SOUND: 青葉茂れる

2003.7.5 奥の院参道・武将達の墓


	高野山は、紀州「紀の川」の南方、海抜約900mの山上にあり、東西6km、南北3kmの、周囲を八葉蓮華になぞられた
	峰々に囲まれた、一大仏都である。真言宗の開祖空海(弘法大師)が、桓武天皇の勅許を得て、延暦23年(804)唐に渡り、
	唐の長安において、唐の国師である青龍寺恵果阿闍梨から真言密教を授かり、2年後帰朝してここに開山した。帰朝の船中か
	ら、師より授けられた三銛(さんこ:仏具)を空中に投げ、「伽藍建立の妙地を示し給え」と心に念じたところ、三銛は高野
	山の松の樹に掛かって、まばゆいばかりの光を放っていた。それを見た空海は、この地こそ真言密教の修禅にふさわしい地で
	あるとして開山を決意した、と伝わる。そして弘仁7年(816)太政官符をもって高野山の地を下付され、翌弘仁9年、空海
	は高野山に登り七里結界の法を修め、現在の大塔の地を中心に伽藍地鎮の式を執り行い、大塔・金堂をはじめ諸堂、僧房の建
	立を開始し、伽藍を中心とした一山を「金剛峯寺」(こんごうぶじ)と命名した。密教とはその名の通り秘密の教えである。
	一般には公開されない秘密の教えを含んだもので、一人の師匠にただ一人の弟子がついて教えを請い、遣唐使で唐に渡って密
	教を学んだ空海は、帰国後、密教を体系的に整理し「真言宗」を一般の人々に広めた。

高野山・奥の院




	以下は、平成10年(1998)3月末に高野山へ行った時のHPに書いた文章で、ここにそのまま転載する。
	
	高野山は、遣唐使として唐へ渡った空海(弘法大師)が開いた真言密教の根本道場である。高野山は和歌山県伊都郡高野町に
	あり、町全体は山に囲まれている。国道24号線から高野山道路を登っていくと、大門に始まり金剛峰寺を経て空海の眠る奥
	の院御廟まで、道路の両側に寺院が建ち並ぶ。標高800メートル、周囲を深山に囲まれ東西5.5キロ、南北 2.3キロの山上盆地
	だ。弘法大師・空海は 20歳で出家し、31歳の延暦23年(804年)、唐に渡り、都・長安で恵果和尚より正統密教をきわめ、
	8人目の阿闍梨遍照金剛の称号を得、大同元年( 806)に帰国してから、真言密教を全国各地に広めた。日本のあちこちに弘
	法大師逸話が残っている。嵯峨天皇より高野山を賜り弘仁7年(816)開山、これが高野山金剛峯寺の初めと言われている。
	それから20年後、大師は62歳の承和2年(835)3月21日に入定し即身成仏となり、今も奥の院御廟に葬られている。
	空海の死後も、高野山自体は勢力を伸ばし、戦国時代には相当の所領(約16万石)を有した寺領権力となった為、織田信長
	はこれを焼こうとしたが果たさずに本能寺で果てた。高野山は豊臣秀吉に屈し、所領2万石33万坪を安堵されて生き延びる。
	徳川時代も幕府の庇護の元に、諸大名達の墓所として栄え今日に到っている。
	金剛峰寺は霊宝高野山の総本山として栄え、現在では全国に4000余りの末寺を持つ。大広間、柳の間(豊臣秀次は、ここ
	で切腹した。)、梅の間等々の部屋には、狩野元信、探幽、探斉らの襖絵があり有名である。本坊以外にも、別殿、奥殿、新
	書院、茶室等の建物があるが、現在の本坊は、文久3年(1863年)に再興したもので文化財となっている。

	即身仏となった弘法大師の御廟には、灯明、お香、読経が絶えることなく捧げられる。全世界1000万の信者達は、ここを
	聖壇としてあがめ、毎年100万人以上がこの高野山を訪れる。現代では、高野山の墓所を利用しているのは大名達ではなく
	企業である。Panasonic、SONY、SHARP、日産、トヨタといった名だたる企業の社墓が新しい墓地園に建てられている。花菱ア
	チャコや大河内傳次郎など、芸能人や有名人もここに墓がある。左の写真はロケット産業に強い明和工業(株)のものである。
	企業の墓は、トレードマークや社業を表した墓碑が多い。福助足袋は福助人形、飲料会社はコーラのビン、といった具合だ。
	日本写真家協会の墓は、写真業界に貢献した人々の顔写真が石に刻み込まれていた。一見写真を石に印刷したように見える。
	高野山は、時代が移り庇護者が変わっても、しぶとく生き残って行くに違いない




