Music: Twilight Zone
かぎろひの丘・万葉公園






	万葉の丘。推古19年(611)5月5日、宇陀野で薬猟(くすりがり)が行われ、男性は鹿を狩って鹿の若角を取り、女性は薬草を摘んだ。	また
	持統6年692)冬には、柿本人麻呂が軽皇子(後の文武天皇)に従って狩をし、有名な「東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月傾
	きぬ」の歌をよんでいる。ここに東屋がある事は道の駅でもらった地図にあったので、ここで昼食と決めて急いだ。雨の中、この季節に咲
	いている桜があった。公園には万葉植物の埴栽や遊歩道が整備され、人麻呂の歌碑もあり、はるかな万葉のロマンに浸ることができる。


 

 



 




	大海人皇子(後、天武天皇)が、兄天智天皇の息子大友皇子と政権を奪いあった闘い<壬申の乱>に勝利すると、天武天皇の皇后、宇野讃良
	(うののさらら皇女:後、持統天皇)は、天武の他の妃達の皇子でなく、自分の一人息子草壁皇子を次期天皇に望む。しかし草壁は病弱もあ
	り、天武の死後のもがり祭主争いもあって、なかなか即位出来なかった。そこで母は自ら政権を握り、最大の競合者大津皇子に謀反の罪をき
	せて処刑するのである。大津皇子は持統の実の姉の子、即ち血のつながった甥である。しかし母の期待むなしく草壁は、幼い軽皇子を残して
	27歳で死去してしまう。そこで持統は、軽皇子が即位するまで自分が正式に「持統天皇」として即位した。草壁の死の翌年である。その後、
	即位した軽皇子(文武天皇)も24歳で崩御し、そのまた一人息子首(おびと)皇子が聖武天皇として即位するまで、元明・元正の二女帝が、
	中継ぎ的即位をする。元明は草壁皇子の妃、元正は草壁皇子の娘、軽皇子から言えば母と姉で、首皇子から見ると祖母と伯母にあたる。

	皇位継承の大きな流れの中で、柿本人麻呂は、早死した草壁の子、軽皇子に供をしてこの狩り場へ来た。そして「東の野に炎の立つ見えてか
	へり見すれば月傾きぬ」と詠んだのである。歌人としては高名だが、持統・草壁・文武と親子三代に使えた人麻呂の、宮廷人としての生活や
	官僚生活はほとんど知られていない。



 






	「かぎろひ」には諸説あるが大宇陀町観光協会では、「厳冬の良く晴れた早朝、太陽が水平線上に現れる約1時間前に太陽光線のスペクトル
	によって現れる最初の陽光」という説を採用している。この説を基に天文学的に調査した結果、人麻呂がこの歌を詠んだのは、持統6年(692)
	陰暦11月17日(平成11年は12月24日)と推定された。町の観光協会では、毎年この日に当たる早朝に「かぎろひの丘・万葉公園」で「かぎろ
	ひを見る会」を催しているが、ここ数年「かぎろひ」は現れないとも言う。この日の大宇陀は、全国から押し寄せたカメラマンで一杯になる。
	当日参加者は焚き火を囲み、振る舞われた笹酒・芋汁で暖をとり、人麻呂が詠んだ雄大な阿騎野の「かぎろひ」現象を体現する時を待つ。

 

 

 



ここから眼下に、人麻呂公園・中之庄遺跡を望むことができる。





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