが、上には「嗚呼 殉難」と彫刻されている。
		「ああ!」と刻むしかなかった気持ちが分かり、涙がでそうになる。











妙国寺前の道路を挟んで向かいが宝珠院である。今は幼稚園になっていて、11人の墓はここにある。

 

 


		墓石は和泉砂岩のため損傷がひどく、昭和45年(1970)、樹脂を注入して補修が行われた。「土佐十一烈士墓」として国史跡に指定されている。
		園児たちが遊ぶすべり台やブランコの片隅に、墓はひっそりと佇む。11人の霊魂は、脇で遊ぶ子らを見て、一体何を思うのだろうと考えてしまった。











		西ルイス宅跡・本受寺

		宝珠院の2,3軒西側に「西るいす宅跡」の碑が立っている。
		西ルイスは肥前の大村丹後守喜前(よしさき)の家臣で、大浦で700石の領地を持っていた。本名宗真、「ルイス」(類子)は洗礼名である。
		近世初期の代表的な朱印船貿易家の一人であり、イスパニア語に通じ、フィリピンの国情にも詳しく、たびたび朱印船でルソン島に渡航した。
		慶長12年(1607)、駿府で徳川家康に親しく謁見を許され、彼の地の情報を提供した。元和2年(1616)になって堺に家屋敷を構え、法華宗に改宗した。




		西ルイス宅跡の東隣りに日蓮宗本受寺がある。墓は五輪塔で、「東漸院宗真日源居士、正保三年(1646)丙戌正月五日」と刻まれている。
		この寺には家康下賜の呂宋(るそん)渡海朱印状や陣羽織など、ルイスの遺品も所蔵されている。




本受寺で応対してくれたおばさんは、「いやぁもうすっかり寂れちゃってねぇ。」と嘆いていた。「裏にはキリシタン灯籠もあるから、見てってよ。」


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