	壇上伽藍と称する聖地にはさまざまな御堂や塔が立ち並び、仏像や曼陀羅が参拝者を迎え、宿坊ではゆったりと湯につかり精
	進料理を味わって、参拝者は季節の仏都を味わうことが出来るが、この仏都のはずれに空海が没した「弘法大師御廟」がある。
	奥の院である。奥の院は壇上伽藍と並ぶ高野山の聖地で、承和2年(835)に入定した弘法大師の御廟の前には、灯篭堂(拝殿)
	があり、数知れぬ灯篭がゆらめいている。そして、そこへ至る2kmにおよぶうっそうとした杉木立の参道が、「奥の院参道」
	であり、参道の両側には秀吉以来の武将達、著名人、企業家達の墓標がひしめいているのである。



 

奥の院への入り口「一の橋」を渡るとすぐに墓標の林立が始まるが、左手に
博多の「米一丸」の碑があった。前回来たときには見逃していたようだ。

 
	【米一丸】の話。
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	駿河の国の木島長者と言われた貴福な人に子宝が授かり、米一丸と名付けられた。米一丸は才智抜群で十五歳の時に加冠、従
	四位、正直の名乗りを授かった。二十歳の時、絶世の美人と言われた八千代姫を娶い、結婚披露宴の為、父は八千代姫を連れ
	主筋にあたる京都の一条殿の館へ出掛けた。姫を一目見た一条殿は忽ち横恋慕し、米一丸を亡き者にして姫を側室にしようと
	企みをめぐらせた。
	一条殿は、博多に入質した太刀を取り返してきて欲しいと米一丸に命令した。しかしその太刀はとっくに人手に渡っており、
	挙句に一条殿の密命により米一丸は夜討にあい、この地(現福岡市東区米一丸)まで逃れて来たが、ここで自害した。一条殿
	はこれで米一丸の妻を自分の側室にできると思ったのだが、米一丸の自決を聞いた妻は、博多までおもむき、米一丸の墓の前
	で自決したのだ。これを見た地元の人々は、供養塔を建てて、米一丸らの魂を鎮めたという話。
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	福岡市東区には今も「米一丸」というバス停があり、九大の正門、農門に近い場所にこの供養塔がある。旧唐津街道と呼ばれ
	る道には通称「米一丸踏み切り」があり、九大生恐怖スポットの一つで、様々な幽霊話があった。これは、その米一丸をここ
	にも祀って供養したものである。博多では、「米一丸踏み切り」の怪談話は有名。



特攻隊の生き残り俳優「鶴田浩二」の墓。

 

仙台と伊予宇和島の伊達家は、親戚筋とあって墓所もすぐ側にある。



 

 

 

 


	一の橋口から東へ広がる一帯も広い意味で「奥の院」と呼ばれる。一の橋は泉鏡花の「高野聖」で有名な場所。御廟までの約
	2kmの石畳参道の両側には、大小、新旧、数十万基とも言われる石塔が立ち並び、高野山を訪れる多くの人々は、この参道
	を通って弘法大師御廟所へ参詣するのである。参道は杉と高野槙の見事な並木道で、推定樹齢800年の平安期から残ってい
	る樹もあれば、新しいものもある。風化して姿も判らなくなった地蔵菩薩や、元は何かもうわからなくなったような石塔もあ
	る。これらの石塔は、時代、階層を越えた人々の墓碑で、隙間無く建てられ静かに並んでいるが、メインの通りは圧倒的に武
	将達の墓である。それも秀吉以降の、戦国時代から江戸時代にかけての大名達の墓所が多い。ここには敵味方の区別なく祀ら
	れているが、これだけいれば「関ヶ原の合戦」をここで行えそうである。(全墓標の約40%が大名墓と言う)

 



日向高鍋・秋月藩墓所

 


	我がふるさと筑前秋月にいたが、秀吉に逆らって敗れ、36万石から3万石に減額されて日向の高鍋へ流された、筑前の名門
	秋月家の墓所。秋月家はその後日向で江戸時代を生き延び、明治維新までを日向で過ごす。秋月が取り持つ縁で、秋月氏の後
	を受けて秋月へ入府した黒田家とも親戚関係を結んだ。高鍋へ流された直後は、生活苦から秋月へ逃げ帰ってきた藩士もいて、
	彼らが住み着いた所は、今も日向石(ひゅうがいし:日向士)という地名で秋月(福岡県甘木市)に残っている。





