Music: 涙なみだの太閤はん

大阪市中央区 99.10.6(土)



<大阪城の歴史>

	明応5年(1496)の秋、浄土真宗の蓮如上人が今の大阪城付近に1軒の坊舎を営んだ。この坊舎はやがて大坂本願寺(石山本願寺)と
	呼ばれる大寺院に成長し、折からの戦国の世にあっておおいに権勢を奮ったが、やがて台頭してきた織田信長に抵抗し、その為に天
	正8年(1580)陥落させられてしまう。ところがまもなく信長は本能寺で自刃してしまい、その後を継いだ豊臣秀吉が新たに大坂を
	手に入れ本願寺跡へ入る。石山本願寺跡を手に入れた秀吉は、全国統一の本拠地をこの大阪と定め、天正11年(1583)雄大極まり
	ない大阪城の建築に着手した。15年かかって三国無双と評される豪壮な城郭を完成させたが、その規模は現在の大阪城の4〜5倍とい
	う広大なものであり本丸中央には金色に輝く天守が聳えていた。しかしその豪壮無比の城も、秀吉の死後17年を経た慶長20年=元和
	元年(1615)、大阪夏の陣で豊臣家滅亡とともに全て焼失してしまった。

	夏の陣後大阪城は一時松平忠明の領地となったが、豊臣残党による再決起を警戒した将軍秀忠はまもなく大阪を直轄地とし、元和6
	年(1920)幕府による大阪城の大規模な修築工事に取りかかった。10年の歳月と幕府の威信をかけて再建された大阪城は、全区画に渡
	る大規模な盛り土と石垣の積み上げ、掘の掘り下げが行われ、天守閣も15mも高くなるなど、豊臣秀吉が建築したものとは全く異な
	るものになってしまった。
	寛永6年(1629)に完成したこの城も、完成から36年後の寛文5年(1665)、落雷のため天守閣が焼失し以後江戸時代を通じて再建さ
	れることは無かった。幕末になって、町人の御用金を集めて大手門多聞櫓の再建をはじめ大修理が行われたが、明治維新の動乱で三
	たび焼失し、わずかに大手門と多聞櫓などの一部を残すのみとなった。

	昭和6年(1931)、当時の大阪市長関一(せきはじめ)の提案と大阪市民の募金により鉄筋コンクリート造り地上55mの天守閣が再建
	された。しかし太平洋戦争では、城内及び周辺に多くの軍事関係施設があったため(現博物館は陸軍第4師団の総司令部だった。)
	激しい爆撃にさらされ、天守閣を除いて殆どの建造物がまたまた焼失してしまう。こうして戦後を迎えた大阪城は、昭和23年(1948)
	から史跡公園として再出発することになり、翌年に天守閣の再開、その後櫓・蔵など古建造物の修復・復元等が行われ、博物館の開
	館、大阪城ホール・野外音楽堂なども建設され一大史跡公園となった。
	そして、平成7年から2年かけて昭和6年当時の天守閣を再現するため平成の大修理が行われ、外壁の塗り替え、金箔の押し直し、装
	飾部分の修復などが行われた。又、天守閣基礎部分は神戸の大震災を教訓に震度7にも耐えられるように補強され、エレベータの延
	長、車椅子による展望台見学路などが改善された。天守閣内部もシアタールームや VIDEOによる展示、ジオラマなどが新たに加わり
	歴史博物館としても充実した。現在天守閣は内と外からライトアップされ、白亜の壁と黄金色が大阪の夜に輝いている。





 


	歴史倶楽部例会で「大阪城ウォツチング」という催しに参加した。普段見れない大阪城をこの日は見学できるとあってみんな期待して
	参加。本日の参加者。服部、河原、栗本、松田、井上 & 反省会だけ来た東江の各氏。



大阪城天守閣館長、渡辺武先生の解説案内で見学スタート。

 


	集合場所の大手門からさっそく新しい発見。控え柱の柱次ぎの方法について渡辺先生が解説してくれる。実に不思議な切り込みで柱
	を継いである。この継ぎ方について、いつか全国の大工さん相手にその回答を募集した所、兵庫の大工さんが正解だったそうである。
	四方どこから押しても全然ズレないように継いであるのだ。専門家の知恵というのはすごい。

 

 

	多聞櫓
	
	多聞とは松永久秀の多聞城の櫓(やぐら)に由来する様式名で、他にもあったが現存しているのはこれのみ。(下右)櫓の鉄門を大手
	の大門(おおもん)、上部を渡櫓(わたりやぐら)、南に折れ曲がった部分を続櫓(つづきやぐら)という。会わせた面積は600u、
	高さは17.7mもある。寛永5年(1628)創建、嘉永元年(1848)再建、昭和44年(1969)解体修理。

 

多聞櫓は普段は閉まっている。申請しなければ見せてもらえないが今日は特別に拝観料なしで入れてくれた。

 

 

 

 







