Music: 雨
雨の本能寺
2000.4.30(日) 京都市中京区
天正10年(1582)6月1日。その夜明智光秀は、丹波亀岡から1万3千の兵を率いて京への道、老いの坂を越えた。
丹波街道はやがて桂川にぶつかる。南に道をとれば秀吉の待つ中国路へと至る。しかし光秀は、桂川を渡るように命
じた。そして全軍にはじめてその攻撃目標を明かすのである。わが敵は本能寺にあり。
その3ケ月前、甲斐の武田を滅ぼして、信長の天下統一は着々と進んでいた。それは、信長軍の戦線が最も伸びきっ
ていた時期である。柴田は北陸に、滝川は上州に、丹羽は四国へと向かっていた。そして毛利を攻めあぐねている秀
吉からは援軍の要請があり、信長は自ら中国へ出陣する事を決め、5月末、京都本能寺で出陣の気を養った。この時
信長の廻りには、森蘭丸らの官房官を含めわずかに100人足らずの護衛がいるのみであった。
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6月2日早朝、光秀の軍は本能寺を囲んだ。本能寺は廻りに塀をめぐらし木戸を設けていた。しかしあまりにも守護
兵の数が少なかった。またたくまに光秀軍は乱入した。一説によると、この時信長は側の者に反乱者は誰だと聞いた
と言う。光秀だと従者が答えると「光秀か、是非もない。」と答えたそうである。真偽のほどは定かではないが、こ
れは非常に考えさせられる逸話のように思える。
信長は自ら弓を持って戦い、弦が切れると槍をとって戦った。しかし敗色濃いことをさとると屋敷に火をかけ、割腹
して果てた。有名な「人生50年、流転のうちを比ぶれば・・・」と歌って舞を舞ったのはこの時である。森蘭丸、
坊丸、力丸の3兄弟以下、7,80人がこれに殉じた。この時の戦死者名は境内の立て看板に残らず書き記してある。
「信長公記」
「・・・・是れは謀叛か、如何なる者の企てぞと、御諚のところに、森乱(小姓の森蘭丸)申す様に、明智が者と見
え申し候と、言上候えば是非に及ばず(やむをえない/仕方がない)と、上意候。」
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光秀の軍は同時に信長の長男信忠をも攻めた。信忠と、京都所司代村井貞勝は、兵500とともに二条御所に立てこ
もったが、破れて自害した。この村井貞勝は、かって光秀と手を組んで働いた事のある優秀な官吏である。信長の京
都支配はこの2人の力で成功したとも言われている。
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光秀はどうして信長を殺したのであろうか? 実は「本能寺の変」がなぜ起こったかについて定説はない。つまり、
よくわからないのである。映画や演劇では、信長がことさら光秀につらくあたり、それを恨んだ光秀が挙に出たとす
る節が一般的だが、実は信長は誰に対しても厳しく接しているのである。ことさら光秀のみが不当な仕打ちを受け
たと思える例はわずかである。秀吉などは客観的には光秀の10倍くらい辛い仕打ちを信長から受けている。それでも
秀吉は信長に忠誠を尽くしているのである。
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考えられるのは、信長は横暴で巨大で尊大で計り知れない腕力を備えたボス犬で、ボスの顔色を窺う忠犬達の中で一
番先に光秀がその緊張感に耐えられなくなった、という事ではないだろうか。信長の専横さは、いずれその忠犬ども
の中から「もうイヤだ!」と発狂する者を生み出しかねない危なさを秘めていた。光秀でなくても、柴田勝家か、木
下藤吉郎か、丹羽長秀か、誰かがその緊張から逃れようと爆発したのではないかと思える。誰が本能寺に攻めてきた
のかを聞きたがり、「是非もない」と本当につぶやいたとすれば、その事を信長自身よく知っていたのではないかと
思えてくる。
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建500年の間に、度重なる焼失のため、七度の建立を繰り返した。法華宗本門流大本山。応永22年(1415)に日
隆(にちりゅう)によって油小路高辻に創建され、当初は「本応寺」と称した。永享元年(1429)に内野(うちの)
に再建され、永享5年(1433)には大宮六角に移転した。天文5年(1536)に比叡山山門衆徒の攻撃、いわゆる天文
法華の乱で焼失した。天文16年(1547)頃、四条坊門西洞院に再建されたが本能寺の変で焼失。再建中に豊臣秀吉
の寺町寺院街造営により現在地に移転を命じられ、天正20年(1592)に完成した。元治元年(1864)の大火で諸堂
はほとんど焼失し、現在の建物は昭和3年(1928)に建立されたものである。宝物展示室には、信長の遺品や桃山時
代の工芸品も多数所蔵されており公開している。文化財には国宝の伝藤原行成筆書巻(本能寺切)などがある。
「本能寺址」石柱は中京区油小路通蛸薬師山田町に立っている。現在は廃校となった本能寺小学校のあたりである。
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