徳川頼宣墓所

 

 

 





武田信玄・勝頼

 



上杉謙信

 



空海が腰を掛けたという「腰掛け石」



紀州家歴代

 

 

 

 



阿波・蜂須賀家墓所

 



因幡・池田家墓所

 

 



 

 

また日向高鍋の秋月藩墓所があった。同藩で幾つかの場所に墓所がある場合がある。資料には、一番碑、二番碑とか書いてある。



石田三成墓所



 



明智光秀墓所



 

 

 

 

 

 

 



初代・市川団十郎の墓

 

 

 



高麗陣敵味方供養碑





 



安芸・浅野家墓所

忠臣蔵で有名な赤穂・浅野家の本家。

 



この墓所はひどかった。まるで墓荒らしにあったみたいに荒れ放題だった。根来家に子孫はいないのだろうか。

 



長州・毛利家墓所

 



 





筑前・黒田家墓所

筑前・黒田家だけでは、福岡(博多)の黒田家か秋月の黒田家かよくわからなかったが、ここはどうも前者のようだ。

 

 

 

 



三番碑・前田家墓所



 

 

 




	奥の院最大の墓石は徳川2代将軍秀忠の正室・お江(おごう)の方のもので、高さは3mに及ぶ。秀忠の兄、結城秀康霊廟や、
	上杉家霊廟、佐竹家霊廟は近世初頭の代表的な霊廟建築として国重要文化財に指定されている。ちなみに、密教の思想に基づ
	いて建立が始められた五輪塔、多宝塔は高野山が発祥の地である。ここから全国に五輪塔、多宝塔の建立が広まって行った。

結城秀康石廟

結城(松平)秀康及び同母霊屋。慶長12年(1607)徳川家康が次男秀康のために建てた(重要文化財)。

 

 





筑前・黒田家墓所

これが我がふるさと、筑前秋月の墓所ではないかと思う。紋所は一緒だが、或いは福岡の黒田家かもしれない。



 



豊臣家墓所 高野山は秀吉によって安堵された。

 

そのせいか、この一族の墓所は一段高いところに設営されている。



 

 



播磨竜野・脇坂家墓所

 





織田信長墓所 信長は高野山を焼こうとしたが、本能寺に倒れた。

 

信長の墓石のすぐ左側に、まるで寄り添うように筒井順慶の墓石がたっている。

 



井伊掃部頭(直弼)の墓



 



伊達政宗の墓



 

 

 



浅野内匠頭墓所




	奥の院は、地表と川と橋の三重構成になっており、橋を渡ってからは死後の世界で、その下を流れる川を「三途の川」に見立
	てているのだという。皇室・貴族関係をはじめ、法然(浄土宗)、親鸞(浄土真宗)などの宗派をこえた各宗派の開祖、文人、
	庶民にいたるまであらゆる階層の人々が供養塔を建立している。各種団体も、戦死者・戦没者の供養塔を建て、高麗陣敵味方
	供養碑(秀吉朝鮮出兵時のもの)、空挺落下傘部隊供養碑、日本・朝鮮・漢・満州・蒙古・5民族の墓、ああ同期の桜供養塔、
	独立工兵第15聯隊の墓、英霊塔、大平洋戦争の犠牲者を祀る英霊殿などが並んでいる。動物の供養塔もあり、白蟻の墓、フ
	グ供養塔、犬や猫や蚊や虫などの「交通事故精霊の碑」などというものまであるのだ。全山が、あらゆるものの供養塔で埋め
	尽くされている。

 



弘法大師御廟

 


	弘法大師御廟(国史跡史蹟)。燈篭堂は仏教寺院には珍しい拝殿の形を持ち、その最奥部に弘法大師廟が祀られている。燈篭
	堂正面右奥には石田三成が母のために建てた経蔵(国重要文化財)がある。空海は835年3月21日、62歳の時生身のま
	ま定入したという伝説があり、五穀を絶って即神仏となり、高野山で永遠に生き続けているのである。その大師のそばに眠り
	たいという願望が、奥の院を今日見られるような壮大な菩提所にしたと考えられる。高野山は明治時代まで女人禁制であった。

 




	高野山へは、電車なら、南海高野線特急で、大阪難波駅から高野山駅まで約1時間半、急行で約2時間である。車なら、大阪
	の河内長野から国道371号で橋本へ出て、橋本から国道24号で高野口・九度山方面へ向かい、国道370線、480号線
	を経由して高野山へ登る。所要時間は大阪市内から約2時間で、駐車場は勿論有料だが、町中至る所にある。


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