	千貫櫓
	
	大手門を北西部から防御する重要な二層の隅櫓。名前の由来は、石山本願寺を攻めた信長軍にとって難攻不落の櫓がこの付近にあ
	って、「この櫓を落とした者には千貫を与えるぞ。」と言ったことから来ているという。元和6年(1620)造営、昭和36年(1961)解
	体修理。千貫櫓の銃眼(下左)。今年は紅葉が遅く、大阪城内もやっと色づき始めていた。(下右)


 

 

 

 



 

 


	上下の木をよく見ると小さな花が咲いている。桜である。大阪城内には冬咲く桜が3本あって、歩行路からは一寸はずれているため
	殆どの人は知らない。大阪城は大阪市民にとってただの史跡というだけではない。花見の場所でもあり、BIRD WATCHERにとっては格
	好の鳥見場所でもある。
	私も日本野鳥の会の会員だが、昔は良くここにBird Watchingに来た。初夏の頃には驚くほど沢山の鳥を見ることが出来る。普段は海
	岸に居るイソヒヨドリなんかも昔は石垣の穴に巣を作っていた。最近は歴史とPCにかまけてBird WatchingもBird Carving(木で
	鳥の模型を造る趣味)もやらなくなってしまった。

 





 

 





 


	私は九州生まれである。大学を卒業するまで博多にいた。30代の終わりに東京に3年間赴任したが、それ以外はずっと大阪で生活して
	いる。住まいこそ大阪、兵庫、京都、そして又大阪と転居したけれども、生活圏はほぼ大阪である。今年で、福岡と大阪で暮らした年数
	が同じになった。武田鉄也じゃないけれど、「思えば遠くへきたもんだ」。会社の東京人達の目から見ると、私などは典型的な難波の商
	人(あきんど)風に見えるらしい。しかし根っからの大阪人達を見ていると、今でも自分はよそ者であるという感じを拭えない。まだ大
	阪人にはなり切っていないという気がする。なりたいのかどうかも良くわからない。博多から来たという事と、東京に3年暮らしたとい
	う経験から私なりの「大阪観」を少し話してみたいと思う。

	東京は理屈の街、大阪は情の街とはよく言われる言葉だが、これは当たっていると思う。大雑把に言って「論理」の街、「感情」の街と
	いう区分は正しい。BUSINESSの分野に置いては勿論「論理」が先行するのだが、局面局面において「感情」が影響している場合も多い。
	又、誉め言葉として「権威におもねらない。」「反骨精神がある。」とも良く言われる。しかしこれは裏返せば「自分勝手」「わがまま」
	という事と表裏一体である。赤信号でも平気でわたるし、路上駐車は全国ワースト1である。体裁や体面にはあまりこだわらない。ザッ
	クバランで初対面の相手にも平気で自分の悩みをうち明けたりする。こんな事は東京ではまずあり得ない。
	こういう違いは一体どうして生まれたのであろうか。それは、東京、大阪という街の、歴史的な成立過程に起因している。周知のように、
	大阪には藩主が居なかった。冒頭記述したように江戸時代大阪は幕府の直轄地だった。代官がいるのみだったのだ。ある学者によると江
	戸時代中頃には、大阪の人口は町人14万人に対して侍900人だそうである。侍が町を歩いている光景など殆ど無かったに等しい。力を持っ
	ていたのは豪商であり町役だったのだ。殆どのもめ事や相談事は侍達ではなく自分たちで解決していたであろうという事は容易に想像で
	きる。こんな町では理屈や法則はあまり通用しない。コネとカネがモノを言う。
	一方江戸では、地方から来ている侍達でごったがえしていた。庶民は下町の長屋に押し込められ、藩邸や蔵屋敷のひしめく山の手には行
	くこともなかったに違いない。慣習や風習の違う侍達が付き合うためには世間の常識や法則を遵守するしかない。ルールを守り、理詰め
	で付き合うからどうしても体面や世間体は重視される。庶民も侍達の風習に染まっていく。こうして理屈の町江戸が形成されていったの
	だ。
	こういう違いが現在の東京、大阪を形成している。町の大きさは勿論東京のほうが圧倒的であるし、文化度もダントツに違う。現在、歌
	手がRecordingできる本格的なスタジオは東京には100近くあるが大阪には2軒しかない。あらゆるモノが東京を中心に廻っている。その反
	動で大阪人は東京を嫌う。これは裏返せばコンプレックスである。しかしその劣等感が新たな東京にはないエネルギッシュなものを生み
	出している事もまた事実である。阪神タイガースのファンの心理は殆どこのコンプレックスを裏返した敵愾心である。
	私自身はいつまでこの大阪に住むのかわからないし、別に大阪が好きでもキライでもないが、大阪の町が持っている「庶民しか居ない」
	空気のようなものには愛着を感じている。



例によって、例会終了後の反省会。今回は大阪城から一番近い繁華街「京橋」にて。初参加の松田さんもよく飲む。

 








花の大阪城
2004.4.1(木)




















邪馬台国大研究・ホームページ /歴史倶楽部/ 大阪城WATCHING